Rail Story 9 Episodes of Japanese Railway

 ●特急『ひだ』うらばなし(前編)

特急『ひだ』といえば何を想像するだろうか。JR東海自慢の「ワイドビュー」シリーズの一員であり、その名の示すとおり客席の大きな窓からは、飛騨路の風光明媚な自然を満喫出来る列車として有名である。
しかしそれは最近になってからの話。実は長く苦難の道のりを歩んできた列車なのである。

この列車が生まれたのは昭和43年10月1日の全国ダイヤ改正の時だった(当時国鉄部内ではこの日付を略して「ヨンサントウ」と言った)。現在も走り続けている全国の特急列車の多くがこの時誕生しているが、それまで高嶺の花だった特急列車が、いよいよ身近なものになるには、未電化路線でも走ることが出来る特急ディーゼルカーが寄与する部分も多かった。
しかしこの特急ディーゼルカー、実用化に至るまで厳しいものがあったのは否めない。

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国鉄初の特急ディーゼルカーが誕生したのは昭和35年12月のことだった。ディーゼルカーといえば地方のローカル線で走るのが常識だったが、その機動性は決して電車に劣らないものがあった。
それまで国鉄の特急列車といえば機関車が引っ張る客車で構成されるもの…と半ば相場が決まっていたが、昭和33年の特急電車『こだま』の成功は、特急ディーゼルカー誕生のきっかけになったと言っても過言ではない。

しかし問題はその動力だった。それまで国鉄がディーゼルカーに用いていたエンジンは、戦前にガソリンエンジンとして設計されたGMH17をディーゼルエンジンに設計変更したDMH17(直列8気筒150ps/1,500rpm)だった。
昭和30年代に入り、国鉄は地方線区に走っていた列車の近代化のためディーゼルカーの普及に努めるが、車体はやや小振りにして1両につきこのエンジン1台搭載では平坦な路線では良かったものの、勾配の多い路線では明らかにアンダーパワーだった。その勾配線区にはエンジンを2台搭載することになったが、車体が長くなりすぎとても実用化には向かなかった。
続く準急列車の近代化については、やはり勾配の多い線区も走らなければならない。設計陣は苦心して床下の設計を切り詰め、ようやく2台搭載でも車体共々実用サイズとすることが出来た。エンジンも若干改良され180psまでパワーが上がった。

実用化なったディーゼルカーはいよいよ特急という晴舞台に進出という話になった。今度はそれにふさわしい大馬力のエンジンを搭載しようということになり、各地で活躍していたディーゼル機関車DD13形の直列6気筒エンジンDMF31を基にシリンダーを水平化、ターボチャージャーを搭載して1基あたり400ps/1,500rpmとしたDMF31HSAを試作した。

こうしてパワーアップしたエンジンで颯爽とデビューするはずだった特急ディーゼルカーだったが、トルクコンバータやディファレンシャルの設計が遅れ、試作車キハ60形が出来上がったのは昭和35年1月のこと。特急ディーゼルカーは昭和35年12月10日、東北線特急『はつかり』でデビューすることが決まっていたが、どうやらこれでは間に合いそうもない。
国鉄技術陣はこの新型エンジンを諦め、非力なDMH17のシリンダーを竪型から水平に変更したDMH17H(180ps/1,500rpm)を先頭車に1台、中間車に2台搭載した特急ディーゼルカー、キハ81系をデビューさせたが、そこには思わぬ試練が待ち受けていた…。

