私のクラシック音楽事始め
南山 幸蔵
私がクラシック音楽って良いものだなあと感じたきっかけは、昭和12年頃の映画で「未完成交響曲」(ハンス・ヤーライ;マルタ・エッゲルト主演)を観たことでした。学生時代で前後5回も映画館に足を運んだ事を覚えています。
昭和13年暮れに入営、北満での初年兵教育、幹部候補生(衛生部)合格、軍医学校、見習士官で再び満洲へと、音楽鑑賞どころではなかったのですが、任地の東満第一の都会牡丹江市郊外にあった関東陸軍倉庫で陸軍病院、部隊への衛生材料の補給業務にたずさわっていました。当時はまだ平時体勢で市内の官舎から車で送迎という恵まれた環境におかれ、眠っていた音楽への想いが沸々と湧いてきました。街の本屋で音楽鑑賞入門の書籍を買ってきて、交響曲のソナタ形式とか協奏曲が3楽章からなり、第1楽章の終わりにカデンツァが入ることが多いなどを勉強しました。
牡丹江には大きい官舎群があり、クラシック音楽のレコードも販売していました。それを見て蓄音機が欲しくなりましたが、酒保にはなく、堺の母親にポータブル蓄音機を買って送って欲しいと頼みました。昭和15年のことで支那事変たけなわの頃、内地ではそろそろ物資も不足になりかけていた時期で、それを入手するにも大変苦労したことを知り、悪いことをしたと思いましたがやっと念願の蓄音機が送られてきました。
ベートーベンの第5、第6、第7、第9、シューベルトの第8交響曲と次々購入して蓄音機のゼンマイを巻ながら、レコードを何回も裏返し、取り替えて聴いていましたが、サウンドボックスの音では満足できず、電蓄(電気蓄音機)が欲しくなりました。酒保に問い合わせたら民需用には販売されていないが、軍の慰問用に作っているビクターの電蓄が入る可能性があると聞いて是非欲しいと申し込み、それからは酒保に日参して入荷を待ち侘び、2ヵ月ほどして待望の5球スーパーヘテロダインの電蓄が手に入りました。ヘッドの重いピックアップでしたが、当時としては音質、音量とも満足して毎日のように楽しんでいました。
昭和15年暮れ、東のソ満国境の町綏紛河(ロシア名:ポクラニチナーヤ)に出張したクリスマスの夜、雪に覆われたロシア風の駅舎の、余り広くもないが天井の高い待合室で、ホーン内蔵の箱型蓄音機からクリスマスキャロルが快い残響を伴って流れているのを聴いた時は、身の毛がよだつような感激を覚えました。
昭和16年夏、独ソ開戦の影響で準戦時体制となり、東満国境の部隊に転出することになりました。電蓄、レコードを牡丹江に残して前線に行きましたが、あまり緊急状態ではないので、それらを取り寄せて官舎の一室で聴いていました。その地の陸軍病院の薬剤将校に同好がいて、ベートーベンの「弦楽三重奏のためのセレナード」ニ長調(op8)が大好きだと聞き、レコードを借りてその優しいメロディを聴いた感激は忘れられません。12月8日早朝、その電蓄でラジオを聴いていたら、真珠湾奇襲の大本営発表が飛び込んで来て官舎の連中に知らせ、大騒ぎになったことを鮮明に覚えています。
17年暮れ、無事帰還してから、持って帰った電蓄、レコード共堺の戦災で消失し、その後あまり熱心なレコードマニアに成りきれず、さんげつ会員として恥ずかしい限りです。
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