フォーレ:バラード嬰ヘ長調 Op.19

作成日:1998-06-10
最終更新日:

1. バラードに関するエピソード

フォーレのバラード 嬰ヘ長調(Op.19)には、 ピアノ独奏版とオーケストラとピアノのための版とが存在する。ピアノ独奏版は、 フォーレのピアノ曲のなかでは 主題と変奏と並んで 大規模な作品である。 独奏版を弾いてみた、 あのフランツ・リストが「指が足りない」といった有名な話がある。 この曲の独奏版は確かに難しく、 その割に効果が上がらないとフォーレが判断したため (リストがオーケストラ版を勧めたとの説もある)、 後にオーケストラとピアノのための版が作られた。

リストの挿話は「指が足りない」といったのであり、 「これは難しすぎる」といったのではない、 とネクトゥーが指摘している。以前に書いた物は誤りだったので訂正する。

本当はオーケストラ・ピアノ版で聞くのがいいのだが、この版で実演されることはまれである。 ピアノソロでもいいところは十分伝わるのは承知の上で、 ぜひとも両方の版で聞いてほしい。 どちらも聞き込めば味があるし、お互いが足りないところもある。私はいつも、 片方の版を聞くと同時に、もう片方の版を頭で補い合って聞いている。 つまり、ピアノソロを聞いている時は、 オーケストラの迫力あるクレッシェンドを思い出し、 オーケストラ・ピアノ版を聞く時は、 オーケストラ伴奏部分がつかみ切れない、ピアノソロの繊細な音型を想像している。

そしてなにより、 この「バラード」は私がフォーレの作品に導かれるきっかけになった曲なのだ。 ピアノの腕に自信がある人はぜひとも挑戦してほしい。 リストが断念したからといってむちゃくちゃ難しいというわけではない。 ただ「三本の手」の効果を念頭に置いている箇所は頻繁に出てくるので、 注意が必要である。 余談だが、フォーレの書いたピアノ曲で部分的に「三本の手」効果を意識したものに、 舟歌第3番、第9番がある。

もう一つのエピソードとして取り上げられるのは、 フランスの文豪、マルセル・プルーストが、 有名な長篇「失われた時を求めて」の一節で、 このバラードと思しき曲を描写している、 というものである。私はこの小説は、原語はおろか、訳でも読んだことはないので、 これ以上は述べられない。

編成に関して言えば、フォーレのオーケストラとピアノの作品には、 幻想曲 Op.111もある。


2. バラード概観

さて改めて、この曲を概観してみよう。

この曲の演奏時間は約15分である。 A, B, Cの3部分からなり、切れ目なく演奏される。 題名には入っていないが、主調は嬰ヘ長調であり、 変ホ短調の部分との対比を基軸に曲は展開する。 フォーレ独特の音階や転調はそこかしこにあらわれるが、 晩年に見られる晦渋で難解さを思わせるものはない。むしろ、 ごく自然な流れのうちに心地よい驚きに心が奪われる、そんな音楽である。 ピアノの書法も無理がない。 リストの「指が足りない」という所感は、フォーレが用いた大胆な転調法から来ているのだろう。 これは、主調にシャープ6つ、またはフラット6つという、 黒鍵を主体とした音階で書かれていることからも言える。あのショパンは、 「ピアノの音階の練習はロ長調から始めるべし」といっている。 黒鍵の多い調は、長い中央の三本の指を黒鍵に割り当てやすいので、 ピアノを弾く指にとっては楽なのだ。

A 部分はAndante Cantabile, 4/4拍子。 左手の和音の歩みにのって右手が物憂気に歌う。この節回しは、 フォーレが生涯にわたって好んだ、人好きのする優しい旋律だ (下の楽譜参照。また、フォーレの旋律も参照)。

この歌はやがて一拍遅れのカノンとなる。 オーケストラ版では、追いかけるのはフルートであり、爽やかなこと限りない。 終わり間際に、何気ないようだがいわく言いがたい和声を伴う、 4声のカデンツが登場する。 これも他の作曲家には真似のできない、若き匠の技である。

