原水禁運動の歩み(2)
(原水禁国民会議の結成から統一大会前まで)


5、原水禁の結成

●3県連の呼びかけ

 このような状況を憂えた広島、長崎、静岡の3被爆地原水協から4月7日「原水禁運動の正常化のための被爆地からの呼びかけ」が発表された。これは「最近3ケ年ほど運動の混迷と停滞、さらに昨年の第9回大会を契機とする運動の亀裂は、被爆地としてたえがたいものである」という立場から出された切実なものであった。
 またこの呼びかけは「ここ2、3年来の原水禁運動が、日本共産党の支配介入によって混乱と対立状態におかれ、当然なすべき日常活動も行なえず、春になれば3・1、夏になれば8・6と、たんに人集めの行事をどう行なうかだけに関心がもたれ、それすらも満足に行なえない状態」に対する基本的な「運動の転換」を提起したものであった。
 すなわちその内容は第一に、国民運動としての原水禁運動の基本を堅持し、その当然の前提たる「いかなる国の核兵器にも反対する」ことを出発点とする立場にたって、部分核停条約を正当に評価し、これを第一歩として全面核停条約の締結を要求しつづけ、もって核兵器を含む軍備全廃、平和共存の達成に努力する。第二に、運動の政党系列化の弊害を排除し、国民の願望と感情に密着した運動を展開する。第3に、国民と密着した運動を展開するために地域原水禁組織の強化について格段の努力を払い、広範な国民の誰もが参加できるようなキメ細かな配慮をする。第四に、米原子力潜水艦の寄港反対、F105D配備反対など、当面の諸課題に対しては、それが原水禁運動にとって不可避的な問題であることを明らかにしつつ行動に取り組む。
 というものであった。この呼びかけは国内だけでなく、海外からも多くの共鳴をえた。
 そしてこの3県連の提唱によって開催された「原水爆禁止、被爆者救援、核武装阻止、軍備全廃を世界に訴える広島・長崎大会」(1964年8月)は、原水禁運動の正常化を願う国内外の諸努力の支持のもと、広島に2万、長崎に1万2000の代表を結集して開かれた。そこには各地域、職場の代表、65ケ国、12国際団体の海外代表が参加して盛大に開催され、原水禁運動の正常な基盤をつくりあげることができた。

●原水禁国民会議の結成

 この大会終了後、この大会に参加した団体、個人によって大会決議執行のための「大会実行委員会」がつくられ、これが発展して「原水爆禁止日本国民会議」(原水禁)が結成されたのである。
 原水禁は1965年2月1日の結成にあたり、過去の運動の苦しい経験にかんがみ、運動の正常化とゆるぎない基礎をつくるため、「原水禁運動の基本原則」を確立したのである。この基本原則は、1962年3月につくられた「基本原則」ならびに、63年2月の「2・21声明」の精神を生かし、「広島・長崎大会」の基調をもとに、運動の諸教訓を生かしてつくられたものである。

<原水爆禁止運動の基本原則(要旨)>

1.この運動は広島、長崎、ビキニの被爆原体験に基礎をおく。
2.いかなる国の核兵器の製造、貯蔵、実験、使用、拡散にも反対する。
3.この運動は平和憲法の理念を基礎とし、原水爆の禁止と完全軍縮が、社会体制の異なる国家間の平和共存のもとに達成できるという立場にたつ。
4.この運動は思想、宗教、政党政派をこえ、あらゆる階層の団体や個人を結集する広範な国民運動であり、誰もが参加できる民主的運動であるから、社会体制の変革を目的とする運動とは性格を異にし、特定政党に従属するものではない。
5.この運動は参加団体の性格を尊重し、各団体の合意によって統一行動を組み団結しこれを行うとともに、それぞれの団体の特徴を生かした独自行動を認めあう。そしてこの運動が関連する諸問題をとりあげ、取り組む場合は、すべての国の原水爆禁止、完全軍縮の立場にたち、参加団体の意見を尊重して行なう。

●原水禁国民会議と平和投票行動

 原水禁国民会議結成以降、さまざまな運動が展開されてきた。広島・長崎の原爆被爆を記念する集会を8月に開催するのをはじめ、各種の運動を試みてきた。
 「原水禁」が最初に試みたのは「日本非核武装宣言」を要求する「国民平和投票」運動であった。これは、各都道府県でモデル地区を設定し、全有権者の過半数をこの「投票」運動に組織しようというものであった。核武装に反対する世論は圧倒的に強いのであるから、これを平和投票の形式でまとめあげ、国会に要求して「日本非核武装宣言」をかちとろうという野心的なものであった。
 これは全国一律にはゆかなかったけれども、それなりの成果があった。とくに、本格的にこの運動を組織したところは、地域の人々を戸別訪問によって徹底的に説得したために、その後の運動の組織的な基礎をつくることにもなった。とくに北海道木古内町・三笠市、栃木県の足尾市、山梨県竜王町、長野県佐久市、岐阜県赤坂町、香川県の善通寺市、大分県臼杵市などはいずれも目標を達成し、「原水禁」の地域組織を固めることにもなった。

<モデル地区の成功例>
都市名 有権者数 投票数
北海道・木古内町 6.714 4.498 73.6※
〃 ・三笠市 26.000 18.625 69.0※
栃木県・佐野市 42.135 20.000 47.4
 〃 ・足尾町 8.958 5.000 55.7※
新潟県・糸魚川市 25.130 11.239 42.9
山梨県・竜王町 5.005 3.050 60.3
長野県・佐久市 35.328 19.210 54.3
岐阜県・赤坂町 7.305 4.415 60.4
 〃 ・坂下町 3.500 1.722 49.2
香川県・善通寺市 22.069 13.150 55.2※
佐賀県・大町町 8.690 4.000 46.0
大分県・臼杵市 25.880 14.730 56.8
※は非核武装宣言を決議したところ

