Bintang Besar vol.17
96/2『ビンタン・ブサール』第17号より


追悼 洪鐘黙さん…大山美佐子
報告 韓国・朝鮮人BC級戦犯者展…田口裕史


Bintang Besar vol.17
追悼
 洪鐘黙さん

大山美佐子(支える会メンバー)

 年も押しつまった12月24日、洪鐘黙さんが亡くなった。電話口でその話を聞いたときや、お通夜に行って祭壇の上の写真に洪さんを確認したときもそうであったが、現在もなお、「大山さん、ご苦労ですねえ」などと、例の調子で声をかけてくれそうな気がしてならない。
 私が朝鮮人BC級戦犯問題について語るとき、決まったように洪さんとの出会いの場面についてから語りはじめる。洪さんの証言を収録した『死刑台から見えた二つの国』(梨の木舎、1992年)のインタビュー後記にも書いたが、日本によって人生そのものを歪められてしまった洪さんの無念の思いと、戦犯裁判で死刑判決を受けた後自らの命を断とうとして残った首筋の傷痕の印象は、私がこの問題にかかわっている原点の部分にしっかり焼き付いている(無知な自分の姿も)。あれから約5年、いろいろなことを考えさせられたが、自分が何をしてよいのか思考が空回転するような時には、この“原体験”に立ち戻って考えたりしていた。
 最後にお目にかかったのは、昨年の10月だったと思う。ちょうど「BC級展」の展示材料を集めていた時期で、お借りしようと思っていた洪さん自筆の墨絵が、使用した出版社との間を行き来しているうちにどうやら行方知れずになってしまったらしいことがわかった、その報告であった。
 久しぶりにお目にかかった洪さんは、どことなく元気がなく、足もおぼつかない感じだった。糖尿病で薬を飲んでいるともおっしゃっていた。そんなせいもあるのだろう、悲観的諦観を口にされることが多く、元気づけようとする私の言葉は宙に浮いた。でも、もう一度絵を描いてもらえないだろうかという私の申し出には、「体調のよいときに」と言ってくれ、それからクレパスを使って描くといかに油絵のように描けるか、ということを説明してくれた。指で感じをだすのだそうだ。私はあいづちを打ちながら何度も「クレヨン」と言い間違え、その度に訂正された。
 洪さんは、自分のなかにいくつか絵にしたい風景がある、とおっしゃられた。単なる風景でなく自分の思いのこもった風景……。11月になってから電話をしたが、すぐ疲れてしまってまだ描けていないとのことで、出版された本から写真を撮って、それを展示に使用することにした。訃報に接したのは、慌ただしく日本と韓国で「BC級展」を行い、ふっと一息ついたときだった。当事者が高齢であることを考えれば、安穏としてはいられないことくらいわかっていた。でも、現実には考えたくない気持ちが働いて、その事実を受け止めかねた。洪さんはどんな風景を心に抱いたまま去ってしまったのだろう。洪さんが語った悲観的な言葉の断片と描かれなかったその絵のことを思い、無念の気持ちが胸をよぎる。


Bintang Besar vol.17
報告
 韓国・朝鮮人BC級戦犯者展

田口裕史(支える会メンバー)

