理想のピアニスト(第1回):クリスティーナ・オルティスの思い出

作成日:2003-03-24
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さて、理想のピアニストについて考えるところを述べようとすると、 早速とまどってしまう。 どのように理想ということばを使えばいいのだろうか。 たとえば、私にとっての理想のピアニストとは、 私においしい料理をおごってくれるピアニストである。 しかし、このようなことをここで書くべきではないような気がする。 なぜかと自問してみると、 おごってくれればピアニストでなくてもいいから、ということがわかった。

上はくだらない例だ。もっとましな例を考え付かないといけない。しかし、 考えれば考えるほど、錯綜しそうだ。 昔、プラトンの対話篇を好んで読んでいたときのことを思い出した。 「これはこうだ」と自分が断定しようとしても、 ソクラテスが出てきて 「しかしそうだとすると、こうなるねえ。それは違うのではないかな」 と言われてギャフンとなりそうだ。

そんなときは、とりあえず誰かのことばに頼ることにする。 これもよく覚えていないのだが、 カール・バルトという神学者がいったせりふだそうだ: 「本というものは、その本を読んだことによって読者の人生が変わるか、 さもなければその本を書いたことによって著者自身の人生が変わるか、 いずれかでなければならない」。 知人に敬虔なクリスチャンがいて、 たまたまそいつの部屋にカール・バルトの本が何冊もあった。 先のセリフについて聞いてみると、 「カール・バルトって、そんなこといったの?知らなかった」 とのことだった。

さて、先のせりふをもじれば、 「理想のピアニストとは、そのピアノ演奏によって、 自身の人生か、聴衆の人生かが変わるようなものでなければならない」といえる。 とはいえ、本と違って、自分のピアノ演奏で自分の人生が変わるというのは考えにくい。 なぜ考えにくいかはよくわからない。後に考えたい。

わたしは、理想のピアニストではない。他人の人生を変えるような演奏など、したことがない。 まして、自分の人生が自分の演奏によって変わったこともない。 しかし、あるピアニストのある演奏会で、確実に何かが変わった体験はある。それを述べる。

小学生のころ、住んでいた相模原市のホールに、 クリスティーナ・オルティス(クリスティナ・オルティズ)というピアニストがやってきた。 当時は無名で、 席もかなり空いていた。演奏者には酷だと幼心に思ったが、 オルティスは手を抜くこともなく、バリバリと難曲を弾いていた。 プログラムはよく覚えていないのだが、A プログラムと B プログラムがあって、 そのどちらかを相模原ではやっていた。仮に B のほうとしておく。 こちらには、ショパンのピアノソナタ第3番があったはずだ。この演奏にはいたく感銘した。

さて、これからが本題である。演奏会に配られたパンフレットには、A プログラム、 B プログラムの両方の曲名が出ていたが、相模原の B プログラムにはなく、 他の会場で行われた A プログラムにある曲がいくつかあった。その曲の一つに ヴィラ=ロボスの「白いインディオの踊り」という、妙な名前の曲があった。 私はこの名前に心ひかれた。どんな曲なのだろう。この曲を聞いてみたいと願っていた。

さて、オルティスは予定の曲目をすべて弾き終えた。 アンコールに応じて、どんな曲を弾いてくれるのだろう。 私は、「白いインディオの踊り」を弾いてくれるのではないかと期待していた。 さて、オルティスはアンコールを弾いた。始めて聞く曲だった。なんだかわからないけれど、 こんな曲があるのかと興奮した。しかし、この曲は「白いインディオの踊り」なのだろうか。 アンコールの前にも後にも、弾いた曲目が何であるかは明かされなかった。 私は釈然としないまま、コンサート会場を後にした。

それから十年後、「白いインディオの踊り」の楽譜を見ることができた。 弾いてみたのだが、悲しいかな、 そのアンコールがこの「白いインディオの踊り」だったのか、わからなかった。 結局、私はアンコールの曲を覚えていなかったのだ。 しかし、それを差し引いてもこのヴィラ・ロボスの小品は十分魅力的だった。 私は練習して、一度だけ公開の場で弾いてみた。けっこう受けた。

私のピアノは達者ではない。だから、大向こう受けのする曲を弾くのはいつもためらってしまう。 しかし、この「白いインディオの踊り」という、 極東で育った子供には謎めいた印象を与えるこの題名をオルティスは紹介した。 その結果、私には珍しく、派手な曲を披露するということができた。 オルティスは十分、私にとっての理想のピアニストであるといえる。

なお、この曲はほとんど白鍵のみを使って奏される。 「白い」という題名にある形容詞から楽曲の構造を決めたのか、あるいはその逆かは、 私にはわからない。 (2003-03-24)

追記:クリスティーナ・オリティスは、のちに NAXOS にフォーレの五重奏曲を録音した。 こんな形で出合うとは、運命の不思議さを思う。(2013-07-15)

追記2:「白いインディオの踊り」がどんな曲かを知りたければ、Youtube で Dança do Índio branco を検索するといい (2016-03-26) 。

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