●被爆者救援と援護法制定運動

 被爆者救援と援護法制定の運動は原水禁運動にとって片時も忘れることのできない運動であった。原水禁国民会議は結成時からこれを重視しさまざまな活動を展開してきた。原水禁世界大会開催にあたっては、大会の分担金とは別に「各県原水禁」が被爆者救援のカンパを拠出している。夏の大会だけで毎年400万から500万円のカンパが集めっており、被爆者救援の資金となっていた。その他に、日常的な救援カンパ運動、組織内におけるカンパ(とくに全電通、全逓婦人部では給料のなかの一円をすべて被爆者のカンパにあてるという運動を行なって大きな成果を収めた)なども行なわれている。
 被爆者救援法を要求する運動は、「日本被団協」を中心に進められ、「原水禁」は被団協を全面的に支持して運動を進めてきた。とくに1968年「被爆者特別措置法」を制置させる段階では、原水禁は全力をあげて活動し、被団協をあらゆるところから支援し、「被爆者援護法」には程遠いが、「医療法」をこえる、この法律をつくらせることに成功した。広島・長崎における地方自治体への働きかけ(広島県議会は1966年「被爆者対策特別委員会」をつくり、県としての援護対策をとるとともに政府に対して強力な働きかけを行ない、広島市、長崎市なども連帯していわゆる「八者協議会」をつくらせこれが結束して対政府要求行動を行なった)や被爆者の大衆行動(1967年3月には被団協結成以来の大行動が組織された)に「原水禁」は全力で取り組んだ。
 だが、1970年の森滝市郎氏の被団協理事長辞任以降は、日共が被団協の実質的指導権を握り、このような日本被団協と「原水禁」との友好関係に、ヒビが入り、共同行動が当初のようにはとりづらくなってきたことは否定できない。他方、被団協幹部が老齢化するなかで今度は、職場ごとの被爆者組織がつくられ、これが被爆者の運動に新しい活気をつくりだしているのが当時の特徴である。全電通、国労、日教組、全逓などのなかにそうした組織ができ、動きが活発となっていった。


6、被害の原点に依拠する運動

●原爆ドーム保存運動の成功

 1966年、当時の浜井広島市長は、原爆被害の惨状のシンボルともいうべき原爆ドームが風化し崩れかかっているのを見かねて、その永久保存を決意した。最初市議会にこれをはかったところ、一部保守系議員と共産党議員の市の「予算を使用するのはけしからない」という反対に出合った。この時にとった日本共産党の態度はじつに不可解であり、自民党の責任とともに永久に忘れられない。原爆ドームが存在する限り、日共の汚点は記憶されつづけるだろう。一時はこの保存構想の実現はまったく暗礁に乗り上げたかのようにすら思われたのである。そこで、ドーム保存の決意の固い浜井市長は、全国民に訴え、カンパを集めてもこれを保存しようと計画した。
 「原水禁」はこの浜井市長の計画の意義を積極的に評価し、大衆的な募金活動を決定した。もしも「原水禁」のこの決定がなければ、浜井市長もこの大胆な募金活動を全国に呼びかけることができなかったかもしれないのである。浜井市長は自らも街頭カンパの訴えにたち、「原水禁」は全国民的にドーム保存の募金活動を展開した。総評も正式にこの運動の支援を決定し、募金は瞬く間に集めっていった。この募金運動を真剣に行なったところでは、広範な国民的支持をうけ、超党派的な運動へと飛躍していった。わずか数ケ月間に募金は7000万円を超すにいたり、1967年4月には保存工事の起工式を行なった。
 全国津々浦々に運動は浸透し、「原爆ドームを保存しよう」という声が広まっていった。各県原水禁も積極的にこのカンパ活動を展開し、目標額はほとんどの府県で達成され、それを突破するところが多かった。もしも今日、原爆ドームを保存することによって、原爆被害のシンボルを残し、反原爆の国民感情を育てる一つの手懸りになりえてるとすれば、われわれのカンパ運動もこれに大きく貢献しているといってよいのである。(国民的支持の高揚を無視できなくなった日共本部は運動が峠を越し、終わり近くなってから10万円をカンパした)現在、原水禁のシンボルマークとなっているのは、このドームをもじってつくられたものである。


7、沖縄返還と核撤去闘争

●沖縄返還とB52撤去、原潜寄港反対の闘い

 1965年の米国の北ベトナム爆撃開始は極東の軍事緊張を極度に激化させ、平和共存を真っ向から脅かすものとなった。しかもこの北爆には沖縄の核基地が直接に利用されたのである。
 学者・知識人たちは、「ベトナムが極東の範囲に入らず、安保条約の適応区域ではないのだから、沖縄や日本本土を利用することは安保条約にも反する」と主張し、日本の北爆加担に抗議した。だが現実には、沖縄基地はベトナム戦争に利用され、その上、B52まで嘉手納空港に飛来するにいたった。沖縄県原水協(原水禁加盟)は、直ちにこれに抗議することを決め、大衆的デモを組織するとともに本土に直訴団を派遣してきた(1968年2月)。
 原水禁国民会議はこの時以降、沖縄問題に本格的に取り組むことを決めた。沖縄返還運動を支持するとともに、沖縄の核基地を撤去させることがその主題であった。もちろん沖縄には原爆被爆者がおり、本土とは差別された待遇をうけていた。法体系の違う沖縄で「原爆医療法」に準ずる法がつくられたのは、「医療法」制定後10年を経た1967年のことである。つまり被爆者も10年の格差をつけられたのだった。この差別された被爆者を救うこともかねてからの課題であった。
 こうして、「原水禁」は1968年以来、広島・長崎に次いで沖縄を重視し世界大会の一環として沖縄大会を開くことにしたのである。
 沖縄で「原水禁」が真先にとりあげたのは、B52の撤去であったが、それ以外にも課題は多い。まず原潜は沖縄県民の反対にもかかわらず那覇港にしばしば寄港していたし、核弾頭をつけたメースBも配備されている。沖縄県原水協(沖縄の原水禁)は米軍の妨害を蹴って那覇港の海底泥を採取し、「原水禁」はこれをひそかに科学者の分析に託した。この分析の結果、海底の泥からは大量のコバルト60その他が検出された(1968年)。原潜寄港による放射能汚染が判明するや魚の価格は暴落し、魚市場は恐慌状態となった。沖縄ではビキニの「死の灰」事件よりも「コバルト60事件」の方がショックは大きかったのである。当時の琉球政府や立法院も、「原潜寄港反対」を強く米高等弁務官に要求した。世論の強い非難の前についにアメリカは原潜の那覇港寄港を断念し、太平洋側のホワイトビーチに寄港地を変更するにいたった。

