Rail Story 9 Episodes of Japanese Railway

●悲運の機関車(前編)

国鉄やJR線上で走る機関車には、長く華々しい活躍を続けるものもあるが、中にはいろんな理由で性能を発揮出来ず、期待された活躍も出来ないまま去って行った「悲運の機関車」がある。今回はこんな機関車たちにスポットを当ててみよう。

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初の新幹線-在来線の直通運転が実現した山形新幹線。福島駅を出るとやがてかつての奥羽本線に入るが、ここから先はレールの幅が在来線の1,067mmから1,435mmに改修され、米沢、山形、そして新庄まで東京からダイレクトに結ばれるようになっている。
この間には板谷峠という険しい山道があるが、鉄道がその峠を制したのは明治32年5月15日のことだった。

ただし板谷峠は33.3パーミルという急勾配が連続し、しかも半径200mという急カーブもあるために簡単には峠を越えることは出来なかった。
当初こそ万能機関車のB6形でどうにかなっていたものの、やがて輸送量が増えるともっと大型の機関車が必要になった。大正2年3月にはドイツのマッファイ社が製造した5動軸の4100形蒸気機関車が輸入され、この区間専用として使われるようになったが、なかなか性能が良く、翌大正3年にはこの機関車を基に国産化した4110形蒸気機関車がお目見え、峠での活躍が始まった。

しかし峠道というのは人間でも無理をすると後で膝がガクガク笑うように、上るより下るほうが難しいようだ。板谷峠では峠を下る列車で、事故…というより事件が多発したという。
近年まで機関車の車輪は車軸部(輪心という)とレールと接する部分(タイヤという)が別々に出来ていて、それらを強制的に嵌め込む構造になっていた。通常の走行では全く問題がないが、タイヤにブレーキシューを直接当てて摩擦力だけで止めるブレーキは、峠道ではかなりの発熱となる。
ある日、途中駅で停車した列車が発車しようとしたら全く機関車が言うことを聞いてくれなくなったという。調べてみるとブレーキの多用でタイヤがすっかり熱膨張し、しっかり嵌め込まれていたはずの輪心との間に隙間が出来てしまい、ロッドと輪心が空回りしていたとか。

このため峠の途中の大沢駅、赤岩駅では5分間停車して車輪を自然冷却することが義務付けられた。この「事件」は戦後電化されてからも続いたようで、後に電気ブレーキが実用化されてからはこの5分間停車はしなくなったが、万一の電気ブレーキ故障の時はやはり同様に車輪の冷却を行う必要があったというから、実に山形新幹線の開業までこの規則は続いたことになる。

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板谷峠を守っていた4110形蒸気機関車はやがて老朽化し、さらに戦中の酷使がたたってか性能は落ちる一方、終戦後すぐに代わりの機関車が必要だった。昭和23年、4110形と同じ5動軸で国鉄最後の新製蒸気機関車E10形が5両つくられ、福島機関区庭坂支所に配置された。ボイラーは戦時中に急造されたマンモス貨物機関車D52形を基本にしており、国鉄の蒸気機関車では最大トルクを誇ったが、そのぶん足も遅かった。
また、この機関車は急勾配専用ということで数々の特徴を持っている。まず動軸が5つあるためこのままでは曲線の通過が困難である。そのため先頭の第1軸を左右に動かせるようにした。また第3・4軸のタイヤは車輪にはつきもののフランジという鍔がなく、レールの上をそれこそ自動車のタイヤのように走る構造だった。
また決定的なのは通常の蒸気機関車とは前後が逆になっており、ボイラーや煙突は運転室の後ろ、すなわちバック運転が基本という珍しいものだった。これは坂を上るときに運転室に煙が入らないようにと工夫された結果だ。

E10形蒸気機関車 フランジのない第三動輪
E10形蒸気機関車 車輪にフランジがない第3・4軸

こうして板谷峠で活躍を始めたE10形だったが、ここでの活躍期間は予想外の1年程度で終わってしまった。

というのもこの峠の輸送改善は急務で、さらに戦後の石炭入手難は勾配線区には厳しく、電化が待たれていた。昭和21年11月に工事は始まり、途中GHQの中止命令などもあったが工事は再開され、昭和24年4月24日からは電気機関車が走り出した。煙に悩まされない快適な旅が出来るようになったものの、新製まもないE10形は役目を失ってしまったのだ。また4110形は北海道の美唄鉄道に払い下げられていった。