キハ81系は、東海道本線の電車特急『こだま』のデザインを踏襲、客車だった『はつかり』のイメージチェンジには成功したが、単線区間も走行するため運転台は低く抑えられ、ややぼってりとした印象は否めなかった。
しかし『はつかり』には予想もしなかった故障が相次いだ。それまで国鉄にはディーゼルカーの長距離運転は経験がなく、エンジントラブルの多発に手を焼き、しかも電気系統も弱く車両を繋ぐケーブルの継手に異物が入り込んで運転不能となったこともあった。水をたくさん使う食堂車にはエンジンが搭載出来ずトレーラーという設計の上、さらに故障でエンジンが1台や2台停止したままの運転もよくあり、ついには力尽きて蒸気機関車の助けを借りたこともあったという。付いた仇名は『はつかり』をもじって特急『がっかり』だったとか。国鉄は言い訳の日が続いた。

キハ82系特急『白鳥』それでも国鉄保守陣は一丸となって『はつかり』のケアに努め、翌年の改良型ディーゼル特急増発にこぎつけた。『はつかり』は9両だったが、今度は正面にドアを設け、編成も6両とコンパクトにすることが決まった。ただし今回は食堂車にもエンジンを搭載しないとパワーの面では厳しいため、定員を減らし水タンクを床置きとし、床下はエンジンを詰め込んだ。
昭和36年10月1日、改良型キハ82系の『かもめ』『まつかぜ』『白鳥』『おおぞら』などが全国デビューした。ただしこの時は『はつかり』の反省から、夏頃に落成した車両から順次走り込みをさせ万全を期する…はずだったが、デビュー初日の『まつかぜ』は先頭車1両が故障してしまった。

特急ディーゼルカーキハ81・82系はその後故障も癒え、ようやく安定した性能を発揮したが、国鉄の電化は進み地方幹線に特急ディーゼルカーを転用、更なる特急網の充実を図ったのが「ヨンサントウ」ダイヤ改正だった。高山本線にも特急が新設されることになり、金沢-名古屋間に関西から転属してきたキハ82系による『ひだ』1往復がデビューすることになった。
これは既に昭和40年8月5日に運転を開始した名鉄から乗り入れの準急『たかやま』(のち急行に格上げ)が、国鉄特急を凌駕する設備で大人気だったことから、その対抗策としての意味もあったのかもしれない。
もっとも国鉄としても当時珍しかった冷房つきの名鉄『たかやま』は羨望の存在だったらしく、昭和42年の夏シーズンに3回、名古屋-高山間(高山行きの片道運転のみ)の夜行臨時急行『りんどう』に『たかやま』のディーゼルカーを借りて運転しているのは珍しい。

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昭和43年7月8日の深夜、名古屋から特急『ひだ』試運転が実施された。編成は紀勢本線特急『くろしお』に1両増結したものを借用、食堂車もついていた。ただし『ひだ』デビュー時は食堂車の連結は見送られてしまったので、今日まで高山本線に非営業ながら食堂車が走ったのは唯一この時だけ。試運転の結果はまずまずで、めでたく『ひだ』の運転に目途がついた。

なにしろそれまで名古屋から高山方面へは、地形上で考えても名鉄犬山線を経由して鵜沼で高山本線に乗り換えるルートがポピュラーだった。国鉄ではただでさえ岐阜回りというハンデがあり、それに比べ所要時間が短くしかも運賃も安上がりの名鉄の人気は高かった。さらに冷房もなく切り立った座席の国鉄急行・準急ディーゼルカーは、名鉄『たかやま』に揺るぎない地位を与えてしまっていた。

飛騨路に新風を巻き込んだ特急『ひだ』だったが、スピードはそれまでの急行とあまり変わらなかった。というのもキハ81・82系は最高速度を上げるため(95km/h→100km/h)、ファイナルギアレシオを一般のディーゼルカーよりも若干ハイギアードにしており、勾配の多い高山本線ではスピードアップには寄与しなかった。
しかも先頭車はエアコン等のサービス電源用エンジンを搭載しているため1台しか駆動用エンジンを搭載出来ないというのが、のちに名鉄との関係に絡むとは、この時誰も思わなかっただろう。

名鉄『たかやま』はその後季節運転ながら高山本線を富山まで走破し、さらに富山地方鉄道に乗り入れるという前代未聞の直通運転を実現し、『北アルプス』と名を改めたのはご存知のとおり。