●沖縄核基地の調査活動

 沖縄に核兵器があることは暗黙の了解事項ではあるが、その実態は容易に明らかにすることはできない。毒ガス撤去に際しては、米軍は屋良政権の推せんする専門家・学者の基地内立ち会いを許した。この教訓を生かし、沖縄県原水協は基地の調査・点検活動を計画した。こうして軍事評論家小山内宏氏の協力の下に沖縄核基地を調査し、核兵器の所在をもほぼ確かめることができた(1971年6月発表)。
 1969年の「日米共同声明」によって、沖縄の核付き返還の構想は明らかとなった。72年の返還時には、米軍基地を防衛するために自衛隊が派遣されることも明らかとなった。
 沖縄県原水協は、この自衛隊派遣に反対する闘いを組織しはじめた。本土側の力不足でこの闘いは必ずしも足並みがそろったとはいえない。だが、本土・沖縄の両運動の連帯と結合は次第に具体的となってきた。自衛隊が「基地周辺整備法」を利用して、住民や地方自治体を懐柔していくやり方は本土側から沖縄に知らされ、沖縄側にとって大きな教訓としてこれは学ばれた。また、本土側のナイキ反対運動は沖縄に行き、米軍がかつて行なったナイキ・ハーキュリーズの実射訓練の被害の実情を聞き、いよいよ反対の決意を強めていった。このナイキ反対運動にみられる連帯のあり方は今後ともいよいよ重要となってくるだろう。


8、核の被害はつづく

●被爆の記録映画上映運動

 被爆から25年後の1970年ころになると被爆体験の風化が心配されるようになってきた。政府も意識的に「核アレルギー退治策」をとり、原爆を無視しようとした。中小学校の教科書からもヒロシマ、ナガサキを故意にとりのぞいてきた。
 一方、ベトナム反戦運動が一定の高まりを示すと、「原水爆運動はもう過去の運動だ」という若い活動家の声も聞こえてきた。果たしてそうであったろうか。原水禁運動はもうさしたる役割を果たさないものとなったのか。
 現実には、核兵器はますます巨大化し、ミサイルの性能もかつてとは比較にならないほど高度化している。原潜とくにポラリスやポセイドンは海中から、相手に壊滅的被害を与える能力を備え、日夜臨戦体制に入っているのである。核軍拡競争は、それを禁止する諸口にもついてはいない。
 「いかなる国の核兵器にも反対する」という核絶対否定の決意を固めた原水禁運動はなにをすればよいか。「原水禁」はこの被爆25周年を期して、忘れかけたヒロシマ、ナガサキの実相をあらためて再現し、国民にもう一度「原点」にもどった反原爆の意識をつくりだそうと計画した。まず、考えたのがアメリカ軍に没収された映画フィルムを紹介する運動であった。
 すでに、アメリカ側は没収したフィルムを日本に返還してきたが、日本政府は人体のむごい被爆場面のでてくるところはひどすぎるという理由でこれをカットし、公表しなかった。だがしかし、被害の真相をかくすことは正しくない。ここからでてきた運動がフィルムの全面公開を主張する「ノーカット運動」であった。
 原水禁国民会議は大久野陰の協力者をえて幸い、アメリカのコロンビア大学マスコミ・センターが被爆の惨状を編集した映画「ヒロシマ、ナガサキ――1945年8月」を入手することができた。映画は国民の圧倒的な歓迎をうけ、全国各地で自主上映運動が展開された。とくに若い青年男女は、これまで知らされていなかったヒロシマ、ナガサキの惨状をはじめてみて、感動し、たちまち運動の波紋はひろがっていった。
 全国各地でも状況は同じであり、これまで原水禁の影響外にあった人々や高校生たちが数多くこの映画上映運動に参加してきた。恐らく、数百万人の人々がこの映画をみたことであろう。原爆の社会的教育運動としては、この映画運動は画期的成功だったといえるのである。

●核実験反対運動と核の被害追求

 核兵器による被害は決して過去のことだけではない。今日もなお核の被害はつづいている。新たな加害行為もつづけられている。
 アメリカとソ連は地下核実験をつづけた。1970年、71年にアメリカはアリーシャン列島のアムチトカ地下核実験場で爆発実験を行なった。これまで比較的に運動の弱かったカナダからも反対の声が上がった。アメリカ西海岸でも反対運動が盛り上がってきた。平和団体だけではなく、今度は環境保護団体「グリーン・ピース」や「フレンズ・オブ・アース」も放射能による環境破壊に反対して強力な運動を展開しはじめた。「原水禁」はそれらの運動とたん念に連絡をとって国際的連帯をはじめた。
 フランスのムルロア環礁における核実験(1972・73年)にはさらに大きな反対運動が盛り上がった。オーストラリアやニュージーランドは政府が反対運動の先頭にたった。仏領タヒチをはじめフィージーや西サモアなど小さな島国でも反対運動は組織されてきた。このような世論を背景にして、ニュージーランドの平和団体(ピースメディア)は抗議のヨットを数隻実験区域に突入させた。「原水禁」もこれを支援する署名やカンパを起し、約1000ドルのカンパを送った。これは全国各地で少しずつ集められたものの集積である。都市であれ、職場であれ、少額でもフランスの核実験に反対して出されたカンパはこうして世界の平和運動を支える力となっており、運動はお互いに手をつなぎあっているのである。
 1974年のフランスの核実験には太平洋一円から広範な抗議の行動が起こった。オーストラリア政府はフランスを国際司法裁に訴え(73年)、ニュージーランド政府もフランスに実験中止を迫った。74年にはフリゲート艦「オタゴ」を実験水域近くまで派遣して抗議した。
 労働組合も強力な抗議を行ない、オーストラリア労働協議会(ACTU)は電信・電話・郵便・船舶・運輸関係部門でストを行なった。フィージー、サモア、エイリス諸島でも抗議行動が行なわれた。フランス国内でもデイスカールデスタン大統領の核実験強行に非難が高まった。官僚の一人ジャンジャック・セルバンシュレベールは実験に反対したために解任されてしまった。カソリックの神父やボラルディエール元将軍らも反対にたち上がった。
 無謀な核実験によって、地球が放射能汚染されてゆくことを黙過はできない。人類が生きのびるためにはいかなる国の核兵器にも反対してゆかなくてはならないのである。

