Rail Story 9 Episodes of Japanese Railway

 ●鵜沼駅の謎

岐阜・愛知・三重にまたがる濃尾平野の北の端、岐阜県各務ヶ原市。ここはJR東海・高山本線と名鉄犬山線・各務原線が接する交通の要所で、鵜沼駅(JR東海)・新鵜沼駅(名鉄)がある。その先は険しい地形を克服して温泉で有名な下呂や、今も古い町並みが残る高山へ、さらに富山へと線路が続いている。

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現在の高山本線は、大正9年鉄道省高山線の岐阜-各務ヶ原間開通によって歴史が始まった。また富山側からは飛越線の名で建設され、昭和2年富山-越中八尾間が開通、その後も岐阜・富山両側から少しずつ高山を目指して路線の建設が進められていく。昭和9年10月25日、レールは高山で繋がり両線は「高山本線」となった。 これにより岐阜・富山両県の悲願が達成されたが、建設を後押しした政財界の懸念は一つだけ残っていた。それは中京の中心、名古屋からは岐阜経由、しかも乗り換えを要するというハンデであり、これは如何ともしがたいものだった。以降鵜沼が高山本線と名鉄犬山線の接点という大きな意味を持つことになる。
何故なら三角形の2辺を通る岐阜経由より、1辺で済む現在の名鉄犬山線で鵜沼乗換えのほうがずっと速かったからだ。

名鉄のほうは、大正15年10月1日にまず名岐鉄道犬山線が新鵜沼まで全通、続いて各務原鉄道が昭和2年9月20日に長住町-新鵜沼間を全通させている。両社の接続点、新鵜沼駅は鉄道省高山線鵜沼駅に隣接してつくられ、鉄道省・名岐鉄道・各務原鉄道の三社が揃うことになった。
しかし高山線と各務原鉄道はほぼ並行した路線である。このような場合私鉄路線の建設は認可されないことが多かったが、沿線には旧日本軍の施設が多く存在していたため、兵員の輸送などのために路線の建設が認められた珍しい例である。
昭和10年3月名岐鉄道は各務原鉄道を合併、続いて同年8月には愛知電鉄と合併、現在の名鉄となる。

ところで元の各務原鉄道は名鉄各務原線になったが、基点は今のように新岐阜ではなく長住町と名乗っていた。これは戦後の昭和23年4月17日に、それまで国鉄岐阜駅に隣接していた名古屋本線新岐阜駅が手狭になったことを受けて各務原線長住町駅へ引っ越しが行われ、この時に両駅を統合して名鉄「新岐阜駅」として再スタートしているためだ。ただし名古屋本線は高架ホーム、各務原線は地平ホームという形は残ってしまった。現在の新岐阜駅東口は昭和63年に改築されているものの、かつての各務原鉄道長住町駅の名残でもある。

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新鵜沼を目指した名岐犬山線は、その直前に木曽川を越えなければならなかった。しかし地形上路線の背後には山が迫っており、また隣接してつくられた県道も同様に橋を必要としていた。

ここで木曽川に掛けられた犬山橋は「鉄道と道路を共用する」ことになり、電車は道路の中央を走ることになった。この橋は大型の電車が路面電車のように走ることで有名になったが、戦後は増え続ける道路交通量に悩まされていく。またこの橋では犬山線は複線になっているものの、実際には上り線と下り線の間隔が狭く、橋上でのすれ違いは出来なかった。しかも徐行での通過を余儀なくされ、速度は25km/hに制限して走っていた。これはますます道路を行くクルマの邪魔になってしまった。
犬山線と県道の分離は平成の世になってようやく具体化し、犬山橋が完成して約75年経った平成12年3月28日、下流側に建設された道路橋が共用開始となり、ようやく交通のネックが解消した。

のち犬山橋は名鉄専用となり、道路の床版が撤去された後には予定どおり線路同士の間隔が広げられた。今ではかつて道路と共用していたという名残は殆ど見受けられないほど変貌してしまったが、電車で橋上をのんびり走った経験を持つ人や、クルマで通った際に、あやうく電車にぶつけられそうになった(笑)記憶のある人はまだ多いだろう。

改修工事中の犬山橋 犬山橋を通過中のパノラマスーパー
改修工事当時の犬山橋 犬山橋を通過するパノラマスーパー

現在これら二つの橋は「ツイン・ブリッジ」といわれている。今は名鉄の電車もクルマも、何のストレスもなく走るようになった。

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現在名鉄犬山線と各務原線は直通運転も行っており、もはや同一の路線としての性格も持っている。しかし両線は生まれが異なっているとおり、かつては別々の運転を行っていた。いや、しなければならなかった。

