土屋 賢二:あたらしい哲学入門 |
作成日: 2011-09-22 最終更新日: |
日常で出くわすような問題を哲学の問題として扱い、その解決方法を示す。
著者の説明は一貫している。それは、哲学上の問題の多くは言語の問題であるということ、 それらを言語の問題としてとらえると実は意味をなしていない、それがために問題とは認められない、という解決の仕方である。
このような解決方法を示されると、なんだ、解決になっていないじゃないか、俺をはぐらかしているのか、 と文句をつけたくなってしまう。 土屋先生は、ユーモアエッセイの中でもウィトゲンシュタインの「問題は解決されるべきではなく、解消されるべきである」 ということばを引いている。エッセイを読んだときはなるほどと思ったが、 実際は重大かつ困難な問題という認識が、土屋先生の手にかかると解決に値しない問題になってしまうのだ。 これには困ったものである。もっとも、困ったものだといっても、もうこれ以上追及しなくてよいとのだという安堵の意味もある。
追及をどこでやめればいいのか、というのが私の今の関心事である。土屋先生は、 「空はなぜ青いのか」を問うのはナンセンス、といっている。というのは、 理屈としては光の散乱や光の波長などで説明されるけれども、かりに分解したところでさらに説明が必要となるので、 延々と理屈が続く。それならば、空は青いでやめてとめておくのがよい(特に子供から問いかけられた親など)のではないか、 という意見である。
まあ、子供の好奇心というのは際限がないから適当なところでやめておくのがよいとは思う。しかし、 このような好奇心に対して、適切な解答をすることで当人の意欲をはぐくみ科学の発達を促したりすることもあるかもしれない。 そのような不思議を生み出すような解答は、解決になっているのはないかとも思う。
まえがきで著者は<「いかに生きるべきか?」について話した部分は省略した。>とある。 ちょっとこれは残念である。ひょっとしたら、東京書籍の「幸・不幸の分かれ道」なのかもしれない。 この本はまだ買っていない。少女漫画風の表紙にずっこけたからである。
この本は哲学の実況中継を意図してか、本の章に相当する区切りに時限ということばを使っている。 さて、この本の 5 時限目は、基準の使い方という表題である。この基準を使って問題を解決(解消?)する例がある。 p.119 に掲げられている問題を引用する。
「ぼくがピアノを弾いているとき、自分が弾いているはずです。でもいくら観察しても自分が弾いているという意識は見当たらないし、 <自分>も意識の中に見当たらない。それなら、なぜ<自分が弾いている>という言い方をするんでしょうか?」
実際の解決については同書を参照されたい。 私自身もピアノを弾くこともあり、そしてこのような疑問を抱いたことがあったので、この例の解決法は説得力があった(納得はしていないが)。 そして最近、この問題を別の角度から取り上げた例を発見した。糸井重里の85 点の言葉という本は、 いろいろなお題で募集したキャッチコピーを糸井重里が選んで松竹梅の評価と短評付きで紹介している。 さて、「ピアノ」という御題で松となったキャッチコピーはこれである。
ピアノを弾くあなたを知っていますか
まるで関係のない本につながりがあったとは驚いた。読書の醍醐味といえる。
書 名 | あたらしい哲学入門 |
著 者 | 土屋 賢二 |
発行日 | 2011年2月10日 |
発行元 | 文藝春秋 |
定 価 | 1333円(本体) |
サイズ | ページ |
ISBN | 978-4-16-373040-0 |
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