A 部分の終わりに嬰ヘ長調の和音が何度も鳴らされる。 しかし、最後の和音は変ト長調になっていて、 こっそり同音異名の準備がされている(ピアノ独奏版の場合。 オーケストラ版の場合は最後の和音も嬰ヘ長調)。 このあと、B 部分が始まる。

B 部分は Allegro moderato, 4/4 拍子。 順次進行と分散和音の組合せが美しい旋律が、長調と短調のはざまで、 高音と低音で歌われる。そのうち、A 部分も出てきて盛り上がる。

C 部分は Andante, 6/8 拍子。トリルに似た狭い音型の動きである。 オーケストラの管楽器でこの部分が提示されたあと、 アルペジオがピアノで奏され、音色の効果がより映える。

後に、C部分のトリルが拡大変形され C1 部分としてAllegro 4/4 拍子となり、 より大きく広がり、B部分の節と合わせて展開される。

最後はC部分に戻り、静かに曲を終える。


3.個人的な想い出

1999 4/5のことである。 桜がきれいな川べりで散歩を楽しんでいた。 そのときちょうどフォーレの「バラード」を思い出した。 先輩のOさんが、卒業にあたってこの曲を演奏会で弾くという。 Oさんは、ピアノ独奏版を弾いたのだが、オーケストラ版も参考にしていた。 いわく、

オーケストラ版では最初に弦のピチカートがある。いったんこれを聞いて しまうとピアノ独奏版は左手のFisだけなので物足りない。 私が弾く時には最初の音には左手だけではなく右手のFisも入れる、と。

そっと置いたFisの音からもう十年以上たっている。


4.演奏について

4.1 ピアノ独奏

藤井一興

藤井一興の演奏は、勢いがあり音も良く鳴っている。 オーケストラの伴奏があるように聞こえる個所もあるほどだ。 また、ペダリングに非常な神経を使っているのがわかる。 わずかなキズとして聞こえる個所もあるが、 むしろ工夫なのかもしれず(第3部導入時のトリルなど)、 まだまだ聴き込む価値があるのだろう。

ジャン・ドワイヤン

ドワイヤンは、ゆっくりめのテンポであせらず弾いている。 それが多少もたれて聞こえるか、 幅の広い大人の演奏ととらえるかは、聴き手の心持ち次第だろう。 私がおやと思うのは、 後半部のトリルが記された音の上(半音または全音)の音から弾いていることだ。 バロックではふつうなのだが、こちらはロマン溢れる曲であるし、 素直に書いてある音から弾きはじめるのがよいのではないか、と私は思う。

キャスリン・ストット

キャスリン・ストットの独奏は、丁寧さが伝わってくるのがよい。 ただ、最初のページでリズムが半拍伸びているミスがあり、 これは頂けない。短調に変わってからも、リズムがもっと弾んで欲しかった。 尻上がりに調子をあげている感じだけに、 序盤と中盤が気になった。

ピエール=アラン・ヴォロンダ

強弱やテンポのめりはりが強い。しかし、テンポルバートが鼻につき、 少しいやらしい。またわずかに譜読みのミスがある。

ジャン=フィリップ・コラール

オーケストラ版と同じ味付けの演奏である。独奏であることから、 多少テンポは自由に動いている。しかし、ヴォロンダほど極端ではなく、 自然に聞こえる。

その他、ポール・クロスリー、クン=ウー・パイク、 マグダ・タリアフェロ、ジャン=クロード・ペヌティエらの演奏がある。筆者は未聴。

4.2 ピアノとオーケストラ

4.2.1 ジャン=フィリップ・コラール、プラッソン指揮

勢いのあるピアノに包容力のあるオーケストラがよく調和している。 ピアノがもったいを付けているところもあるけれど、 それがこの曲の場合にはいい方向に作用しているようだ。

4.2.2 グラント・ヨハネッセン、フロマン指揮

ヨハネッセンのピアノは、コラールのピアノに比べておとなしい。 オーケストラも、 ピアノと微妙なずれがあり、強奏において不安定に聞こえる。 全体の印象としては、コラールの録音のほうがよいように思える。 こちらの演奏は、オーケストラを聴くのに向いている。