●ミクロネシアの水爆実験の被害者調査

 核実験の被害はいまなおつづいている。原水爆の被害者はじつは日本人だけではなかったのである。こうした事実をつきとめ、それを世界に知らせることもまた原水禁運動の役目であろう。
 ミクロネシアから原水禁世界大会に参加したアタジ・バロス議員(1971年の被爆26周年大会)は、「ビキニの核実験の被害者を是非調査してほしい」と要請してきた。原水禁はこれに応えることを決め、71年末調査団をミクロネシアに派遣した。アメリカの妨害で被爆地であるロンゲラップやウトリック島には行けなかったが、マジェロ島で多くの被爆者に会うことができた。
 約243名が「死の灰」をあび被爆したが、41名はすでに死んでいた。ロンゲラップやウトリック島が放射線被ばくの最もひどかったところであるが、これらの人々は米原子力委(AEC)のモルモットとして利用され、まともな治療はうけていなかった。被爆者たちはビキニ事件の「死の灰」をあび、その直後ほとんど全員が急性の放射線障害症状を呈したという。広島、長崎と同じように、下痢・頭痛・脱毛そして白血球の減少を体験した。
 この原水禁の調査は英文となって各国の平和運動に送られて、各地の核実験反対運動の資料となっている。これら一連の活動を通して、「原水禁」はアジア太平洋一帯の連帯を追求することになった。環太平洋の国際連帯を指向し、1975年4月には、フィージーで「太平洋非核化会議」が開かれた。原水禁もこの会議の成功に大きく貢献したのである。
 原水禁運動は感情的に「核兵器反対」というだけではない。核の恐ろしさ放射線障害のひどさを理論的にも明らかにし実証的にもはっきりさせて、人々を説得してゆかなくてはならない。それがどんなに困難でもやり遂げなくてはいけないだろう。科学者や専門家と協力し、自らも学習して「核」に関する知識と理論を蓄積してゆかなくてはならないのである。


9、核武装阻止と反原発の闘い

●ナイキJ設置反対と核武装阻止

 日本の核武装を阻止するためには、核弾頭の開発を阻止する必要があるが、同時に「核」の運搬手段にも注目しなくてはならない。
 自衛隊はナイキ、ホークなどのミサイル兵器を装備し、このような兵器を徐々に入れかえて、核弾頭運搬可能なミサイル兵器を導入しようとしていたのである。(アメリカは最初ナイキを核弾頭装備兵器として開発した)。
 この危険な意図を封じ込めるために、自衛隊へのナイキ配備反対とそのための基地建設に反対する運動が必要であった。最初の運動は北海道長沼に計画されたナイキ基地に反対する運動であった。長沼における闘いは現地のねばり強い闘いによって支えられ、やがて「長沼裁判」となって「自衛隊違憲判決」をひき出すにいたる。しかしながら、平和運動としては孤立した闘いであり全国的な支援・協力は乏しかった。この反省のうえにたって、独自のナイキ設置反対運動が必要とされていた。「原水禁」とくに「大阪軍縮協」はこのことにも最も早く着目し反対運動に取り組んだ。
 自衛隊が第四高射群(中京地区)の設置を計画していることがわかるや直ちに行動が開始された。大阪・能勢町では動きが早かった。1970年4月には、「ナイキ反対の集会」が開かれ能勢町議会も反対を決議した。大阪軍縮協は連続的にオルグを送り、地元の反対同盟に協力し、学習会、宣伝が地道に行なわれた。これらの活動のなかで地元青年たちの反対の決意はいよいよ固まるとともに、運動は周辺にも伸びていった。大阪府議会、京都府議会も「ナイキ反対」を決議するにいたった。
 地元反対同盟は講師を招いた学習会だけでなく、全国各地に出むいてナイキJの実態をとらえる活動を行なった。裁判中の長沼の現地を視察し、ナイキ基地建設で自然がどのように破壊されているかをみて、沖縄にいってナイキ・ハーキュリーズの実射訓練の被害も確かめてきた。町長や町議会が「反対の態度」を変えないか監視がつづいた。
 「大阪軍縮協」は能勢が孤立しないように常に運動を周辺に拡大する努力をつづけた。茨木市、高槻市、池田市、八尾市、吹田市、箕面市などの市議会がぞくぞくと「ナイキ反対」を決議し、能勢の反対運動は強化されていった。こうして約5年間に及ぶ反対運動のなかで、防衛庁はいよいよ窮地に追い込まれ、ついに能勢へのナイキ設置を断念した。これは部分的勝利とはいえ、平和運動が確実に勝利した数少ない成功例の一つである。
 大阪能勢の闘いは、全国的なナイキ反対運動にもよい影響を与えている。ナイキ反対の全国活動者会議での経験交流は、各地の反対運動に生かされていった。こうして青森県車力村では防衛庁の「ミサイル試射場」計画をついに断念させることに成功した。このナイキ反対運動で忘れることができないのはいまは亡き小山内宏氏の活躍である。実践的軍事評論家だった小山内氏は、ナイキ批判の詳細な情報をもって僻地や山奥まで出むいていって、地元の活動家と学習会を開き、懇談会に参加していった。彼のこの旺盛な活動は歴史に長く記録されるべき功績である。

●「死の灰」と放射能による環境汚染

 かつて「いかなる国の核実験にも反対する」という原則問題で意見が対立した時、その一つの論点は「死の灰」による環境汚染の問題であった。共産党と日本原水協に残った人々は、「ソ連や社会主義国の『死の灰』はガマンせよ」と主張した。あるいは「少しくらい『死の灰』をあびても構わない」というのであった。
 だが、「死の灰」は社会体制の相違に関わりなく、ひとしく大気を放射能で汚染しとりかえしのつかない状態にまで行こうとしていた。アメリカのノーベル賞受賞者ライナス・ポーリングがアメリカの原子力委員会(AEC)の核実験を強く批判したのもこのためである。
 「核実験でつくられた放射性物質が人類に大きな遺伝子的損失をもたらす」と判断したからである。ソ連のサハロフ博士が、自分の責任を痛感したのは、自分たちのつくりあげた水爆の実験が人類に被害を与えていることを認識しているからである。
 ここでみられた放射能による環境汚染をどうみるか、という見解の相違は、その後の「原水禁」と「原水協」の運動路線にも決定的な相違を生じさせるにいたった。それがはっきりしてくるのは原子力発電をどうみるかという点である。原発反運動でこの二つの組織の方針は根本的に違ってくる。
 「原水協」は周知のように原発反対をはっきりと打ち出しているわけではない。「民主・自主・公開」の原則が守られればこれに賛成する態度をとっている。21世紀をむかえる現在でも自民党中心の保守政権のもとでは安全が確保されないので反対するが、共産党中心の政権下では「自主・民主・公開」の三原則を厳守しながら、活用する可能性を否定しないなど、ご都合主義的な態度をとっているのである。原発や再処理工場からでてくる「死の灰」・放射性物質の危険な性格について認識が弱いといわざるをえない。
 現在、世界的な脱原子力の流れに抗して、原子力利用は確固とした安全対策をたてないまま、政府・電力資本の一方的な意思によってつづいている。現在日本で設置されつつある原発はそもそも、日本が自ら開発したものではなくアメリカからの直輸入であり、「自主」的技術開発をしたものではない。その上、原発設置にあたって地元の意向にはほとんど耳をかさずまったく非民主的に行なわれている。公開の討論すらさせないのである。安全審査の資料等も肝心なことはすべて「秘密」であり、「公開」の原則はまったく実質をともなっていないのである。 