というのも、新鵜沼駅構内は今では信じられないが犬山線は「終点」、各務原線も「終点」で、線路は直角に接していただけでレールさえも繋がっていなかった。しかも電圧も犬山線が1,500V、各務原線は600Vで、電車の直通もそのままでは行えなかった。
このように社内の主な路線の規格がバラバラというのは電車の運転効率の悪化を招くため、岐阜市内線など一部路線を除いて1,500Vに統一することになり、この時犬山線と各務原線は、名古屋本線のバイパス的役割も必要となり直通運転を行うことになった。昭和39年には新鵜沼駅構内の大改良工事が完成し、電圧も統一されて両線の直通運転が始まったが、その後も数度の改良工事が行われ、かつて両線が別々だったという名残は殆ど残っていない。

さて名鉄「新鵜沼駅」はずっとJR東海「鵜沼駅」と隣接しているが、両駅は名前こそ違うが、同じ駅として扱われているという不思議な存在ということをご存知だろうか。

実は駅同士は最初から「共同駅」となっていたのである。現在もこの形態は続いており、事実駅構内は連絡跨線橋で繋がっているが、JR東海鵜沼駅は「北口」、いっぽうの名鉄新鵜沼駅は「西口」となっており、今もなお一つの駅としても機能している。

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JR東海高山本線と名鉄犬山線は、線路でも繋がっていた。

昭和40月8月5日に運転を開始した名鉄の国鉄高山本線直通準急『たかやま』は、新鵜沼駅から構内の連絡線を経て国鉄鵜沼駅へ乗り入れていたが、これはもともと貨車の直通を行うための引込み線だったため、新鵜沼駅を少し各務原線を新岐阜方面へ少し進んだところでバック、一旦引込み線に入って再びバック、ようやく鵜沼駅のホームに着いて高山を目指すという二度手間が必要だった。
これでは時間のロスが大きいというのは当初から判っていたこと。準急『たかやま』はのちに急行『北アルプス』となり富山地方鉄道にまで乗り入れることになるが、名鉄は新鵜沼駅をパスして方向転換なしにそのまま高山本線とを繋ぐ連絡線を建設、昭和47年9月27日からめでたく使用開始となった。これは犬山市と『北アルプス』の乗り入れ先、立山町の姉妹都市締結を生んだという「縁結び」線路にもなった。

鵜沼連絡線は1日に1往復の『北アルプス』専用という特殊な存在だった。『北アルプス』は平成3年3月16日に準急『たかやま』時代から活躍を続けた名鉄キハ8000系から新鋭キハ8500系にバトンタッチ、大幅な性能の向上にさらなる活躍が期待されたが、高速道路の開通とバス路線の台頭には勝てず、平成13年9月30日をもって廃止になったのは記憶に新しいところ。

名鉄キハ8500系は第三セクターの会津鉄道に移籍、快速『AIZU MOUNT EXPRESS』を中心に走り出した。最近はJR東日本磐越西線の喜多方駅まで乗り入れて『北アルプス』時代の活躍を彷彿とさせている。JR東海「ワイドビュー」シリーズの車内放送オルゴールもそのまま使われていると聞く。

ところで、『北アルプス』が走った連絡線は、現在どうなっているのだろう。

新鵜沼駅直前の連絡線分岐点跡 ポイントレールは撤去されている
現在の犬山線との分岐点 先端が撤去されたポイントレール

名鉄犬山線新鵜沼駅の名古屋方には、連絡線が残っている。しかし犬山線から分岐するポイントレールは先端部が撤去され、事実上名鉄からの連絡は出来なくなってしまっている。それどころか線路は駅の裏に出来た駐車場への道路と化している。
その先、JR高山本線に向けては線路や踏切の警報機などはそのまま残っており、JR線との接続ポイントレールは名鉄側のように一部撤去されてはいない。

その先はかつてのまま もうここを『北アルプス』は通らない 夢はまだ高山へと続いている
線路は当時のまま残っている 二度と鳴ることがない警報機 連絡線は今もJR高山本線へと続いている

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こうして鵜沼駅は名鉄新鵜沼駅と共に長く、かつ複雑な歴史を持っている。しかし今も残るJR-名鉄の鵜沼連絡線は、少しの改修で再び機能を回復することが出来るはず。今、赤錆びてしまったレールを見ると寂しさを感じずにはいられないが、これを含めて時代の流れと考えるべきなのだろう。


JR東海高山本線には、現在特急『ひだ』が走っています。かつての僚友、名鉄『北アルプス』は既に姿を消しましたが、今に至るまでにはこれまた苦難の連続だったようです。

次はその列車の話です。

【予告】 特急『ひだ』うらばなし(前編)

―参考文献―

鉄道ジャーナル 1995年2月号 キハ80系<メモリアルひだ号>の力走 鉄道ジャーナル社
名列車列伝シリーズ15 特急しなの&ひだ+JR東海の優等列車 イカロス出版
新版まるごと名鉄ぶらり沿線の旅 七賢出版

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