『アジアウェーブ』1999年3月号に掲載
南部レバノンはいまだ外務省の渡航自粛勧告が続く地域だから、近年この地域を訪れ る人は少ないだろうがサイダ市には十字軍の作った「海の城」が、またさらに南のスー ル市にはたくさんの古代ローマ時代の遺跡も残る。しかもレバノン自体、岐阜県ほどの 大きさだから、首都ベイルートからさほど遠いわけでもなく、最近急速に整備されつつ ある高速道路のお陰で時間距離も短縮された。
しかし一方で、このエリアの半分を占領するイスラエル軍の存在が、そしてその存在 ゆえに今も続く戦争がこの地域に興味を持つ者を遠ざけてきた。ベイルートに暮らすレ バノン人の中には、まだ一度もこの地方に足を運んだことのない者もいるくらいだ。今も続く占領と戦争
しかしイスラエル軍の占領地を含む南部レバノンで生まれ育った人々にとって、ここ が故郷であることにかわりはなく、追い出されたりした者以外は残って日々の生活を営 んでいる。もっともそうは言っても農業以外にこれといった産業はなく、ベイルートに 職を求めたり、海外に出稼ぎに出たりしている者も相当な数にのぼる。しかしそれも地 元の人々はいつイスラエル軍の空爆や砲撃があるか分からないから工場などが作れない のだという。
戦争がなければ工業が発達するか否かは別として、確かに友人の「毎日砲爆撃がある んだ。」というのは事実だった。96年の4月、地域住民が避難していたUNIFIL (国連レバノン暫定軍)基地をイスラエルの戦闘ヘリ・アパッチのロケット弾が襲い1 00名以上を虐殺したのは有名だ。99年に入ってもヒズボッラー(神の党=イスラム 教シーア派政治・軍事組織)の基地を攻撃するといっては、イスラエル軍は民家を「誤 爆」して住民の虐殺を繰り返しているのが実態だ。もっともこの地域住民みながシーア 派イスラム教徒というのではない。カトリックなどのキリスト教徒も暮らしている。先 の国連軍基地での虐殺の犠牲者には何人ものクリスチャンが含まれていたし、私自身も 南部に点在するキリスト教会を訪ねたこともある。だから欧米メディア(一部日本も含 む)の「シーア派テロリストの攻撃に対する報復」というイスラエル軍の主張の垂れ流 しは誤報を超えて、恣意的とすら言える。ここにあるのは他国を占領し続けようとする イスラエル軍の圧倒的な軍事プレゼンスと、これに抵抗する住民の闘いだ。
そして、それはヒズボッラーのように武装闘争だけでなく、虐殺に怯えながらも畑を 耕し、破壊された家を建直してそこに暮らし続けることでもある。レバノンの中でも貧 しい地域と言われるこの地方に、それでも人々が暮らし続けてきたのは、郷里を守るこ とにほかならないからである。それは同じ国内なのに、村外れの見えない境界線の向こ うに残る親兄弟、親戚を訪ねることすら出来ない占領の実態を人々が知っているからだ 。戦火の下に暮らす
海岸通りから一気に標高6〜700メートルまで登ると、地中海の湿気からも解放さ れ緑豊かな高原の空気を満喫できる。レバノン人が他のアラブ諸国にはないと、自然の 豊かさを自慢するのも理解できる。だが、なだらかな尾根の頂上にはどこも不自然な形 の土盛が見える。そこに白い塔など白と青の国連カラーが見えればUNIFIL基地で 、一見何もないかに見えるのがイスラエル軍とその傭兵の「南レバノン軍」の基地で、 高性能の望遠鏡で覗くと戦車砲や機関銃が見える。人々はその射程に入るところに暮ら し、タバコやオリーブ、果樹や野菜を栽培している。その畑の向こうにはこの辺りに駐 屯するヨーロッパから来た国連軍兵士をも羨ましがらせるような御殿が建っていたりす る。湾岸諸国やアフリカ、ブラジル、カナダ等への出稼ぎ帰りの金持ちや、移住した者 の別荘だったりと、いずれも地元出身者の家だ。イスラエルに標的になるのではと心配 していると、まさにその通りになった。96年の大規模な戦争のときには、これら豪邸 は無残にぺしゃんこに破壊された瓦礫の山と化した。その下にはは爆弾の破片やロケッ ト砲弾の部品が転がり、アパッチヘリからミサイルを誘導する導線が木にからまってい た。
しかし翌年にはまた人々は立派な家を建てていた。その豪邸を建てた大工は、立派な 家を作るだけで、自分は小さい家に今も暮らすと言う。いずれにしても占領軍にとって は、ここに暮らし続ける意志を形に表わす新築の御殿が目障りであることに変わりはな い。しかもラマダンの断食も、それに続くお祭りも占領軍に見せつけるかのように人々 は続けてきた。土地をとられ、親族をばらばらにされた人々の怒りはそういう形で表わ されているし、そうした怒りを背景に若者は民兵組織に参加し、特攻を含む文字通りの 命懸けのゲリラ戦を展開している。アラビア語の挨拶の「アッサラーム・アレイコム= あなた方に平和を」と地元民が、境界線の向こうのイスラエルに言えるのは、イスラエ ルが占領を解き、基地を放棄してここを去ったときだろう。