洞窟の月
望月正實伍長
出征以來もはや二年數ヶ月その間數々の想ひ出は盡されないが今自分の心になんとも暖かいうれしい印象を殘してくれたものヽ一つ
それは昨年の春第○次作戰で山西の中へ行軍したときの事。あの大行山脈の峻嶮を突破して○城迄の難行軍には流石に信州の山育ちの我々も相當に参つた。人ばかりでない。馬も、驢馬も、牛も(驢馬や牛は糧秣馬の代用に使用したものこの驢馬や牛に糧秣や果ては人家のない山中のこととて炊事道具のガラクタまでも……そして之を追ふ我々の姿や辛苦さは到底想像も及ばぬものだった)。馬など背中にポツカリ大きな穴があく始末だがとうヽヽ頑張り通して遂に○城まで……
その歸途矢張りこの大行山脈の洞窟の中に宿營したある夜半焚火の煙が洞窟のあたりにたヾよう中に見た十五夜前後の月の影の印象はなかヽヽ忘れる事が出來ない。
もう戰友は晝の疲れでぐつすりと寢てゐる静かな夜、時たま驢馬の悲しげな啼聲があたりの靜寂を破るのみすべて「靜」の姿だこヽでは流石に大空が嶮しいきり立つたやうな山波にくぎられてその中空にポツカリ浮んだ月の影!!それは何とも云へぬ物凄さを覺えさせると共に何か知ら暖い光で自分を包んでくれるやうな日だつた。
(この頃三月半過ぎもはや夜でもほのかな暖かさが春を感じさせてゐたせいもあらう)
月あかりで日記を記した。詩人でない自分には詩も歌も作れない然し遠征數百里過ぎ來し戰の跡を省りみると共に轉望郷の念止み難きものに打たれ、
海原に霞たなびき たすがねの
悲しき宵は國べし
おもほぬ
いつかどこかで見た万葉集の名歌を思ひ出し吾々が月に花に故國を懐しみ偲ぶこそほんとうの武人としての美しい心情だらう。などと思ひ乍ら好きな上杉謙信公の詩を心ゆくまで吟じた事だ。
注:ヽヽ→「く」のような形の繰り返し記号
入營當時 小林進
一、俺が○隊に入つたのは
昭和の御代の十二年
○月半ばの十三日
奉公袋ひつさげて
二、身體檢査恙なく
赤白腕章の兵隊に
引率されて大月隊
此れが我が家か明日からは
三、背廣姿に名殘告げ
軍衣軍袴を支給され
着て見て驚く我が姿
服は小なり靴十一文
四、隊長殿や准将殿の
訓示を受けて意思固く
編入されて第四班
氣合はかヽるピンヽヽと
五、起床ラツパ跳ね起きて
舍前めがけてとび出せば
何と我輩しんがりだ
又々かヽるピンヽヽと
六、馳れぬ雑巾馬手入
顔から尻や足までも
磨いてやるは人間様
幸せ者だぞ貴様等は
七、消灯ラツパを床で聞き
まどろむ俺の腦味噌は
何が何にやら滅茶苦茶だ
明日は負けまい戰友に
注:ヽヽ→「く」のような形の繰り返し記号
懐古 本庄麗柔
大陸に渡り聖戰此に二年有餘月、夕に山頂の露營に星を仰ぎて、朝に果しなき曠野の霜を踏みて行軍し幾度か言ひ知れぬ困難辛苦と戰ひ激戰を續けて來たのであるが此の間幾多の尊き体驗と忘れ難き過去の想ひ出があつた。
人は苦しみの中に最上の樂しみを得るである吾々は實に戦斗に於て最も幸福を味ふ事が出來たと思ふのである上陸早々連日不眠不休の猛追撃行軍は泥濘膝を沒する程の悪路を前進し後方との連絡もつかず求むる食も生藷生大根等に一時の空腹を滿す等舌に盡し難き何苦に打勝つて○鄲及○○鎭に於て初回の駐軍氣分を経驗するを得たのである。亦敵を追ひて遠く山○作戦の時は嶮峻たる山嶽地の悪路を難行軍し或は山頂に或る時は原野に寒風に曝され露營の一夜を明した事も屡々であった然し我々に幸福感を與へて呉れたのは實に此の戰斗である。晴の山西路を源に引上げた頃の事が今猶ありヽヽと思ひ浮んで來る。大○河を渡り○○會戰に参加し装備の整ひ優勢なる中央軍の敵と交戰し其の間對戦車對飛行機等のあらゆる戰斗を経驗し○○線○○の激戦○○攻略戰では多數の戰友を喪ひ感慨無量である。
死なば共にと日頃から
約せし事も夢なれや
君は護國の鬼となり
我は銃火にまだ死なず
嗚呼戰友(軍歌)の一節を聴く度に思ふは戰友の最後の日の激戰である實際此の人達は○○入城の感激を知らずして倒れたのである。