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同じ頃、国鉄には未電化の幹線が多く存在し、それらは勾配線区が多かった。いくら特急を走らせたくてもキハ82系ではスピードアップに限度があり、やはりハイパワーのエンジンを開発して電車同等の性能(最高速度120km/h)を持ち、勾配にも強い新型特急ディーゼルカーをつくらなくてはならなくなった。

昭和41年、国鉄は水平対向12気筒、インタークーラーつきターボエンジンのDML30HS(500ps/1,600rpm)を搭載したキハ91形を試作した。これは同型のエンジンを直列6気筒にしたDMF15HS(300ps/1,600rpm)搭載のキハ90形と比較されたが、300psだと勾配線区ではやはり2台搭載しなければならず、高出力エンジンで台数を減らせばメンテナンス上有利という結論になり、パワーアップしたキハ181系特急ディーゼルカーが誕生した。

キハ181系特急『つばさ』『ひだ』と同じ「ヨンサントウ」ダイヤ改正時には名古屋-長野間に新鋭キハ181系の特急『しなの』がデビュー、圧倒的なパワーの差はそれまでの急行より30分もの短縮に成功した。それに比べ『ひだ』はどこか地味な存在というのは否めなかった。
のちにキハ181系は奥羽本線特急『つばさ』にも進出、上野-福島間では並みいる『ひばり』『やまばと』など強豪電車特急に引けをとらない高速性能を誇ったが、中間車のラジエターを屋根に上げたのが玉にキズだったようで、姨捨峠や板谷峠などの勾配区間でオーバーヒートが頻発してしまい、『つばさ』は福島-米沢間では電気機関車との協調運転で難を逃れることになった。

しかしキハ181系の活躍は思いの他短く、『しなの』はデビュー後5年にも満たない昭和48年7月10日の中央本線全線電化により「振子電車」こと381系特急電車に取って代わられてしまうことになる。いっぽうの奥羽本線特急『つばさ』も昭和50年11月25日の電化完成により485系電車と交代、主役の座はあっけなく終わってしまう。

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高山本線を走っていた孤高の『ひだ』は、デビュー当初からずっと非力なキハ82系がそのまま使われていた。もっとも昭和51年10月1日のダイヤ改正では少し変化が現れ、『ひだ』は名古屋-高山間に2往復が増発となり名鉄『北アルプス』は何と特急に格上げ、高山本線にもようやく特急時代が訪れたが…。


山陽新幹線が博多まで全通した昭和50年頃には、国鉄は電車特急の天下となり、ディーゼル特急は脇役の道を歩んでいきます。しかしずっと後になって、起死回生の出来事が『ひだ』に訪れます。

次はその『ひだ』の話をもう少し進めてみましょう。

【予告】特急『ひだ』うらばなし(後編)

  おことわり
「特急『ひだ』うらばなし」ではキハ81系、キハ82系を総称したキハ80系との記述にしておりません。これは『はつかり』と、その後の車輌の性格が違うものとして考えているためです。ご了承下さい。

―参考文献―

鉄道ジャーナル 1995年2月号 キハ80系 名残の飛騨路力走 鉄道ジャーナル社
鉄道ファン 1976年3月号 50・12ホットニュース 181系DC西へ 交友社
鉄道ファン 1995年6月号 特集:上野特急エイジ 交友社
鉄道ピクトリアル 2003年3月号 キハ55系 車両のあゆみ 鉄道図書刊行会
ジェイ・トレイン 2004.vol.15 ドキュメントJNR キハ80系の活躍 イカロス出版
100年の国鉄車両3 交友社
名列車列伝シリーズ15 特急しなの&ひだ +JR東海の優等列車 イカロス出版
日車の車輌史 形式シリーズ 名古屋鉄道8000,8500系ディーゼル動車 日本車輌製造

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