Rail Story 9 Episodes of Japanese Railway

 ●特急『かもめ』の謎

現在、特急『かもめ』といえばJR九州長崎本線の列車で、別名「白いかもめ」というイメージが強いが、この列車は昭和12年7月1日、東京-神戸間に『富士』『桜』『燕』に続く特急『鴎』として生まれた、由緒正しい歴史を持っている。戦前の『鴎』は太平洋戦争の影響で昭和18年2月15日に運転を終えてしまったが、戦後見事に復活。しかしそれは数奇な運命を辿ったのだった。

●  ●  ●

まだ終戦直後という昭和24年9月、東京-大阪間に特急『平和』が誕生した。列車名はもちろん戦争のない平和な世の中を願って命名されたものだが、特急列車のイメージに今ひとつ乏しく、戦前の『燕』の名を復活することになり翌年1月1日『つばめ』と改称した。
しかしこの時の『つばめ』の客車は、まだ愛称すら少なかった急行と同じタイプのもので、現在では考えられないサービスレベルだった。この年には姉妹列車『はと』が増発されたが、どちらも国鉄の看板列車とあって特別二等車(現在のグリーン車)には新車でオールリクライニングシートのスロ60形が投入された。この頃までの二等車は三等車より少し広い向かい合わせシートだったから、さぞ画期的だっただろうと思われる。しかし三等車(今の普通車)は相変わらず切り立った向かい合わせシートの客車だった。当時はまだ三等級制が敷かれていた。

そうなると「三等車もレベルアップを」という機運が高まるが、なにしろまだ進駐軍の管理下にあった日本では鉄道車両の新製は進駐軍の指示がないと出来なかった。ようやく昭和26年になって特急用三等車の新製が進駐軍に認められ、二人がけシート装備のスハ44系客車の製造が始まった。この客車はドアが片側に1ヵ所という構造になったが、これはその後の特急電車などにも踏襲されているものである。

昭和26年10月1日、『つばめ』『はと』の三等車はスハ44系になり、名実共に日本を代表する特急列車となった。ただしこのスハ44系のシートは、現在のようなペダルを踏んで方向転換が出来ない、一方向きの固定シートだった。というのも当時の特急は、最後尾はオープンデッキのついた「一等の展望車」と相場が決まっており、三等車のシートの向きを変えるだけでは済まなかったからだ。スハ44系はそれに合わせてつくられたわけで、東京・大阪に到着した列車は、当然折り返すために列車ごと方向転換しなければならなかった。

東京に到着した『つばめ』『はと』は、一旦は機関車を後ろに付け替えて品川方へ引き上げ、そのまま今の横須賀線のように当時の品鶴線に入り一旦停車、機関車を付け替えて今度は湘南新宿ラインのように大崎へと進み、もう一度機関車を付け替えるという方向転換を行っていた。このような線路を形状から「デルタ線」という。
大阪では列車はそのまま西へ回送、一旦福知山線の塚口へ行き機関車を付け替え東海道線に戻り、もう一度機関車を付け替えるという方法を採っていた。

東京での方向転換ルート 大阪での方向転換ルート

昭和28年3月15日、『つばめ』『はと』に続き山陽本線にも特急が走ることになり、戦前の特急『鴎』から名を譲られた『かもめ』が京都-博多間に走り出した。客車は同じスハ44系が使用されたが、展望車は連結されなかった。

●  ●  ●

昭和33年11月19日、東海道本線の全線電化が完成し『つばめ』『はと』は全区間電気機関車に牽かれることになったが、これを機会にそれまでの茶色一色から機関車ごとライトグリーンに衣替えした。これは隠密裏に計画が遂行されたようだが、茶色にライトグリーンを塗り重ねてしまったため、出来上がってみると思ったよりくすんだ仕上がりに関係者はがっかりしたとか。また大阪での方向転換のため、福知山線は同日に塚口まで電化されていた。

一方の『かもめ』は関門トンネルを除いてほぼ全区間蒸気機関車に牽かれていて、茶色のままだった。展望車はなかったもののスハ44系客車のため京都・博多で方向転換が必要であり、京都では現在蒸気機関車館のある梅小路と山陰本線にあるデルタ線を使用したが、博多では香椎線などを使って1時間43分の行程を経て方向転換をしなければならなかった。

京都での方向転換ルート 博多での方向転換ルート

この博多地区での方向転換は手間と時間が掛かり、展望車のない『かもめ』は三等車のシートを転換式にすれば方向転換の必要もなくなると客車を受け持っていた門司鉄道管理局はスハ44系の改造を国鉄本社に提案、『かもめ』は昭和32年6月6日から客車をサービスダウンを覚悟の上で、急行用のナハ11形に一時的に置き換えられた。

しかし『かもめ』のスハ44系客車は、二度と戻って来なかった。

●  ●  ●

『かもめ』に使われていたスハ44系は、昭和32年7月20日から東海道本線の臨時特急『さくら』に使用されることになったが、電車特急『こだま』への置き換えのため昭和33年9月いっぱいをもって廃止となり、代わって東北本線最初の特急『はつかり』に使われることになった。
今度は”ブルートレイン”並みの青にクリームの帯を締めた姿になり、東北初の特急『はつかり』上野-青森間として走ることになった。この時点でスハ44系はまだ固定式シートだったが、青森の方向転換は東北本線・奥羽本線の短絡線があるため比較的容易だったし、上野でも尾久から田端操車場を経て常磐線三河島駅に入り、上野に戻るデルタ線があったため博多地区のような手間は掛からなかったようだ。