●原水禁と原発反対運動

 「原水禁」が原発に取り組みはじめたのは1969年からである。原潜が寄港し、放射性物質が港湾を汚染しつづけているが、同時に(あるいはもっと大量に)放射性物質を海水中に放出する原発をどうみるかが鋭く問われてきた。原発をかかける各県原水禁からも問題が提起されてきた。
 69年の柏崎集会をはじめとして、70年の活動者集会(茨城・東海村)、72年の活動者集会(敦賀市)を経て「原水禁」としての反原発闘争の方針は固められていった。現在日本での計画されている原発は(1)安全性がまったく立証されておらず危険であり、(2)たとえ事故がなくとも日常運転で生じる放射性物質の環境放出自体危険であり、(3)放射性廃棄物の処理方法もない、ことを前提にして運動を進めることになった。
 反原発のスローガンは1971年以降、夏の原水禁世界大会の主要なスローガンの一つとなった。だが、この運動は集会やデモだけで片付くものではない。地元における住民の強力な反対運動がなくてはならないし、この住民運動と協力することなしには発展しない。こうして、各地域に発生してきた地元反対同盟との協力・提携が、反原発闘争の組織方針の基本となる。
 さらに反原発闘争においては、原発に関する知識、放射線障害に関する知識、「核分裂」とは一体なにを意味するかという一定の理解をもたなくてはならない。なぜなら、政府や電力はいわゆる専門家を動員しデタラメな数字を並べ、一方的な理屈でその「安全性」を主張してくる。国民一般や僻地の住民たちはこれでゴマ化されつづけてきたのである。革新系の地方議員すらこのゴマ化しにのって原発誘致運動すらしてしまったのだ。この政府・電力のゴマ化しの理屈を見抜き、これに反論する知的能力を蓄えなくては、運動はできない。ビラ一つ書けなくなる。
 こうして「原水禁」は、各所で反原発の学習会を開き、理論的武装のためのパンフレットを発行してきた。あるいは学者・専門家などの協力をえて理論的活動にも手がけてきた。


10、被爆者援護法運動の発展

●被爆者救援運動の進展

 被爆者救援の運動は1973年ころから新しい段階をむかえていた。
 そこには二つの要素があった。一つは原爆被爆者の「国家責任」を追求する運動があらためて問われ、運動が強化されてきたことであった。二つ目は、被爆者のうけた放射線障害問題が、真正面からとりあげられ、「被爆者援護法」の要求が論理的にもさらに強まったことである。
 第一の「国家責任」の問題は、これまで主として「被爆者と国家との身分関係」の解明におかれるという偏向があった。つまり、戦時中政府の命令によって働かされていた時に原爆をうけたのだから、政府が補償するのは当然だという論法である。だが、この論法によれば、一般被爆者は軍人や軍属より国家との身分関係が弱いから、補償の程度も薄くなるということにならざるをえない。
 しかし、原爆被爆の本当の責任は、そこにあるのではなく、老若や男女を問わず、非戦闘員を無差別・大量に殺害したことにあるのであり、被害者が自ら自己の健康を回復できないような極限的状況に追い込んだことへの補償の問題である。被爆者問題で問われていることはこのことなのである。
 当時ようやく注目をあびてきた朝鮮人被爆者問題がこの関係をくっきりと浮かび上がらせた。孫振斗さんのケースが一番はっきりしている。
 孫さんは大阪で生まれ、日本で育ったが、広島で原爆にあった。戦後「韓国」に強制送還されたが、原爆症を治そうと日本に密入国し逮捕された(1970年12月3日)。彼は入国管理令違反で有罪となったが、原爆手帳の交付を求めて福岡県知事を相手取った訴訟を起し、これに勝訴するにいたった。孫さんは自分の意に反して広島で原爆の被害をうけたのであり、日本政府が放置できる問題ではない。明らかに政府が補償し、援護しなくてはならない義務がある。
 孫さんを支援する運動が広島などの市民グループから提起され、次第に大きな運動となりはじめ、大阪軍縮協をはじめ原水禁国民会議もこれに取り組みはじめる。朝鮮人被爆者問題がようやく明るみにではじめたのである。

●朝鮮人被爆者に対する責任

 戦争中、日本政府は朝鮮人を徴用し強制的に広島、長崎に連行して働かせていたのだった。そして原爆の被害をうけることになったが、その数は約9万人とみられている。そのうち5万人が被爆死し、4万人が生存しているとみられている。韓国では原爆被爆者援護協会がつくられ、日本政府へ補償を要求しはじめた。
 原水禁国民会議は、こうした運動をうけとめ、1973年2月「被爆者援護法制定要求・朝鮮人被爆者救援集会」を開いた。この集会には韓国の被爆者救援協会からメッセージが届けられた。メッセージには次のようにのべられていた。

 「日本の平和運動が自国、自民族の被爆者の救援に没頭するあまり、全体の1割にも及ぶ外国人被爆者の問題についてはいままで全然ふれていなかったことも事実です。・・・この度貴会議が、”外国人被爆者のことと援護法制定”を行動目標として採択したこと(を)・・・私たち外国人被爆者一同は、歓呼と激励の拍手を送ってやみません」と。

 いまや朝鮮人被爆者問題がクローズ・アップされるにいたって、日本政府の被爆者に対する責任は、鮮やかな照明をあてられた。この責任を国家補償の観点から解決することが残されているのである。

