1.事案の概要
X(原告)は,昭和55年3月31日,名称を「MB-530A誘導体」とする発明につき,特許出願をした(特願昭55-41292号)が,平成2年10月31日に拒絶査定を受けたので,これに対し不服の審判の請求をした。
特許庁は,同請求を平成2年審判第22090号事件として審理したうえ,平成4年3月19日,「本願発明は,特願昭56-14479号の願書に最初に添付された明細書(以下「先願明細書」といい,これに記載された発明を「先願発明」という。)に記載された目的物質である先願化合物(構造式Ia)についての発明と同一であり,この先願化合物についての発明は,上記優先権主張に係る米国特許出願のうち,本願の出願日前に出願された米国特許出願第118049号の明細書(以下「米国明細書A」といい,その出願を「米国特許出願A」という。)及び同第118051号の明細書(以下「米国明細書B」といい,その出願を「米国特許出願B」という。)に記載されているから,本願発明は,パリ条約4条B項,特許法29条の2第1項の規定により,特許を受けることができない」という理由により,「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をした。
X出訴。
なお,1980年(昭和55年)8月5日に米国特許出願Aに係る部分継続出願として出願された米国特許出願第175232号を「米国特許出願C」といい,同日に米国特許出願Bに係る部分継続出願として出願された米国特許出願第175460号を「米国特許出願D」という。
2.争点
米国明細書A又は同Bは,目的物質である先願化合物Iaを得るにつき最も根源的かつ重要な出発物質IIIaの製造方法について,当業者が容易に実施をすることができる程度にまで開示したものとはいえない場合,先願発明は,米国特許出願A又は同Bに基づきパリ条約4条B項に定める優先権主張の利益を享受することはできるか。
3.判決
審決取消。
4.判断
「第6 当裁判所の判断
1 本願発明に係る目的化合物が構造式Iaで示される先願化合物と同一の化合物であること,先願化合物が,別紙製造工程図に記載されているとおり,構造式IIIaによって示される化合物を出発物質とし,構造式IIIa→構造式IVa→構造式Va→構造式VIa→構造式Iaという化学合成過程によって製造されること,本願出願日の前に米国において特許出願された米国特許出願A及び同Bの各明細書(米国明細書A及び同B)において,出発物質IIIaが,特定の微生物を用いた醗酵法によって製造されることが記載されている反面,その微生物の特定及び培養条件,抽出法,精製法等の開示がなく,出発物質IIIaの製造方法については,単に,・・・及び・・・として,その出願当時には未公開であった自己の先願米国特許の出願日(1979年6月15日)と出願番号(USSN48,946)とを引用しているのみであること,出発物質IIIaの製造方法につき開示がなされたのは,米国特許出願A及び同Bのそれぞれの一部継続出願として,本願出願日の昭和55年3月31日より後の1980年8月5日にされた米国特許出願C及び同Dの各明細書においてであり,米国特許出願A及び同Bに合わせて米国特許出願C及び同Dに基づく優先権を主張して,本願出願日よりも後の昭和56年2月4日に出願された先願発明の明細書においては,出発物質IIIaの製造方法を具体的に明らかにした先願化合物Iaの発明が記載されていることは,いずれも当事者間に争いがない。
2 そこで,先願発明の特許出願が,本願出願日の前である1980年(昭和55年)2月4日に米国において特許出願された米国特許出願A及び同Bに基づく優先権主張の利益を享受でき,本願に対する関係で,先願の地位を有するかどうかについて検討する。
(1)一般に,わが国においては,化学物質の発明の成立が肯定されるためには,@化学物質そのものが明細書において確認できること,A化学物質の製造方法が明細書に明らかにされていること及びB化学物質の有用性が明細書に明らかにされていることの3要件が必要であることは当事者間に争いがなく,「物質特許制度及び多項制に関する運用基準」(昭和50年10月特許庁策定)によれば,その第一部,第1「化学物質発明に関する運用」の「II 明細書の記載要領」の項には,「化学物質の製造方法は,少なくとも一つ記載されていなければならない。その製造方法は,原料物質,製造条件及び場合によっては製造装置等必要な事項と共に当業者が容易に実施できる程度に具体的に記載されていなければならない。」(同2(4))と記載され,また,「IV 発明の成立性」の項には,上記三つの成立要件の記載に付加して,「その化学物質の製造方法が微生物を利用する場合のみであって,その微生物が容易に入手できないものであるときは,出願前その微生物の寄託を必要とする。」と注記され,さらに,その「VI 明細書の要旨変更」の項には,「化学物質の製造方法が明らかになっていない明細書にその製造方法を加える補正は,明細書の要旨を変更するものとする。」(同2)と記載されていることは,当裁判所に顕著な事実であり,この運用基準の示すところは,わが国の特許法の規定に照らし,化学物質の発明の成立を判断するうえで妥当なものと認められる。
