ラパリサード

作成日:2021-07-14
最終更新日:

ラパリサードとは

ラパリサード(英語、フランス語ともに lapalissade) とは、自明の理、わかりきったこと、当然そうなること、という意味である。 また、同義反復、トートロジーとも近い。この語の成り立ちは少し説明を要する。

フランスにジャック・ド・ラ・パリス(ラ・パリース)という軍人・貴族がいた。 彼の墓には次のような碑文がある:

ci gît Monſieur de la Palice: s'il n'était pas mort, il ferait encore envie

(ラ・パリス卿ここに眠る:死ぬ前でも彼を羨む者がいた)

envie というフランス語は、英語でいう envy(妬む、羨む)の活用形である。

ところがこの後半が、うっかりか意図的にか知らないが、次のように読まれてしまった。

s'il n'était pas mort, il ſerait encore en vie

死ぬ前でも彼は生きていた。

ſerait という語は何かというと、serait のことらしい。当時の技術では、 文字 f も文字 s も同じ ſ のように印刷されていたという。これが面白い誤読につながった、 というわけだ。

この誤読に触発されて、18 世紀のフランスの詩人、ベルナール・ド・ラ・モンノエ ( Bernard de La Monnoye )は、ラパリサードを全連に含む 52 連からなる詩を作っている。 わたしはフランス語がわからないので訳出はできない。ともかくもその量に圧倒される。

スプーナリズムと比較しよう。スプーナリズムの名前の元になったスプーナーさんは、 必ずしもスプーナーリズムのことばを発していたという証拠はないが、 奇人であったことには変わりがない。ところが、このラ・パリスさんは、自分の死んだあと、 自分のあずかり知らぬところでことば遊びの名前を付けられている。

フランスでは、「ラ・パリスの言うことには〇〇〇だ」という言い方があって、 これは「〇〇〇というのは間違いようのないほど明らかなことだ」という意味になる。

なお、他の言語では、ラ・パリスに変えて他の人物を充てることがあるようだ。

日本語の例

日本ではラ・パリスにあたる人物は思い出せない。 思い切り言い方を変えると「あたり前田のクラッカー」だろう。

「彼は死ぬまで生きていた」式の文で、私が思いついたのは次の有名なことばだ。

犬が西向きゃ尾は東

ほかにも同じような諺がある

一応、意味を解釈する作業が加わっている。なので「馬から落ちて落馬した」というような同義反復は除いている。

なぜおかしいのか

ラパリサードがおかしな言葉遊びなのか、疑問に感じたが、 次に挙げる間違いがなぜおかしいのかと思うと、それがラパリサードなのだからと思う。 糸井重里(編)「金のいいまつがい」から p.250 の例を引用する:

娘(小4)の理科のテストの答えを見て愕然としました。「水のかさは次の時どうなりますか」 という問いに、「熱したとき→(あつくなる) 冷やしたとき→(冷たくなる)」。こんな当たり前なこと、 テストで聞いてくるわけないじゃないの!」

野暮を承知で(期待されている)解答例を示せば、熱したとき→増える、冷やしたとき→減る。 ただし、水の場合は 4℃ (より正確には 3.98℃)を境に、この温度以下に冷やすとかさが逆に増える。 そのため0℃近い水は密度が軽くなるので水面近くに移動するので、氷が張るのは水面近くからになる。

マキタスポーツの「雨ふれば」

これはおかしさを狙ったのだとは思わないが、マキタスポーツ作詞、マキタスポーツ・ジミー岩崎作曲の 「雨ふれば」という歌がある。歌詞の引用は控えるが、これはラパリサードの例といえるだろう。 なぜラパリサードで作ったのかというと、 マキタスポーツは曲作りにあたって日本のポップソングの典型例をすべてぶち込んだので、 それを際立たせるために歌詞はあえて意味のない、いや、 意味の読みをさせないように、当たり前のことを並べたのだろう。

友人のことわざ

友人によれば「貧乏カネなし」なのだそうだ。もちろん「貧乏暇なし」のもじりなのだが、 今考えてみるとラパリサードである。

なぜ知ったのか

微積分のこころに触れる旅という数学の本で、 ラパリサードのもとになったラ・パリス(ラ・パリース)のことを初めて知った。

小泉進次郎構文

小泉進次郎は、日本の政治家である。この小泉が発するある種の言い回しが「小泉進次郎構文」と呼ばれていることを最近した。 たとえば、2019 年の国連気候行動サミットに出席した小泉は、次のように述べている。

今のままではいけないと思います。 だからこそ、日本は今のままではいけないと思っている。

この「だから」という接続詞はおかしい。なぜなら、「だから」のあとには、論理的に帰結可能でかつ新しい情報が提示されなければならないから。 しかし、このだからこそは、「Aである、だからこそ A である」という構文で、A であることを繰り返したにすぎない。 なんかこの文を見ていると、晩年の武者小路実篤を見ているようだ。

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MARUYAMA Satosi