吾等の最上の幸福を味ひ得ずして去つた人は誠に同情に堪へないことである。昭和十三年六月五日○○攻撃此の日こそは忘れ様として忘れる事の出來ない紀念日であり最も感激深き思ひ出の日である。一星霜後の今日再度吾々は新任務の爲この思出深き地を訪れる事が出來た。
激戰の地に立ちて当時を回顧しなんとも云ひ得ぬ感激の涙に咽んだ戰場にして始めて得る事の出來る感激である
再度激戰地を訪れる事程懐しい事はない全く筆舌を以て顯す事の出來ない兵隊の心理である終生迄も忘れ難き最上の思ひ出として記憶される事と思ふ。
病床の友へ 三 村 定 男
一、 君と別れて 今は早や
足掛三歳の 大陸で
踏みしめ進む建設に
進む我等の任重し
二、 露營の夢に結ぶのは
思ひ出多き 君が影
戰場輝らす あの月を
君の窓辺を 照らすらん
三、 君よ未だに 癒えざるか
病の床に伏すと聞き
如何に 苦しきことなるか
思ひは はせる君が上
四、 東洋平和の爲なれば
何んで恐れる敵ありや
敵彈雨と 飛ぶ中で
肌身離さぬこの守り
五、 君より受けて彈除に
守りをうけしこの身体
君の快癒を祈りつヽ
重き任務の建設に
○樂付近の戰鬪 木 村 弘 一
時は昭和十二年荒漠たる北支の曠野も紅葉に包まれ昨日まで安らかに眠りし草木も今は戰場の巷と化し軍の追撃隊となつた我が小部隊は○月二十六日十三時○樂附近に到着。
敵は退却しつヽ吾に銃火を浴びせ我が部隊は敵と交戰しつヽ追撃。堤防附近迄來て見れば服小銃彈藥等を捨て河中を逃げて行く。機関銃は堤防より猛射を浴びせれば見るヽヽ間に倒れ急流に流されつヽ流血は新樂河を染め或る者は河を渡り楊柳の陰に消えゆく者數多し。鉄橋は爆彈で破壊され敵列車は半ば河中にのめり込み○樂驛を占領した時は早や夕陽は戰場の彼方に沈み秋風と共に生臭き風がいやに鼻を突く列車の中を見れば彈藥は多數貨車に滿載され、寝台車には將校の贅澤な暮し。
相當周章てたらしく車内が乱雑になつて居り唯一見しても我が追撃が如何に迅速で有つたかを物語つてゐる其の夜は小部隊で驛を死守敵彈は頭上をかすめ銀星光る其の下で戰々競々として夜を送る。其の夜は幸ひ夜襲も無く明けたが敵彈は依然として飛び來る。
二十七日我が部隊は鉄橋作業掩護のため驛より西方約三粁の地点に於て半身裸体と成つて敵前渡河を敢行時々ヒユーヽヽと飛んで來る音を聞いては身を屈める無事渡河を完了夕陽は早や西に落ち少し休憩し裝備を整へ再度驛の方面に向つて前進を起した其の時は何時しか夕陽落ち不氣味な黒闇となつて一面の泥濘道なき道を道とし一歩進むも意の如くならず少し其の場に留まれば足は膝あたりまで入り時には半身水の中を通る事も少くは無かつた。
此れが一夜續いたのだから頑健なる自分も死よりつらさを感じたそれに時々チエツコの猛射を受けながら九死に一生を得て漸く夜明に鉄橋附近に來た鉄道隊は不眠不休にて飛び來る彈の中で物凄い音をたてヽ鉄橋修理を急いでゐる。自分達は昨夜の疲れと空腹により一歩行くも苦勞であつた。
暫く其の場で休憩して夜は次第に明け人影すら見受けられる様になうたすると向ふから數名が飛び來る彈の中を跼りながらカマスを持つて來る初めは何かと不思議に思つて居ると鉄道兵であつた。二十米位で止まり何か開いて居るすると一人の兵が大聲で握飯と呼び持ちに行かうとしたが附近に彈が落ちるので握飯のリレーに依つて自分等の手に渡つた。
暖い早速食べ初める少し砂はくにならない美味いヽヽで忽ちに食べ終わる。
暫く振りでの米の飯腹の虫も驚き踊り出す一同元氣を回復鉄道兵の歸り行く後姿を見送りながら厚き感謝と涙で心から無事に歸る様祈つた。昨夜の疲れも寒さも握飯で元氣を回復したし鉄道隊も命掛けで運んでくれた握飯の賜である。
自分等は鉄道隊の作業援護の任を果す爲橋を渡つて追撃を開始した太陽はキラヽヽと輝き鉄橋を占領する度に萬歳を叫んだ。これも皆一つの握飯の賜と當時の事が永遠に殘つてゐる。
注:ヽヽ→「く」のような形の繰り返し記号