Rail Story 9 Episodes of Japanese Railway

●悲運の機関車(後編)

現在まで、JR線上に登場した機関車の中で「54」という型式のついた機関車は、何故か悲運に終わってしまったものが多い。

まず蒸気機関車ではC54形だが、これは大正生まれで初代超特急『燕』を牽いた機関車、C51(最初は18900形といった)の改良版として登場したものだが、少々設計が変わったものの目新しい改良点は少なく、わずかの両数が製造されただけだった。直後に設計されたC55形が、後継の「貴婦人」ことC57形と共に全国で活躍したのとは対照的に、静かに一生を終えている。

C54形の先輩、C51形
こちらはC51形蒸気機関車

電気機関車ではEF54形が該当するが、これは国産初の大型電気機関車EF52形が旅客列車用としてはギアレシオがローギアードで、急行列車を牽くには問題がある…ということでハイギアード化されたものだったが、これも両数はわずかで当時の代表的機関車EF53の影に隠れてしまい、目立った活躍は出来なかったという。

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さて残るはディーゼル機関車だが、これは「54」とつく中で最も悲運と言えるだろう。

昭和30年代、戦後日本の工業力は目覚しく発展し、動力近代化の名のもとディーゼル機関車が蒸気機関車に取って代わることになる。ディーゼル機関車には変速機にトルクコンバーターを用いる「液体式」と、エンジンで発電機を回しモーターを駆動する「電気式」があり、どちらも長所、短所があるが、その頃欧米の工業先進国から双方の技術が盛んに車両メーカーに導入され、国鉄に採用してもらおうと各社は試作車をつくり、数々のディーゼル機関車が当時の国鉄線上を賑わせていた。
結局重量の大きな電気式よりも、国産化に適応し、かつ軽量な液体式が主流となっていく。始めは大出力のエンジンに対応するトルクコンバーターがなかったが、国鉄は昭和37年にそれまでの技術を結集してDD51形を試作、1,000ps/1,500rpmのエンジンとトルクコンバーターを2組搭載した。当初は予定していた性能が出なかったが、のちに改良が進みエンジンもインタークーラーを追加して出力は1両で2,200psに向上、国鉄の標準形式となり未電化幹線のエースの座を射止めた。

DD51形と同じ昭和37年、三菱重工では西ドイツのマイバッハ社のエンジン(MD870形 1,820ps/1,500rpm)とトルクコンバーター(K184UL形)の1組をライセンス生産したディーゼル機関車DD91形が出来上がり、6月から昭和40年3月に返却されるまで福知山線での試験に供された。この機関車は性能も安定しており、しかも重量は70tと、意外な程軽く出来ていた。
当時国鉄はDD51形の量産を開始していたが、亜幹線には少々オーバーパワーだったことからこのDD91形も量産化することになり、型式はDD54形と決まった。

DD54形ディーゼル機関車は、昭和41年6月に1号機が出来上がった。
自慢のエンジンはV型16気筒、狭角ながらDOHCヘッドを搭載していた。現在でもOHVが主流のディーゼルエンジンの中で貴重な存在である。ただ排気量が86,000ccもあり、さらにカムシャフトもあるので背が高いのが難点だった。そのため車体はディーゼル機関車にしては珍しく箱型となった。また暖房用のボイラーも搭載したが、重量は試作車DD91形と同じ70tに収まり、線路規格のやや低い亜幹線にはうってつけだった。

しかし、エンジンを始めとした主要機器を全てライセンス生産とするのは国鉄が難色を示し、結果エンジンとトルクコンバーター以外の機器は国産品を使用することになったが、この事が後にこの機関車の命取りになるとは、この時誰も予想しなかった…。

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新大阪駅付近を通過中のDD54昭和43年3月、DD54は量産機を加え福知山線を中心に走り始めた。10月には急行列車を牽くようになったが、特筆されるのは10月16日に「お召し列車」を牽いたことだ。
当時未電化区間では、万一機関車が故障してお召し列車が遅れたら大変…と、故障の可能性があるディーゼル機関車よりも、構造がシンプルで安定した実績を持つ蒸気機関車を用いるのが常識だった。そんな時に、走り出して間もないDD54形を用いるのは冒険だったかもしれないが、試作機DD91形から保守してきたという自信があったのかもしれない。

その後DD54形は少しずつ量産され、最終的には40両を数えた。活躍は山陰本線、伯備線、播但線にも広がりデコイチや貴婦人C57を引退に追い込んで、すっかり新しい山陰路のエース格に成長し、昭和47年3月15日にデビューした寝台特急『出雲』の浜田-京都間も担当することになった。

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ところが、DD54形にはトラブルが続発していたという。量産機が活躍を始めて間もない昭和43年6月28日、山陰本線湖山駅を通過中の急行『おき』を牽いていたDD54(2号機)のユニバーサルジョイントが突然折れて線路に突き刺さり、機関車は脱線転覆、続く客車6両が脱線するという事故を起こしていた。この後も大小数えて40件以上ものユニバーサルジョイント関連の故障が起こったが、もともとライセンス生産しなければならない足回りをあえて国産化したために、エンジンとのマッチングが悪かったのでは…という話も残っている。
のちに保守陣の苦労が実ってこの故障は発生しなくなったが、考えてみると試作機DD91は全てがライセンス生産されていた…。

やれやれ…と保守陣が息つく間もなく、今度はトルクコンバーターの故障が多発するようになる。
マイバッハ・メキドロ社によるトルクコンバーターは、それこそ卓越した技術を持っていた。中でも4速AT機構はシフトアップ・ダウン時にエンジンの回転数とトルクコンバーターの回転数をシンクロさせて繋ぐ特殊構造で、しかもショックを緩和する装置までついていた。これは極めて優れたものだったが、そのぶん複雑で故障も発生しやすかった。

昭和48年頃からはDD51形が福知山線・山陰本線に投入され、特急『出雲』や急行『だいせん』などの優等列車に徐々に使われるようになり、DD54形の山陰路のエースの座は僅か2年足らずに終わってしまった。DD54はエンジンとトルクコンバーターが1組、かたやDD51は2組で、保守面で単純比較するとDD54のほうが経済的のように思えたが、国産の安定した技術はもはや不動の地位を得ており、これを補って余りあるものだった。DD54は活躍の場を失ったどころか、一度は引退したはずの蒸気機関車を再び走らせることもあったという。

その後もDD54形はトラブル続きで、40両の仲間のうち実際に動いているのは半分程度という有様、駅や工場の片隅で休む姿が多くなり、とうとう昭和53年6月、40両全てが廃車となった。1号機の誕生からたった12年の生涯だった。

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大きな期待を集めながら、十分な活躍が出来なかった機関車たち…。でもそれは決して機関車のせいではなく、そうなるべき「運命」にあっただけなのだろう。今は遠いところから後輩たちの活躍や、かつて走っていた路線を、暖かく見守っているに違いない。


長い国鉄の歴史の中には、こういった悲しい話もありました。もし貴方がこれらの機関車が活躍したところを通ることがあったら、少しだけでも思い出してあげて下さい。

次は今に至る、あっ!と驚く話です。

【予告】新宿駅の怪 2

―参考文献―

鉄道ジャーナル 1972年11月号 日本のディーゼル機関車 国鉄DL 40年のあゆみ 鉄道ジャーナル社
週間 鉄道データファイル No.033 DD54型ディーゼル機関車 ディアゴスティーニ・ジャパン

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