(2)そこで,先願発明及び本願発明が共通の目的物質とする先願化合物Iaについて,その製造方法を検討する。
前記のとおり,先願化合物Iaは,構造式IIIaで示される物質を出発(原料)物質として,4工程の化学合成過程を経て製造されるものであるところ,出発物質IIIaの製造方法の具体的・詳細な記載箇所である先願発明の公開特許公報(甲第5号証)によれば,・・・との記載に引き続き,「A醗酵(培地,微量元素溶液)」と「B単離(抽出,ラクトン化,シリカゲルによるクロマトグラフイー,シリカゲルによる再クロマトグラフイー,逆相充てんによるクロマトグラフイー)」に分けて,具体的な方法を記載している・・・ことが認められる。
そして,北海道大学名誉教授【B】作成に係る意見書(甲第10号証)には,・・・と記載され,結論として,先願明細書から原料物質IIIa及び先願物質Iaを製造することは,平均的な合成化学者にとって著しい困難性はないことが記載されている・・・。
しかしながら,同意見書には,米国明細書A又は同Bの記載に基づく,・・・と記載され,その理由につき,醗酵法による製造可能性について,・・・と,また,有機化学的手法による可能性について,・・・としたうえで,イ)の化学的全合成法については,・・・と記載され,ロ)の近縁の公知化合物を出発物質とする方法については,コンパクチンについては【D】が発表したML-236Bという(A)の構造を持つものと,【E】等により発表された構造式(B)を持つものとがあり,両物質が同一のコンパクチンと考えられていたが,1985年に,メルク社がコンパクチンの正しい構造式が(A)であることを断定するまでは,一般に(B)の構造式を持つものがコンパクチンであると考えられていたため,構造式(B)のコンパクチンからの合成によっては,IIIaの立体異性体である(C)の構造を有するものが得られてしまい,米国特許出願A又は同Bの出願当時,コンパクチンからIIIaを合成することは理論的に不可能であったことが記載されている・・・。
以上の記載によれば,先願化合物Iaの製造方法のうち,最も重要かつ基本的な点は,出発物質IIIaの製造方法であり,米国特許出願A又は同Bの各出願当時,その製造方法は,米国明細書A又は同Bに示された【A】等の他の米国特許出願第48946号による新たな醗酵法による以外になく,これが開示されていれば,その後の4工程の化学合成は当業者にとって可能であったものの,米国明細書A又は同Bには上記のとおり,他の米国特許出願番号のみが記載され,その開示がなされていなかったことから,その詳細な製造方法を当業者が知りうる手段はなかったことが明らかである。
(3)そうすると,米国明細書A又は同Bは,目的物質である先願化合物Iaを得るにつき最も根源的かつ重要な出発物質IIIaの製造方法について,その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者(当業者)が容易に実施をすることができる程度にまで開示したものということはできず,結局,先願化合物Iaの発明としては,当業者が反覆実施して目的とする技術効果を挙げることができる程度にまで具体的・客観的なものとして構成されているということができないから,前示運用基準に定める発明の成立性の要件を満たしておらず,わが国特許法上の解釈として,発明未完成の瑕疵があるものというべきである。
Yは,米国明細書A又は同Bにおいて目的物質Iaが得られたことが確認値とともに確認されている以上,その出発物質である構造式IIIaの製造方法は,記載不十分であるとしても,後に補正の許される範囲にあると主張する。
しかしながら,仮に米国特許出願A又は同Bにおいて目的物質Iaが確認されていることが確実であるとしても,出発物質IIIaの有する上記重要性並びに米国特許出願当時におけるその製造方法(特定の菌株を用いた特定の製造方法)及び物質の新規性に照らし,採用の限りではない。
このことは,米国特許法による解釈を採用しても同様であることは,元判事【F】の見解(甲第11号証)に・・・とあることから明らかである。
3 以上のとおり,米国特許出願A又は同Bは,わが国特許法上の解釈として,先願化合物Iaの発明につき発明未完成の瑕疵があるものというべきであるから,完成された先願化合物Iaの発明である先願発明の特許出願との同一性を欠くものといわなければならない。
このように解される以上,先願発明は,米国特許出願A又は同Bに基づきパリ条約4条B項に定める優先権主張の利益を享受することはできないというべきであり,これら米国特許出願と合わせて優先権主張の基礎とした米国特許出願C及び同Dの出願日及び先願発明の出願日が本願発明の出願日に遅れることは明らかであるから,先願発明の特許出願が,本願発明の特許出願に対し,先願としての地位を有するものということはできない。
これと異なる前提に立って,先願発明に先願としての地位を認めた審決の判断は誤りであり,X主張の審決取消事由は理由がある。
よって,Xの本訴請求を認容し,訴訟費用の負担につき,行政事件訴訟法7条,民事訴訟法89条を適用して,主文のとおり判決する。」