●原水禁の援護法制定運動と総評被爆連

 日本被団協は幹部の老齢化と共産党寄りのセクト的運営によって次第に運動力量を低下させてきた。援護法制定という重大な課題を抱えながら、組織の力は弱化をつづけた。こうした時、新しい被爆者の運動が成長してくる。総評加盟の各単産のなかにつくられてきた被爆者組織が大きく合流する動きがでてきたのであった。
 広島においては1972年以降、被爆二世問題に取り組む連絡会議がつくられ、被爆二世の実態把握、健康管理などの諸要求で運動がはじめられた。この連絡会議はその後いわゆる十八団体共闘をつくりあげ、各単組の被爆者組織、被団協などの共闘を進める有力な組織要因となった。1973年には被爆連を発足させ、フランス核実験反対、自衛隊のパレード反対などの諸行動を強化するとともに、被爆者援護法制定の運動を、より積極化した。こうして、1973年には各単産で組織してきた被爆者組織を統合する「総評被爆連」をつくりあげ、被爆者の運動に新たな息吹をつくりだしたのであった。
 1974年にもなると、老齢化した被爆者が櫛の歯が折れるようにポツポツと亡くなる者もふえてきた。援護法一つ実現できずに放置されたまま死ぬに死に切れないという意識が被爆者の間に高まってきた。こうして「被爆三〇周年までに援護法を実現しよう!」という声が合い言葉となってくる。原水禁はこのスローガンを軸にして援護法制定の大衆行動を計画した。
 1975年2月には原水禁と総評被爆連は「被爆列車」を仕立て、広島・長崎から被爆者を含む800名の代表団が上京した。そして「被爆者援護法制定二月中央行動」が展開される。被爆者は要請書を厚生省に提出し、さらに厚生省デモ、大衆集会(日比谷野音10,000名)を連続的に行ない、被爆者援護法の行動はかつてなく高まった。
 他方国会では野党4党による議員立法の「援護法案」が提出され、院内での活動も強化されていった。
 この年の運動は、援護法制定闘争の一つの画期をなすものであった。その規模と迫力においてかつてない盛り上がりを示したものだった。
 こうして運動の成果として「保険手当」がこの年9月より新設されることになった。この手当は2km以内の被爆者に限って支給されるという限界があるが、発病していない被爆者をも対象にするという点で、一つの前進であったことは間違いない。

●放射線被曝と原爆被爆者

 このような大衆行動とともに忘れられない問題は放射線被ばく問題について原水禁が厚生省を追求したことである。少なくとも1973年春段階まで、厚生官僚は被爆者の放射線被ばくについてはほとんど無知であるか、無関心だった。
 原水禁はこの点をついて援護法制定のための理論的整備を行なった。
 当時、原発反対運動を通じて、放射能による環境破壊と微量放射線の有害さについては理論的解明が進んできた。またミクロネシアの被爆者調査によって、純粋な放射線被ばくのもたらす結果も確かめられてきていたのだった。さらに被爆二世たちの自らの健康を守るための運動も発展してきた。
 こうした諸運動の共通の問題意識は放射線被ばく問題について厚生省のルーズな考えをあらためさせなくてはならないということであった。広島・長崎の被爆者がどれだけの放射線をあびたのか、それが晩発性の障害をもたらす可能性は明らかに強い。事実被爆者の間で、各種のガンは年とともに増大しているのであり、それはとどめることもできない。原水禁はことあるごとにこれを追求してきた。
 いまや厚生官僚もこの問題を避けては通れなくなった。甘いといわれる国際放射線防護委員会(ICRP)の基準に照らしてみても500ミリ・レム以上被ばくした者にはなんらかの補償ないし対策がなされなくてはならないはずだ。広島・長崎の被爆者はこの「許容線量」と比較しても少なくても1桁ないし2桁以上多い放射線をあびてしまっている。厚生省は理論的には完全に行きづまった。弁解の余地はもはやない。こうして窮余の一策としてでてきたのが緊急救出時の最大許容線量25レムをとりだし、これまで以下の被爆ならば「安全」というスリかえの論理をつくりだしたのである。これが「保険手当」を2km以内の被爆者にだけ支給するという論の論拠である。
 だがしかし、いまや低線量・微少線量被爆の有害さは確実に認められつつあるのであり、厚生省のいう「25レム以下なら安全」という論法はどこからみても説得力をもつものではなかった。

●国の責任を明らかにした孫振斗裁判

 1979年は、被爆者援護法制定運動が、希望に胸をふくらませた年であった。
 この年の3月、朝鮮人被爆者孫振斗さんの原爆被爆者手帳交付申請却下処分取消請求裁判(かつて広島で被爆した孫さんは、わが国の「原爆医療法」の適用をうけようと、日本へ密入国してきて、福岡県に「被爆者手帳」の交付を申請したが、県知事がこの申請を拒否したために、知事の処分の取消を求めて裁判を起していた)に、最高裁の判決がおりた。判決は一審、二審と同様に「朝鮮人被爆者孫振斗さんにも『原爆医療法』は適用される」というものだった。福岡県知事の全面的敗北である。判決文は同時に、「原爆医療法」には、「国家補償的配慮が制定の根底にある」として、国の責任を明らかしたのだった。国の責任があるからこそ、被爆者は国籍を問わずに平等にこの法の適用を保証されるという論理である。
 この論理こそ原水禁がかねてから主張してきたものであった。「原爆被爆に関しては、国が重大な責任を負っている。それゆえに、国の責任において『国家補償の精神』による援護法を制定しなくてはならない」という主張である。
 立法府(国会)はすでに「付帯決議」で「国家補償」による被爆者援護対策の必要性を確認しているし、今回は司法側からの最終判決が示された。次は行政側(厚生省)がこのような判断に応えた「援護政策」をつくる番となったのであった。
 状況は煮つまってきていた。「援護法は後一歩のところまできている」との期待が被爆者たちの間に広まった。社会保障制度審議会も「権威ある組織を設け」「最高裁判決の趣旨もふまえて」「基本理念を明確に」すべきであると答申した(1979年1月)。こうして、この年の6月、厚生大臣の私的詰問機関である「原爆被爆者対策基本問題懇談会」(いわゆる「七人委員会」)が設置されたのであった。だが、予定よりも約半年遅れて出された「基本懇」の意見書(1980年12月11日)は、われわれの予想もしなかった最悪のものとなった。

●援護法を拒む「基本懇」答申

 「原爆被爆者対策基本問題懇談会」意見書の核心的部分は、戦争による犠牲は「すべての国民がひとしく受忍しなければならない」というところにある。したがって、最高裁のいう「国家補償的配慮」とは「ひろい意味における国家補償」にすぎず、そこに深い意味をもたせてはならないし、国の責任問題をからませるべきではないというのだ。また、原爆被爆者は、放射線をあびたという「特別の犠牲」への補償だけを要求すべきであり、それ以上のものを求めれば、一般戦災者との間に不均衡が生じるともいう。
 このような基本的立場にたった「基本懇」は、現行の被爆者医療法には「行き過ぎ」があると非難する。現行法には、「公平の原則」を重視したために「不必要な」施策がみられるので、「必要な原則」に応じて被爆者対策を見直すべきであるとさえいう。援護法の制定どころか、現行法をも改悪せよといわんばかりの主張なのである。これまで長年にわたって積み重ねられてきた援護法制定の運動は、「基本懇」意見書の厚い壁に阻まれることになった。


