Rail Story 9 Episodes of Japanese Railway |
●明暗の別れ道
東京・大阪など大都市圏には今も成長を続けている路線が多く存在する。最近は「直通運転」が華盛りで東京メトロ半蔵門線の押上延長で東武伊勢崎線との直通が始まり、JR東日本関連ではりんかい線の大崎延長と埼京線との直通運転開始、それに湘南新宿ラインがスタートしたが、大阪ではJRの既存路線を地下線で結び、新たな運転系統をもたらした「JR東西線」が記憶に新しいところだ。
しかしJR東西線には、兄弟路線がもう一つ存在した。
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昭和56年4月3日、国鉄(現在のJR)は運輸省(現在の国土交通省)に大阪における二つの新路線について工事施工認可申請を行った。
一つは「片福連絡線」というもので、片町線(現在の学研都市線)と福知山線を接続し、新たな通勤路線としようというものだった。
それまで片町線といえば、電化区間は長尾までで単線区間もあり、オレンジ色の旧型電車が走るどちらかといえば華やかさには欠ける路線だった。かたや福知山線は、特急列車の折り返しのため電化こそ塚口まで1駅だけ行われていたが、実質的には未電化路線であり、ディーゼルカーや客車列車がのんびり走っていた。事実上並行する阪急宝塚線に押されて目立たなかった。
ところが昭和40年代後半から大阪市郊外の人口は激増を見せ、片町線・福知山線とて今までどおりの体制では到底通勤輸送にはついていけなくなってしまった。
昭和54年10月には片町線は長尾まで複線化された。同年4月には既に福知山線も宝塚までの複線電化が実現しており、総武線と同じカナリア色の電車が走り出している。両線は大阪市内への通勤路線としての頭角を徐々に現していくことになるが、ここまでの約10年間全く動きがなかったのだろうか。
昭和46年12月、都市交通審議会答申第13号では、両線を接続して通勤路線とすることが緊急に必要とされ、昭和48年には国鉄が事業主体として工事に着手することになっていた。しかしここで日本を襲ったある「事件」が工事の凍結を招いてしまった。
それは「オイルショック」である。巷からトイレットペーパーがなくなるなどと根拠の無い噂に振り回された事もあったが、日本全体の経済活動は一気に冷え込んでしまい、国鉄も財政難となってしまった。当然計画は事実上中止となったが、後に片町線・福知山線の複線電化により片福連絡線案が再燃、大阪市からも国鉄に対し建設が熱望され、実現に向けて動き出すことになる。
もう一つは「大阪外環状線」というものだった。「片福連絡線」が大阪市内を貫通する新路線なのに対し、この路線は既存路線の改修によるもので、具体的には大阪市の東郊を走る「城東貨物線」を通勤路線にしようという計画である。
首都圏にはご存知「武蔵野線」が昭和48年4月に開業しているが、大阪には同様の郊外のバイパス線が昭和6年、既に出来上がっていた。これは山手線に対する武蔵野線の関係と全く同じであり、城東線(現在の大阪環状線)からの貨物列車分離のためにつくられた城東貨物線だった。電化は一部区間のみで、ずっと蒸気機関車が輸送の主力だった。
この城東貨物線を複線化と同時に電化して通勤路線にしようという案は片福連絡線よりも歴史が古く、昭和27年には沿線住民による外環状線促進連盟が結成され、国鉄に対し着工をずっと要請していた。事実この線が通勤路線になれば京阪、近鉄など既存路線との接点も多く出来るため、交通が至便になることは大いに予想される。その声を受け、国鉄は片福連絡線と同時に新路線とする計画を立てたのであるが…。
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片福連絡線はルートを決めるため調査委員会が発足し、国道2号線沿い、東海道本線沿い、両者を折衷したものの三つが検討されたが、結局折衷案でまとまり、昭和63年5月には第三セクター「関西高速鉄道」の手で建設されることになった。翌年2月には工事施工認可も下り、着工に至った。
時を前後して国鉄から生まれ変わったJR西日本は、昭和63年3月13日、大阪を中心とする路線の愛称を決めた。片町線は「学研都市線」に、福知山線は「JR宝塚線」と名乗るようになった。
路線の改良も進み、平成元年3月11日に学研都市線は木津までの全線電化が実現、JR宝塚線も昭和61年11月1日に福知山まで電化、さらに複線電化は進んでいく。こうして片福連絡線の受け皿作りは着々と行われていった。
また片福連絡線開業を控え、JR西日本は関西地区の普通電車用オリジナル車、207系を平成2年にデビューさせた。車体の裾を絞ったワイドボディで最高速度は120km/h、翌年からは本格的に増備され学研都市線・JR宝塚線から古豪103系を追い出したばかりか、その翌年には東海道本線・山陽本線改めJR京都線・JR神戸線にも走り出した。
当初は平成7年中に開業の予定だった片福連絡線は、阪神大震災の復興を優先させたことや工事途中で路盤の沈下等もあり2年ほど遅れた平成9年3月8日、愛称「JR東西線」として開業。学研都市線・JR宝塚線の直通運転が始まったが、尼崎駅の改良が功を奏して学研都市線・JR神戸線の直通運転も実現した。
