笠之助随筆集 其之弐  kasanosuke's essay vol.2

  花火と忍者 〜 根来衆と鍵屋弥兵衛 〜

              

  火術に長けた忍者の末裔たちが江戸時代になり職を失い花火師になったという説がある。しかし、その事を裏づける史料はほとんど存在していない。
  花火師の元祖と言われている鍵屋弥兵衛について、わかっていることは次に挙げる程度である。鍵屋弥兵衛は忍者だったのだろうか?  
   1.大和出身の弥兵衛という男が、万治ニ(1659)年に江戸に出て玩具花火を作りヒットしたのが「鍵屋」の元祖だという事。

  2.代々鍵屋弥兵衛を襲名し、文化六(1809)年、六代目弥兵衛が手代の清吉に暖簾分けを許し、清吉が市兵衛を
    名乗って「玉屋」を創ったという事。
  

   3.この頃から約三十年間、隅田川で「鍵屋」と「玉屋」が競ったという事。
       「かぎや〜ッ、たまや〜ッ」の替え声が生まれた。 打ち上げ場所は、
       両国橋の上流が玉屋、下流が鍵屋と決まっていた。しかし、花火自体
       の規模は、現在のものと比べ物にならない程、派手ではなく小さかった
       らしい。
    屋号の「鍵屋」、「玉屋」は稲荷信仰からきているという。伏見稲荷の狐
        は、鍵と玉を咥えている。

    4.天保十四(1843)年、「玉屋」から火事が起こり、町内の半分を焼いて
        しまったため、玉屋市兵衛は家財没収のうえ江戸追放となったとの事。
       つまり、玉屋は一代限りだったのである。

  慶安三(1650年)年、弥兵衛が大和国篠原村(現奈良県吉野郡大塔村篠原)から新町村(現五條市新町)へ移り、村松鉄砲薬調合所(黒色火薬の製造所)で働いていた。
  やがて火薬製造の技術を極めていった弥兵衛は、新町村の近くに知行を持っていた根来鉄砲組屋敷でも知識を得、火薬による花火の製造の研究を重ねていた。芦の筒に火薬を詰め火炎を発射したり、火薬玉を芦の筒から打ち出す方法を考案したのである。
  万治二(1659)年、弥兵衛は江戸へ出て、横山町に花火の店舗を構え「鍵屋」と称した。大川(隅田川)の両国橋での花火打ち上げで将軍家に認められ、幕府御用の花火師となった。
 
  以上が弥兵衛の経歴だが、伊賀忍者と繋がる部分は出てこなかった。しかし、根来衆とのかかわりは確認できたので、伊賀忍者と根来衆とのかかわりが事実であれば、可能性がない訳ではない。
  天正伊賀ノ乱で伊賀を脱出した伊賀忍者たちが紀州に逃れて根来衆と混ざったとする説があるからだ。もしかすると、鍵屋弥兵衛は紀州に逃れた伊賀忍者の末裔だったのかもしれない。

参考文献 『忍者が描く闇の戦国誌 紀州根来篇』 辻 直樹著 歴史読本 2004年8月号 新人物往来社刊

初稿日 不明(2001?) 
2014.03加筆訂正 



 

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