4.2.3 エリック・ハイドシェック、ベンツィ指揮

テンポの揺れが極端で、歌舞伎の見栄を切っているようだ。 フレーズの解釈も、同じメロディーを最初スタカートで、次にスラーで表現するのにはたまげた。 このような演奏は、フォーレ固有の音楽様式とは反するように思えるのだが、 なぜか許してしまう。高貴な顔立ちから来るブランド信仰のためだろうか。(2009-07-11)

その他、筆者未聴の音源が下記の通りある。

ピアニスト 指揮者 オーケストラ
ジャン・ドワイヤン ジャン・フルネ コンセール・ラムルー管弦楽団
ロベール・カサドシュ レオナード・バーンスタイン ニューヨーク・フィルハーモニック
ルイ・ロルティ ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス ロンドン交響楽団
フィリップ・アントルモン シャルル・デュトワ フィルハーモニア管弦楽団
ダニエル・ヴァルサーノ アンドリュー・デイヴィス フィルハーモニアオーケストラ
ジャン・ユボー アルミン・ジョルダン ローザンヌ室内管弦楽団
マルグリート・ロン アンドレ・クリュイタンス パリ音楽院管弦楽団
ジョン・オグドン ルイ・フレモー バーミンガム市交響楽団
フランソワ・ジョエル・ティオリエ アントニオ・デ・アルメイダ アイルランド国立交響楽団
エマニュエル・シュトロッセ エドモン・コロメール ピカルディ交響楽団

5.演奏体験

この難しい曲を何の因果か弾こうと決めた。その途端に苦難が振りかかった。 以下はその苦闘の記録である。小節番号は管弦楽伴奏版 Eulenburg スコアによる。 同様にピアノ譜も特記なき場合は Eulenburg スコアによる。

小節番号1 同時に当てる

左は黒鍵の3つの和音を同時に当てないといけない。これは難しい。 一度グランドピアノで練習したら、押え方が弱過ぎて音が出なかった。 関係ないが笑い話を1つ。 本番はベーゼンドルファーのインペリアルを柄にもなく使わせてもらったのだが、 例の97鍵のため位置を間違え、叩いた最初の Fis の音が1オクターブ低かった。 これには八重洲の楽団員も失笑していたなあ。

小節番号5 3拍めは待つ

これは管弦楽伴奏版の話だが、 5小節めから1拍めと3拍めに8分休符が入る場合がある。 これは低弦のヴィオラとチェロ、コントラバスが入るタイミングである (例外あり)なので、神経を使うこと。

小節番号13 左手Cisはなぜオクターブか

これはEulenburgスコアのみ(春秋社版は単音)。理屈としては、 これを機に低音はオーケストラに渡されるからだろう。

小節番号14 FとFisに注意

左手、3拍裏は当然 Fis(Eulenburgスコアは誤ってF)だが、 4拍裏はFになっている。これは、次の15小節の1拍裏Eisの同名異音。 減7の響きが保たれている。

小節番号19 Gisは弾きなおす

4拍裏もGisだが、タイにはせず、弾き直す。 減7の響きが保たれている。

小節番号23 休符の位置に注意

1拍表の休符は、23小節と25小節、以下1小節ずつ。 コントラバスのピチカートに対応している。 なお、スコアでは23小節4拍裏のみアルペジョがないが、 他と同じようにつけていいだろう。春秋社はつけている。

小節番号38 旋律と対旋律の分離

2拍め、対旋律の右手部分のDesをうっかり強く弾いてしまい、 旋律のように聞こえてしまうことがあるが、これはいけない。 弾かないぐらいのほうがいい。

小節番号41 低音の重要性

本当はもう一本手がほしいぐらいのところ、左手の小指は低音を担当する。 外さないようにしないといけない。 こういう低音をチェロやコントラバスで補強してくれればいいのに、 フォーレは独奏版をそのまま置き換えているだけである。 それから、メロディーは中声部に移っているので注意。

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MARUYAMA Satosi