E10形は昭和24年6月、5両共にはるか南の肥薩線人吉機関区に移り、ループ線で有名な人吉-吉松間の新たな峠道を、デコイチことD51形と共通で走り始めた。しかしいくら工夫した足回りといえどもカーブの通過は厳しく4動軸のデコイチとの差は明らか、特に線路保守側はこの機関車を嫌った。またバック運転というのも運転上つらいものがあったようで、ここでも1年足らずで配置替えに…。今度は北陸へ移動することになった。

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続く職場は石川県と富山県の県境、北陸本線倶利伽羅峠越えだった。津幡-石動間に存在する急勾配のため、その間で列車の後押しなどをすることになった。

ただ、生まれつきのバック運転というのはどうにも都合が悪かったようで、のち松任工場でボイラーを前とする配置に改められた。しかしバック時に左側にあった運転機器を対角線上に変更するのは困難で、結局裏返しに配置した右側運転台になってしまった。通常の運転台は左側、ボイラー越しに左側にある信号などの確認は辛かったと思われるが、まだこのほうがマシだったのだろう。

独特の右側運転台
右側ながら前向きになった運転台

三度峠の機関車としての活躍が始まったE10形だったが、この倶利伽羅峠は勾配を緩和する改良が行われ、昭和30年12月に工事は完成、列車を後押しする必要がなくなってしまった。E10形はとうとう「休車」という暇を出された。ちなみに旧線は国道8号線に転用されている。

ちょうどその頃から北陸本線は電化・複線化が進められ、昭和32年10月、まず最初に田村-敦賀間の交流電化が完成した。しかしそのままでは直流区間の米原駅へは乗り入れが出来ず、結論が出るまで米原-田村間は蒸気機関車のショートリリーフを仰ぐことになった。1駅間の運転ならスピードは要求されず、暇を持て余していたE10形にはうってつけの仕事、早速米原に移っていった。

米原では長野などから移ってきたデコマルやデコイチと共に走り出したが、のちにこの区間にはディーゼル機関車が進出、交流・直流の接続もデッドセクションという絶縁区間を設けることで解決した。国鉄は北陸本線の電化の延伸と共に優等列車は次々電車化、続いて直通運転出来る交直両用電気機関車ED30形をムーミンことEF55形の足回りと471系電車の電気機器を利用して試作、この区間に投入して関門トンネルで活躍したEF30形の基礎づくりを行った。ちなみにそのEF30形も同じくこの区間で試運転され、実際に貨物列車を牽いての営業運転も行い、ステンレス車体の異彩を放った。

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またも職場を奪われたE10形は、新たな仕事が見つからず昭和34年12月から昭和36年2月にかけて廃車されてしまった。新製からわずか13年の命だった…。ただ2号機は解体を免れ、東京は青梅の鉄道公園でかつての姿のまま佇んでいる。かつての板谷峠での先輩、美唄鉄道に移った4110形機関車が昭和45年12月20日のさよなら運転まで2両が残り、実に56年も生き長らえたのとは対照的だった。


国鉄最後の新製蒸気機関車として力一杯の活躍をするはずのE10形は、あっけなく、かわいそうな一生でした。でも生を受けることなく消えてしまったC63形よりはまだ…幸せと言えるかもしれません。

次は、これまた悲運の一生を終えた機関車の話です。

【予告】悲運の機関車(後編)

―参考文献―

鉄道ジャーナル 1971年3月号 国鉄の近代形タンク機関車 鉄道ジャーナル社
鉄道ジャーナル 1971年3月号 "カメノコ"ついに引退 鉄道ジャーナル社
鉄道ジャーナル 1973年5月号 天険'板谷越え'の基地 福島機関区 鉄道ジャーナル社
鉄道ピクトリアル 1994年7月号 EF64形の技術的ポイント 鉄道図書刊行会

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