11、反原発運動の高揚と発展

●反原発運動の連絡センター

 原水禁は、1969年より原発の危険性に着目し、反原発の運動に着手した。これは、それまで手がけてきた原潜による放射能汚染に対する闘いの延長上にでてきた運動である。原潜が海水中に放出した放射能は、たとえ微量であって「食物連鎖」を通じて濃縮され、生態系へ被害をもたらす。と同様に、原発もまた放射能による環境汚染の元凶となる危険性を十分にもつと判断した。
 初期の反原発運動は、ほとんど建設予定地の住民運動に任せられており、各地に孤立している住民運動を、原発に反対する人々が支援するという運動形態だった。
 だがしかし、原発建設が強行され、運転がはじまり、核が産業のなかに定着しようという状況になるや反原発運動も新しい局面に入った。原水禁は、各地の住民運動間の「情報連絡センター」的役割を果たすとともに学習会や活動者会議などを開いて、反原発運動の輪を拡大しようと努めてきた。

●プルトニウムの危険性を訴えた原水禁

 稼働する原発がふえ、その使用済み燃料の再処理過程が進めば、膨大な余剰プルトニウムが生じる。プルトニウムを燃料とする次の原子炉(高速増殖炉)が確立されない限り、原子力発電を動かす核物質の流れは回らない。日本の原子力利用の核心となる物質がプルトニウムである。
 この点に着目した原水禁は、反原発運動を盛り上げるとともに、一連の核燃料サイクルに戦略的攻撃をかけるために、プルトニウム・キャンペーンを開始した。A・タンプリン博士やT・コックラン博士は、プルトニウムの恐るべき危険性に警告を発しており、「わずか数グラムあれば3億人に肺ガンを発生させる危険がある」として、「プルトニウム防護基準」を10万倍きびしくせよと主張した。
 原水禁は、74年5月、原子力委員会に対して「プルトニウムに関する公開質問状」を提出し、「プルトニウムの被害から国民の健康を守るために『プルトニウム目やす線量』を10万倍きびしくした『防護基準』をつくること」を要求した。当時、プルトニウムの危険性などをまったく無視して、再処理工場計画や高速増殖炉(実験炉)の建設計画が進められていたからである。

●政府を追いつめた伊方原発裁判

 反原発運動が拡大していくうえで原発裁判闘争の果たした役割は大きい。愛媛県伊方町では、地元の原発反対同盟が四国電力の「おどし」や「ダマシ」に屈することなくつづけられてきたが、73年に「原発の許可取消」の裁判を起した。この裁判闘争では、関西地方の多数の学者・弁護士の支援の下に大々的な論戦を展開していった。法廷における証人たちの証言は説得力をもち、さながら学術論争の観を呈し、政府側証人の護謬や安全審査のズサンさを暴いていった。
 大阪軍縮協はこの裁判への支援運動を開始し、傍聴動員やカンパ運動を展開した。76年から原水禁世界大会の名で裁判支援カンパが行なわれ、伊方原発裁判は全国的なものへと発展していった。この裁判は78年4月28日の判決で敗れはしたが、この裁判は政府の原子力行政のズサンさをいかんなく暴くことになった。
 これと平行して、東海村における反原発裁判も開始され、これまた関東規模での裁判支援運動が展開された。

●世界的に盛り上がってきた反原発闘争

 1977〜8年は、反原発の運動がさまざまな形で噴出してくる。この時期、「核燃料輸送廃止」、「再処理工場のストップ」、欠陥原子力船「むつ」廃船など、反原発・反核の諸運動が盛り上がり、これらの運動がマスコミに報道されない日の方が少ないという状況となった。
 国際的にも反原発の水位は上昇してきており、西ドイツのカルカー高速増殖炉反対集会には6万人が参加し(78年9月25日)、オーストラリアのウラン採掘反対デモにも8万人が参加している(78年)。
 こうしたなかで、1979年3月28日、アメリカ、スリーマイル島(TMI)原発の大事故が起こった。この原発事故は、「給水系が停止」し、「冷却材が喪失」してしまい、炉心全面溶融(メルト・ダウン)の寸前までいった大事故であり、大量の「死の灰」を環境中に放出する結果となった。いまや、このTMI事故は「二重、三重の安全装置があるから起こりえない」とされた大事故が起こりうることを実証したのであった。
 この事故の教育的効果は大きかった。これまで原発に無関心だった人々にも大きな不安を抱かせるにいたり、1984年の総理府の世論調査では「原発に不安を感じる人」は、70%という高率を示している。

●ムラサキツユ草で原発包囲戦

 原発の安全性とともに、放射線の有害さについて国民の関心も増大してきた。ハンフォードの核施設で働いていた約3万5000人の労働者を10年間にわたって調査してきたピッツバーグ大のマンクーゾ博士たちは、低線量被ばくとガン発生の間には明らかな因果関係があるとして、ガン発生の「倍加線量」は従来の値よりも二ケタないし三ケタ低いと発表した。また、バーテル博士は、核施設の多いニューヨーク州では、ガン発生率が他の州より多い(男性2・5倍、女性4・2倍)ことをつきとめている。
 80年になると、原発で働く労働者の放射線被曝問題がもはや放置できないものとなりはじめてきた。このころ発行された「原発ジプシー」や「被曝日記」などはその深刻さを証言している。
 原発の放出する放射能の環境汚染も住民の不安のタネであったが、これに関してはわが国ではユニークな運動がはじめられた。市川定夫埼玉大教授(現在・原水禁副議長)の提唱したムラサキツユ草による環境放射能の測定である。74年、浜岡原発に取り組んでいた永田教諭は、このムラサキツユ草を原発周辺に植えて、雄しべの毛の突然変異を観測し、周辺の放射能が中部電力の発表(線量目標値年間5ミリレム以下)に反して、それを上回っていることをつきとめたのだった。原発推進側の発表する数値は信頼できるものではなく、放射能の環境汚染は確実に進んでいることがわかった。
 いまやこのムラサキツユ草による測定運動は、浜岡をはじめ、島根、高浜、大飯、東海村など各地にひろがり、毎日、放射能による環境汚染を暴きつつあるのである。

●まやかしの「公開ヒアリング」に反対

 1980年になると、政府は従来の原子力行政を若干修正するかのようなポーズをとり始めた。このころまで、電力や科技庁の原子力推進は、有無をいわせないで強行するやり方、ないしは札束でほほを張るような汚い手段を常という手段としてきた。しかしながら、原発に対する国民の不安や原子力行政への批判の高まりのなかで、政府は少しばかり公正を装った行政に転じようとしはじめる。ここからでてきた一つの方式が、「公開ヒアリング」である。
 だが、政府の採用した「公開ヒアリング」は、(1)予め陳述人を選定し(2)回答に対する再質問を禁じ(3)討論を避け、意見のいい放し方式であった。つまり、「原発を設置する」ことを予め決めておき、この結論をくつがえすことのできない「ヒアリング」だった。これでは、民主主義的ルールに基づく「ヒアリング」とは到底いえない。
 この「おしきせ」のまやかし公開ヒアリングに対する反対運動は、第1回(80年1月の高浜原発)の公開ヒアリング以降、今日まで総評労働者、現地住民運動が一体となって大きな盛り上がりを示してきたのであった。