 韓国へ行くのは、気が重かった。
 なんと、日本を発つ日になっても、展示パネルが完成していなかったのだ。
 言うまでもなく、「支える会」には専従スタッフなどおらず、みなそれぞれに自分の仕事を持ちながら、空いた時間を使って運動に加わっている。だから、日本での展示も、パネル作りが間に合わず、開場設営と平行してギリギリに完成させた。今回も何とかなるだろうとは思いながら、しかし、韓国での展示となれば、日本とはまったく事情が違う。
 これまで韓国では、戦犯者は「親日派」「対日協力者」だと見られてきた。その反応の厳しさについては、裁判の中でも原告たちが何度も証言をしている。例えば、現在東京在住の原告金完根さんは、1960年頃に、友人から飛行機代を借りて念願の初帰国をはたしたが、周囲の眼を気にかける母や姉妹たちの様子を見て、このままでは家族に迷惑がかかると考え、永住帰国を断念せざるを得なかった。「BC級展」開催の目的は、日本の植民地支配に起因する、韓国でのこうした誤解を、私たちの責任で、少しでも変えたいということにある。
 しかし、ただでさえこうした厳しい反応があるというのに、私たちの展示が不十分でいい加減なものになってしまっては、伝えたいことが伝わらず、かえって韓国・朝鮮人戦犯者への偏見を助長してしまう結果になるのではないだろうか。飛行機に乗り込んだ私の頭の中は、そのことで一杯だった。
 韓国へ到着してからも、宿で徹夜をし、さらには展示会場で、会場設営とパネル作成を同時進行させながら、結局、開会式典の直前に、やっと、なんとかすべての設営がととのった。まったく、胃が痛む。しかし、本番はこれから。一体どうなることやら、不安は消えなかった。
 ところが、いざ開会してみると、私のこうした心配は軽減された。来場する人たちが皆、展示パネルを一枚一枚丁寧に見てくれている。用意したアンケートに感想を書く人も、大勢いた。私たちの伝えたいことは、なんとか伝わっているのかもしれない。少し、ほっとした。
 会場には、元戦犯の当事者や遺族など関係者も、遠路はるばる来てくださっている。
 杖をつきながらやってきた原告最高齢の朴允商さんは、私たちの展示を見て、本当に嬉しそうにしてくれていた。朴さんのお連れ合いは、戦後、朴さんが戦犯となったことを知り、周囲の眼の厳しさに耐えきれず、ついには貯水池に身を投げ、自殺している。
 刑死した趙文相氏の姪にあたる女性は、趙氏の写真と遺書が掲げられているパネルの前で涙を流し、立ち止まったまま、しばらくそこを離れようとはしなかった。
 今回東京から同行してくださった原告の金完根さんは、来場した地元のYWCAの人たちに請われ、自らの体験を証言した。夕食をともにした大学の先生たちにも、金さんは、長い時間をかけて自分の経験を話している。あの辛い初帰国から35年が経つ。「みんな、私の話を、しっかりと聞いてくれた」と、金さんは私に言った。
 朴允商さんと入れ代わるかのようにして、最終日は、朴さんの息子(朴一濬)さんが来てくださった。彼は、自殺した自分の母親のことを、静かに、私たちに話してくれた。
 私たちは、韓国・朝鮮人戦犯者たちが「親日派」「対日協力者」と呼ばれることの本当の苦しみを、理解しえていない。日本で話を聞くだけでは感じとりきれなかったものが、あったように思う。しかし、こうして韓国で「BC級展」を開いて、そこでの当事者の皆さんの反応に接し、日本軍動員から今にいたる長い道筋の中での苦悩の深さを、まだ少しだけだろうけれども、感じ取れたような気がする。
 朴一濬さんは、自殺した母親の話を終えると、涙を浮かべながら、それでいてとても優しい瞳で、私たち一人ひとりと握手してくれた。あの時の彼の瞳の色が、私の頭から離れない。
 今回の展示は、裁判原告の卞光洙さんの住む清州市で開催した。卞さんは、「戦犯の息子」として、これまで様々な苦しみを持って生きてきた人だ。その卞さんの住む地で、戦犯への理解を少しでもすすめることができれば、と私たちは考えたのだ。
 卞光洙さんは、今回の私たちの展示がうまく行くよう、たいへんな努力をしてくれた。韓国での展示の成功は、卞さんの努力によるものだと言ってよいだろうと思う。とりわけ、地元の若い「活動家」たちに声をかけてくれて、今回の展示を彼らとの共同作業で運営することができたのは、ありがたかった。
 彼らは、私たちの展示準備を手伝ってくれたり、市内観光に連れていってくれたりしている。夜には交流会的なことをして、お互いに考えるところを述べあったりもした。「今後は、日韓協力して運動しよう」という声も、彼らの中から挙がっている。今後とも、交流を続けたい。また、地元の若い新聞記者が、毎日熱心に会場へ来てくれて、私たちのインタビュー記事を大きく載せてくれたことも印象深い。
 韓国の、特に若い世代の間では、戦犯問題に関する理解は想像以上に薄い。知識のないところに、「戦犯」という文字だけ見れば、「親日派」の類と連想してしまっても不思議はないだろう。しかし、その内容さえ知れば、彼らはきちんと「戦犯」の立場をわかってくれる。今後、清州市以外の地でも「BC級展」を開催するべきだということを感じた。
 なお、以前「ビンタン・ブサール」でも紹介したソウル在住の若い映像作家金時雨さんが、清州市での「BC級展」を機に、ついに韓国・朝鮮人戦犯をテーマとするドキュメンタリー映画の撮影を開始した。製作費の問題は重く残っているが、年内の完成を目指している。「支える会」有志で「製作支援グループ」をつくる予定だ。こちらのご支援も、ぜひぜひ、お願いしたい。
 展示を見たある小学生は、「日本人は悪い奴だ。滅びればいい」との感想を記している。とても素直な感想だと思う。日本の総理大臣、東京地裁の裁判長、そして私たちは、この言葉をどう受けとめるべきか。
 判決は、もう間近だ。



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