大阪と私    山田 耕一郎

 昭和9年生まれの私は、20才まで北海道の電灯もない山奥で生活しておりました。私と音楽との接点は、小・中学校で代用教員の辺見先生が弾いてくれる足踏みのオルガンと先生がSPレコードを買ってきては聴かせてくれることでした。何の娯楽もない生活では、一度聴いたオルガンやレコードの音楽がいつまでも耳に残り、その一部を口づさんでは楽しんでおりました。
 20才から5年間の札幌での生活を経て、昭和34年の春、25才の時に友人に誘われて東京に出てきましたが、飛行機で行き来する北海道と東京にしか関心を持たないで過ぎてきました。
 会社生活も残すところ3年半程になった平成2年の4月、初めての転居を伴う転勤先が大阪でした。折角来た大阪、私は大阪の方たちと裸の気持ちで付き合ってもらいたいと考えていたところ、谷四のディスククラブの案内を手にし、例会に出席させてもらいました。私はこのときに高野さんを始め、皆さんに「よく来てくれた。」と言って喜んで頂き、知らない大阪の方たちとの付き合いに自信を持ちました。それからディスクの例会に2、3回通った頃に、佐藤亮一さんに「箕面のさんげつ会にもどうぞディスクとは別の味があるから」と、声をかけて頂いて参加させてもらいましした。
 さんげつ会は古畑先生を始め、音楽に対する造詣の深い方々の集まりで、
なんとなく音楽が好きでただ聴くだけだった私は、例会に出席するたびに、なるほど、と心が洗われる思いの連続でした。
 平成5年3月、いよいよ3年間の大阪での生活ともお別れする時に、皆さんのご好意で例会の担当をさせて頂きました。内容は、私が北海道での子供の頃に聴くことの出来た音楽を中心に皆さんに聴いて頂きました。特に、瀧さんのご好意で子供の頃に最も感動して聴いたマリアン・アンダースンの歌う「なつかしきヴァージニア」をSPレコードで聴かせて頂いたことは、生涯忘れることのできない感動でした。
 その他にも、中芝さんが努力している十三のD&E、日曜画家協会他、芝居、旅行、歴史探訪、会食、等々多くの方にいろいろと教えて頂き、同行して頂きました。わたしにとっての大阪は楽しいことばっかりでした。謝謝。

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