●最も危険な「ダウンストリーム」問題

 「原発はトイレなきマンション」といわれてきたが、放射性廃棄物の最終的処分方針はいまもって決まっていない。原発の推進者は、「わが国の原発は25基に達し、発電能力1827万キロで世界第4位となった」と自慢するのが常である。だが、使用済み燃料の再処理問題、高レベル廃棄物の処理、低レベル廃棄物の処分などいわゆる「ダウンストリーム」に関してはまったくお手上げなのである。今後、原発がふえ、その稼働が長びいてくれば、この問題はいよいよ深刻な難問になっていくに違いないのである。
 現在、政府や電力側は、「下北半島にウラン濃縮、再処理工場、低レベル廃棄物貯蔵施設を設置する」という計画を発表したり、北海道幌延に「高レベル廃棄物の施設をつくる」ことを打診しはじめている。われわれは今後、この「ダウンストリーム」の問題に本格的に取り組んでいく必要があろう。この部分こそ最も危険なプロセスだからである。


12、非核太平洋の運動

●太平洋問題情報センター(PCRC)の設置

 太平洋を非核化しようという原水禁の運動方針は、遅々としてはいたが着実に進められてきた。
 これまで、フランスのムルロア環礁での核実験に抗議することやミクロネシアの被爆者救援などを手がけてきた太平洋各地の運動は、1978年10月に「第二回太平洋非核化会議」に結集する(ポナペ島)。
 79年になると、ムルロア環礁周辺での「核実験」の被害が次第に明るみにではじめ、ミクロネシアの旧核実験場の放射能汚染状況も明らかになってきた。ビキニ環礁に帰郷した住民たちは、放射能で汚染されてしまった島を捨て、再び他の環礁へ移転させられ(1979年)、エニウェトク環礁の汚染もかなりのレベルに達していることが判明してきた。オーストラリアでは、白人たちの一方的なウラン採掘により、先住民・アボリジニたちに広範な被害を与えていることもわかってきた。また、わが国の原発がつくりだした放射性廃棄物の海洋投棄計画が打ち出され、この廃棄物を近海に投棄されようとしているグアム、マリアナ地域の人々の間に不安と反対が高まってきた。
 太平洋の各地で、核問題が一斉に噴出してきたのである。こうしたなかで、原水禁の提唱と努力が実って、これまでにない規模で1980年に「非核太平洋会議」がハワイで開かれた(5月10日 ̄18日、於オアフ島)。この会議で「非核太平洋人民憲章」が採択され、これまで、ルーズな連絡と情報交換にとどまっていた太平洋各地の運動は、この会議を契機にしてもっと組織的な連絡がとれるように、「太平洋問題情報センター」(PCRC)を設置することにした。

●ベラウに「非核憲法」制定される

 1980年には、ベラウ(パラオ)で核の持ち込み、貯蔵、通過など一切を禁じた画期的な「非核憲法」が制定された。アメリカはかねてより、ベラウに原潜を寄港させたり(マラカル島)、核基地(バベルダップ島)を建設する計画をもっていたが、パラオの民衆はこれに強く反発していた。民衆の反核意識は強く、彼らは独立にあたって制定する憲法に「非核条項」を盛り込むべく運動を進めてきたのだった。これに対し、アメリカはベラウの議会筋を使って、さまざまな妨害と圧力を加え、「非核憲法」の成立を抑えようとはかった。
 だが、ベラウ民衆(パラオ憲法のための人民委員会)は、79年7月9日、国連監視下での住民投票を行ない、賛成92%という高い率で、「非核憲法」を成立させた。だが、アメリカはこの憲法の無効を主張し、80年7月9日、再度の住民投票となった。この住民投票では、78%という圧倒的多数の賛成をえて、ついに「非核憲法」が世界ではじめて成立したのであった。
 太平洋における核問題は、必ずといってよいほど独立問題と関連している。太平洋地域において、核の被害をうけた民衆は、ほとんど、植民地(ムルロアなど仏領ポリネシア)や信託統治領下(ミクロネシアなど)におかれており、彼らは無権利であるために、核の被害に甘んじなければならなかった。したがって、もしも彼らが反核運動を進めようとする場合には、自国の独立のための闘いを同時に進めなくてはならなかったのである。

●バヌアツの独立と第四回非核太平洋会議

 英仏の共同統治領だったバヌアツ(ニューヘブリデス)が、独立したのは1980年の7月だった。この国の独立運動を指導した「バヌアツ党」は、フランスの核実験に強く反対しており、最初から非核政策を重要な柱の一つにしていた。この党は、独立後の総選挙で勝利(全議席35のうち25を獲得)するや、国会で「非核宣言」(81年)採択したのだった。南太平洋にはじめて「非核宣言」国家が誕生したのである。
 バヌアツ政府は、翌82年になると、「核兵器を積んでいないことが証明されない限り米艦の入港を拒否する」と声明し、アメリカに大きな衝撃を与えたのだった。
 また、ニューカレドニアの独立運動も高まり、太平洋先住民の自立と、太平洋非核化運動も強まってきた。
 こうした情勢を背景に、83年7月、バヌアツの首都ポートヴィラで「非核独立太平洋会議」が開かれた。
 この会議では、「太平洋問題情報センター」(PCRC)と「バヌアツ太平洋コミュニティ・センター」(VPCC)の共催で開かれたもので、33ケ国から160名が参加した。会議では「独立の問題」「太平洋の核化と軍事化」「放射能と核実験」「核廃棄物の海洋投棄」などが、包括的かつ多角的に討議され、「バヌアツ宣言」を採択して終了した。太平洋各地の反核運動はある時は細ぼそと、あるときは、大きなうねりとなって、いまもつづいている。 (続く)


※80年代末以降の経緯については、追加して書き下ろす予定です。
※ネタもとは86年7月原水禁刊の『原水禁運動の再生を求めて』、同じく原水禁発行の、『原水禁運動の歴史と教訓―核絶対否定の理念をかかげて』、『核のない社会をもとめて――原水禁運動の歴史と教訓』の記述をベースに野崎の責任で構成しています。