青森での方向転換ルート 上野での方向転換ルート

『はつかり』は昭和35年12月10日、日本初の特急ディーゼルカーのキハ81系に置き換えられたが、スハ44系が『かもめ』に戻ることはなかった。というのも翌年『かもめ』はディーゼル特急になることが決まっていたからだ。

●  ●  ●

皮肉なことにスハ44系客車はこの直後に固定シートの転換化改造が行われ、急行列車や団体観光列車などに転身していく。一時は特急『みずほ』に使われたがその期間は短く”ブルートレイン”に置き換えられた。また東京から伊豆方面への準急『いこい』などにも使われ、伊豆箱根鉄道への乗り入れも行っていた。
スハ44系はやがて東海道本線の夜行急行に活躍の場を移し第二の黄金時代を迎えたが、東海道新幹線が開業すると夜行急行の本数は少しずつ削減され、最後までスハ44系を使っていた急行『銀河』も昭和51年2月19日をもって”ブルートレイン”への置き換えが行われた。スハ44系は大半が廃車となってしまったが、一部は四国に渡り、シートは向かい合わせに固定されてローカル輸送に使われるようになった。しかしそこにかつての特急客車の面影はなかった。

『かもめ』は昭和36年10月1日、通称”サンロクトウ”ダイヤ改正でキハ82系のディーゼル特急に生まれ変わった。一旦は急行用客車に「格下げ」されていた『かもめ』にとって、再び特急としての風格が備わった。運転区間も京都-長崎・宮崎間となり、6両の基本編成を二つ繋げたもので、どちらも食堂車を連結していた。今では新幹線にさえ食堂車がないのに、2両の食堂車というのは豪華だったに違いない。
同年12月15日には大阪-博多間に同じディーゼル特急『みどり』が新設されたが、この二つの特急は運命的な繋がりを持つことになる。

昭和40年10月1日、『かもめ』は京都-西鹿児島(現在の鹿児島中央)・長崎間になり、宮崎行きは『いそかぜ』として独立した。また『みどり』は新大阪-佐世保・大分間に変更、佐世保行きは筑豊本線経由とされた。
しかし大分行き『みどり』は昭和42年10月1日、世界初の寝台・座席兼用電車581系により電車化され、佐世保行きは『いそかぜ』併結となったものの、翌年10月1日”ヨンサントウ”ダイヤ改正で京都-長崎・佐世保間は『かもめ』、大阪-西鹿児島・宮崎間は『なは』『日向』(『いそかぜ』から改称)と整理されている。
この時『かもめ』の佐世保行きは以前の『みどり』を受け継いで筑豊本線経由となった。その後も後輩たちが相次いで電車化される中、『かもめ』はディーゼル特急のままだった。

●  ●  ●

昭和50年3月10日、山陽新幹線は博多まで全通した。この時のダイヤ改正で山陽本線の特急はことごとく廃止されてしまったが、『かもめ』も同様だった。

しかし翌昭和51年7月1日、『かもめ』は『みどり』と共に電車特急として復活を果たす。長崎本線・佐世保線の電化が完成し、博多-長崎間に『かもめ』、博多-佐世保間に『みどり』が走り出した。両者は博多-肥前山口間は併結運転となり、特に『みどり』は4両編成と当時国鉄電車特急最短ということで話題となった。
だが改正当日、基地の南福岡電車区には『かもめ』『みどり』ではなく、前年廃止となっていた『しおじ』が並んでいた。
実はボンネット形先頭車のマークが間に合わず、不用になった『しおじ』のマークに『かもめ』『みどり』のシールを貼り付けて走らせたとか。また電車は新車ではなく東北地区からの転属車ばかりで、しかもかつての客車時代を思い出させるような、方向転換を伴うかなり大規模な電車の引越しだったという。

●  ●  ●

かつて『かもめ』に使われたスハ44系客車は「日本ナショナルトラスト」の手により、現在静岡県の大井川鉄道で『はつかり』時代の青にクリーム帯の姿となって動態保存されている。戦後の国鉄特急の歴史を語る上で、貴重な存在であることは確かだ。

大井川鉄道のスハフ43(日本ナショナルトラスト所有)
大井川鉄道金谷駅で休むスハ44系客車  

国鉄がJR九州となった頃、『かもめ』を受け持っていた電車485系に疲れが見え始めてきた。前代未聞の真っ赤なコスチュームの「赤いかもめ」にリニューアルしたものの経年は隠せず、平成12年3月には「白いかもめ」こと885系電車に主役の座を代わった。脇役にはハイパーサルーン783系も『かもめ』に加わり僚友『みどり』にも進出して485系は引退したが、足回りは西武鉄道から富山地方鉄道に移籍した”レッドアロー”に今も生き続けている。
長い、本当に長い今までの道のりだが、同時に数奇な運命だった…ともいうべきだろう。

二度の中断があったとはいえ、『かもめ』は現在も個性豊かなJR九州の特急の一員として走り続けています。眩しいくらいの白いボディ、魅力的な内装と車内設備は「乗りたい」という旅心を誘う電車です。

次は運命を分けた、二つの路線の話です。

【予告】明暗の別れ道

―参考文献―

鉄道ジャーナル 1975年3月号 特急つばめの一生 鉄道ジャーナル社
鉄道ジャーナル 1976年9月号 西海のエル特急<かもめ><みどり>を追う! 鉄道ジャーナル社
鉄道ファン 1976年5月号 ”つばめ”の客車よ!さよなら 交友社
鉄道ファン 2002年3月号 特集 JR特急BOX 交友社
レイル・マガジン 2002年10月号 はつかり物語 ネコ・パプリッシング
ジェイ・トレイン vol.15 ドキュメントJNR キハ80系の活躍 イカロス出版

このサイトからの文章・写真等内容の無断転載は固くお断りいたします。

トップに戻る