開業前日にはながらく「片町線」の名の由来だった片町駅が廃止となったが、面白いことにJR東西線内の途中駅全てが予定を変更して今の駅名を名乗っている。
現在の駅名 | 原案 | 理由 |
大阪城北詰 | 片町 | 駅が地下になり片町から網島町に移ったため、大阪城のイメージを込めて駅名ごと変更か? |
大阪天満宮 | 南森町 | 地下鉄谷町線乗換駅だが、駅の前にある神社名をあえて命名したようだ |
北新地 | 桜橋 | 大阪駅前の再開発事業(ディアモール)との絡みで”キタ”を連想させるこの名前に |
新福島 | 福島 | 先輩格の大阪環状線福島駅とは若干離れてしまったので別扱いされた |
海老江 | 野田阪神 | 他社の名前をそのまま名乗るのはどうかということで、無理やり変更 |
御幣島 | 歌島橋 | 近くには歌島橋バスターミナルもあるが、駅名は上を行く道路の御幣島筋からとった模様 |
加島 | 竹島 | この辺の地名は既に加島で通っており、いまさら別の地名を名乗ることもなかった |
とにかくルートは計画通りでも、これ程駅名が変わった路線は珍しい。さすがに野田阪神のようにライパル他社の名前は付けにくかったとは思われるが、なぜ大阪市の地下鉄やバス路線とも接続を拒むような駅名をつけたのだろうか。ともかく今は207系電車が専用車として走っているが、JR京都線・神戸線の新快速用223系(1000,2000番台)も改修をすれば乗り入れが出来るよう考慮されている。
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さて「大阪外環状線」のほうはその後動きが止まってしまい、いったいどうなることかと思われたが、平成元年5月に運輸政策審議会の答申があり、ようやく着工の兆しが見え始めた。ところが今度はバブル景気がはじけてしまい、路線の計画は再び宙に浮いてしまった。
それでもアーバンネットワークの強化を図るJR西日本は「大阪外環状線」の三度目の動きを見せ、平成17年中完成を目途に新大阪-久宝寺間20.3kmの路線を建設すべく、まずは平成11年2月に都島-久宝寺間の工事施工認可を得て、待望の着工に踏み切った。平成14年12月には残る新大阪-都島間の認可も得られ、ようやくプロジェクトは動き出したが…。
JR西日本は平成16年8月、大阪外環状線都島-久宝寺間の開業を平成20年と訂正するものの、工事は用地の不法占拠などもあり中断、結局放出-久宝寺間を「おおさか東線」として平成20年3月15日に開業した。同時に学研都市線・大和路線との直通運転も始まり、大阪の新しい路線がスタートした。
放出から先は新大阪付近に新たに立体交差などの線路をつくる必要があるが、もともと城東貨物線が単線ながら複線化に対応出来るように用地は大部分確保されていたため、おおさか東線は市内中心部にトンネルを掘ったJR東西線よりは、はるかに工事は楽だったと思われるが、現実はそう簡単には運ばなかった。
城東貨物線、吹田-都島信号場間には淀川を渡る赤川鉄橋がある。ここは昔から線路と歩道が同居する鉄橋として有名であるが、これも鉄橋がもともと複線用としてつくられたにもかかわらず、当面は単線で十分ということで片方を歩道に開放したものである。
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城東貨物線 赤川鉄橋 | 線路は単線、歩道と同居している |
二度あることは三度ある…とでも言うのか、おおさか東線はそれ以上大きな動きはなく「城東貨物線」のままで、同時に計画がスタートしたJR東西線はとっくに路線として開業しているのに実に不遇な存在である。しかし近い将来、この線が全部開業し、颯爽と電車が行き来する光景が見られる日は近いのかもしれない。
―参考文献―
鉄道ジャーナル 1981年6月号 RAILWAY TOPICS <大阪版> 鉄道ジャーナル社
鉄道ジャーナル 1995年11月号 JR西日本の現状と未来へのチャレンジ 鉄道ジャーナル社
―あとがき― 今回は国鉄/JRの話でまとめさせて頂きました。 前作まではどうしても話題が豊富な私鉄中心に話を進めることが多かったという反省から、このようになった次第です。私鉄ファンの方には大変申し訳ありませんでした。 実は構想段階でそのように決めていたのです。私鉄の話題はある意味話題性のあるものが多いのですが、国鉄時代からの話題は逆に地味なものが多いようで、それが今まで書けなかった理由かもしれないと思ったのです。 そうか、なら今回は趣味の原点に…ということで国鉄関連の話題に絞ろうと決めました。 東京地区、大阪地区の取材も行いましたが、その中で今回取り上げた話題が、殆どかなり前からボクの中にあったものと気づきました。子供の頃からの記憶が蘇りました。何故今まで溜めておいたのでしょう。自分でも不思議な位です。 さて、次はどんな話題を取り上げましょうか。貴方の身近なところに意外な話があるかもしれません。 ではまた次回作でお逢いしましょう。ご乗車ありがとうございました。 |
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