大和型
BttleShip YAMATO class
基準排水量 65,000t
全   長 244.00m
主   砲 46cm3連装3基9門
同 型 艦 武蔵 (信濃)
詳細情報

  大和型はロンドン軍縮条約が御破算になる事が確実となった昭和9年のマル3計画によって建造された艦である。それまでのロンドン軍縮条約では主力艦の新造は基本的に禁止されていたが、それも我が国によって昭和11年末に無効となり、昭和12年からは何にも縛られることなく自由に艦を建造できる無条約時代に突入したのである。無条約時代突入に際し我が国は、量ではアメリカにかなわないので個艦優越主義で立ち向かおうとした。その象徴が大和である。

  大和型の特徴といえば、なんといっても46cm45口径砲(当時は計画秘匿のため「九四式40糎砲」と呼称されていた)であろう。この口径46cmというのは世界最大のであり、最大射程41,400m、距離20,000mで750mmの垂直装甲板を貫通させることができ、それまでの40cm砲よりはるかに強力なものとなった。だが反面1門の砲身の重量は165トンとなり、それを3連装砲塔に収めたので1基2,510トンと巨大になってしまった。その巨大さは、既存の運搬船では運べないため、この砲と砲塔を運搬するただそれだけの目的で特務艦「樫野」が建造されたほどである。もしこれを従来の戦艦のように平甲板にのせるとトップヘヴィーとなってしまい、艦の安定性に支障をきたす。そこで大和型では一番砲塔を出来るだけ下の方にもって行くことでこれを解決した。これにより、艦首から一番砲塔までのシアーと一番砲塔から二番砲塔までの通称「大和坂」が生まれたのである。また爆風も物凄いものになった。そのために甲板の機銃・高角砲座には爆風よけの楯が取り付けられ、内火艇は船体内に格納された。

  大和型は大きい大きいと言われているが、実はあれだけの艦にしてはコンパクトなほうで、もしアメリカ等が計画したらもう1〜2万トンは大きくなっていたと言われる。それは砲撃の際に目標を大きくしてしまうという事と、当時我が国の工業力・経済力からあれ以上大きな艦を作るのは難しい事によって、なるべく小さく艦をまとめる必要があったためである。具体的な方法は、罐や弾薬庫等のいわゆるヴァイタルパートを中央部にまとめ、艦の長さを短くする事である。しかし、全幅は縮められない以上、ただ全長を短くしたのでは速力の面(艦政本部の要求は速力30ノット以上)で問題が出てくる。そこで考え出されたのが大和型のもう一つの特徴である球状艦首である。球状艦首とは艦首水面下を球状に膨らませ波を作り、艦首でできた波に干渉させ抵抗を減らそうというものである。大和型のそれは特に巨大で、この技術は戦後の大型タンカー建造に応用されている。

  さて、いざ建造となるとさらに多くの難題が現われた。まず建造する施設である。かつて我が国はこれだけの大きさの艦は建造した経験はなく、勿論それだけの施設も無かった。そのため、大和を建造する呉海軍工廠の第4ドックでは渠底を1m掘り下げ、ガントリークレーンも100トンのものに取りかえ、武蔵を建造する三菱長崎造船所でも船台の補強・延長工事をしている。もう一つの問題が秘密保持である。大和型の建造は「軍機」であり、当時その存在を知るものは軍の中でもごく一握りの人間のみで、建造予算さえも他の艦数隻分となっていた。まして一般国民がその存在を知るのは戦後の事である。この秘密保持という事に関して軍は最も神経質であった。例えばガントリークレーンに全国からかき集めた棕櫚縄を下げて艦を覆ったり、周りにトタンの壁を築いたり、果てには対岸の公館から船台を見えないようにするためだけに、公館の前に倉庫を建設したりした。このように大和は開戦後間もない昭和16年12月16日に、艦隊旗艦用の改造工事をしていた武蔵も昭和17年8月8日にはそれぞれ無事就役した。

  日本海軍の技術の粋を集めた両艦であったが、実際の活躍はどうであったか。大和は昭和17年2月17日に聯合艦隊の旗艦となり、同年5月29日にはミッドウェーに向け出港したが戦闘はなかった。それ以外は内地かトラックで訓練をしていて、ほとんど作戦には参加していない。また、武蔵についてもほとんど同じで、昭和18年2月11日に大和から旗艦業務を引き継いだ後は訓練をするばかりであった。あえて言うのならば山元長官の遺骨を内地に持ち返ったのはこの武蔵である。何故日本海軍はこの両艦をもっと有効に使わなかったのかと言われれば、原因は二つあるだろう。一つは戦艦は虎の子であり決戦の時まで温存しておかなければならなかったからである。万が一にも決戦前に両艦を喪失する事はあってはならなかったのだ。もう一つはその巨大さが故である。大和・武蔵を動かすには大量の重油が必要である。当時すでに重油が欠乏気味であった我が国はなるべく重油を節約したかったのであろう。

  出撃の機会がなかなか訪れなかった両艦にもやっとその機会が訪れた。昭和19年10月17日にレイテ湾口のスルアン島に上陸してきた米軍に決戦を挑むべく発動された捷一号作戦である。この時大和・武蔵の両艦は第1遊撃部隊第1部隊、いわゆる栗田艦隊に属し、1、4番副砲塔を撤去し機銃等対空兵装が大幅に増強されていた。そして10月24日、武蔵はシブヤン海にて米艦上機による5波およぶ攻撃により多数の命中弾を受けた。合計魚雷20本、爆弾17発、至近弾18発を受けた武蔵は、艦首は著しく沈下し、19時30分に猪口艦長はとうとう総員退去を命じ軍艦旗を降ろした。それから5分後武蔵は猪口艦長以下1,021人を道連れにシブヤン海の海底に沈んだ。北緯13度7分東経122度32分(武蔵戦闘詳報)。この時大和は爆弾3発を受けたが戦闘に支障は無かった。武蔵が艦隊の被害を一身に受けたおかげで栗田艦隊はなんとか敵部隊まであと一歩という所まで行ったが、世に言う「栗田艦隊謎の反転」によってその犠牲も無駄になってしまった。

  大和が沈むのはそれから6ヶ月後の事である。米軍の沖縄侵攻に対し聯合艦隊最後の決戦を挑む、と言うより「水上特攻」をかけるべく発動された菊水一号作戦である。この海上特攻をかけるのは対空兵装が増強され高角砲24門、機銃156門となっていた大和と、軽巡「矢矧」を含む「涼月」「冬月」「初霜」「朝霜」「霞」「浜風」「磯風」「雪風」の第2水雷戦隊の9隻をあわせた計10隻からなる第2艦隊であった。この時大和は片道分の2000トンの燃料しか積んでいなかったと言われていた。確かに作戦計画では2,000トンだが、もう2000トンを帳簿外のオイルタンクの底からかき集め、出撃の際は往復分の4,000トンの燃料を積んでいたと言われている。そして昭和20年4月6日、これら10隻の最後の聯合艦隊は徳山沖を出撃。4月7日未明には大隈海峡を通過した。そして同日、12時32分の第1波攻撃を皮切りに3波に渡る敵艦上機による攻撃を受けた。その中で最も致命的だったのは第1波攻撃で後部副砲塔に食らった1発である。この1発は最上甲板、上甲板を突き破り中甲板で炸裂、火災を発生させた。この時の火災はそれから2時間たっても鎮火せず、最後には主弾薬庫に引火したと言われている。副砲塔は軽巡「最上」から流用してきた為に当初からその装甲が問題になっており、大和の弱点となっていた。14時23分、それまでの被害で左に傾斜していた艦がとうとう転覆、その際揚弾筒が破れ主弾薬庫に引火、誘爆を起し大爆発。第2艦隊司令長官伊藤整一中将、艦長有賀幸作大佐以下2,498人と共に沈没した。北緯30度40分東経128度30分