Rail Story 9 Episodes of Japanese Railway

 ●初の特急電車

国鉄151系直流特急型電車(模型)昭和33年11月1日、特急電車151系(当時はモハ20系)『こだま』が東京-大阪・神戸間に走り出した。この特急電車のデビューによって昼の長距離列車からの「機関車が客車を牽く」という従来のスタイルが覆され、一気に全国へ近代化の波が押し寄せることになる。
もっとも本来『こだま』のデビューは、新装なった「ブルートレイン」こと東京-博多間の『あさかぜ』の新型客車20系と同時の10月1日が予定されていたが、151系電車は足回りも車体も全て新しいことばかりなので、とりあえず10月いっぱいは営業ダイヤのまま走り込みを続けたという。

『こだま』は東京と大阪の間の日帰りも可能にした”ビジネス特急”としてたちまち大好評を得たが、実は国鉄で「初の」特急電車というのはこの『こだま』ではなく、別の電車だった。

●  ●  ●

昭和初期、関西では私鉄路線の形成が進んだ。特に参宮急行電鉄(現在の近鉄大阪線・山田線)はデ2200形により大阪電気軌道(現在の近鉄大阪線など)と直通運転を行い大阪と伊勢を結び、新京阪電鉄(現在の阪急京都線)にはP-6ことデイ100形が鉄道省(現在のJR)の特急『燕』とデッドヒートを演じるなど、現在も名車の誉高い電車が走り出した。

そんな頃、大阪と和歌山を結ぶ私鉄路線が開業した。「阪和電鉄」である。

昭和2年2月に着工された阪和電鉄(以下阪和)は昭和4年7月に天王寺-府中間と鳳-阪和浜寺間が部分開通、続いて昭和5年6月に東和歌山まで全線開通した。
もっとも阪和には南海鉄道というライバルが存在した。阪和の全通と同時に南海は運賃値下げを始めに、今も伝えられている程の阪和との熾烈な集客合戦を行うが、大阪湾の漁村沿いに路線をつくった南海に比べ、大阪と和歌山をほぼ直線状に結んだ阪和は、正に高速運転のためにつくられた路線でもあった。阪和は転換式クロスシートを装備し、当時日本最大級の200psモーターを1両に4基搭載した高速電車モヨ100形を用意した。この電車もまた名車だった。

JR和歌山駅
現在の和歌山駅

阪和は昭和8年、モヨ100形を使って天王寺-東和歌山間61.2kmをノンストップ45分で走破する「超特急」の運転を開始した。区間平均速度(表定速度という)は81.2km/hにも達していた。
この年の11月には鉄道省紀勢西線(現在のJR西日本紀勢本線)が東和歌山から白浜まで開通したことにより、天王寺-白浜間に直通列車『黒潮』が走り出した。これには南海も同時参入したものの、鉄道省は5月に南海との直通、8月には阪和との直通と話をコロコロ変えたため、結局収拾が付かず両社共に直通…となったそうである(詳しくはこちらも)。この阪和に直通した『黒潮』は、電車2両で省の客車3〜4両を牽くという厳しさはあったが、「超特急」と同じ45分で走った。

阪和「超特急」は下り東和歌山行き11本、上り天王寺行き14本で、発車時刻も等間隔ではなく不揃いなダイヤ設定だった。しかしやや供給過剰だったのか昭和11年4月には下り7本、上り8本に減り、続いて昭和14年3月には下り4本、上り8本となってしまう。これは日本が徐々に戦時体制になっていったことや当時起こった電力不足にもよるが、阪和の歴史は昭和15年12月の南海との合併であっけない終止符を打つ。

この阪和と南海の合併は、阪和の「超特急」運転開始の頃、すなわち昭和8年と比較的早い段階から噂が流れていた。それも南海とではなく国有化という形だった。昭和15年8月、省の紀勢線が延長され『黒潮』の増発が計画された時、既に火花を散らしていた阪和と南海の争いの激化でもう話がまとまらないとみた国は、一旦阪和を南海に合併させ、その後に国有化するという段取りを考えていたのだ。結果、阪和改め南海山手線は昭和19年5月、国有化という道を歩む。あの阪和「超特急」は、南海との合併前には既に運転されなくなっていたらしい。

●  ●  ●

終戦を迎えた日本は荒廃しきっていた。阪和は国鉄阪和線となったが、国鉄に引き継がれた電車たちはもともと私鉄電車、ただでさえ物資が不足していた当時、部品等が違うため保守は困難を極めまともに動かないものばかりになってしまい、とうとう電車をトレーラー扱いにして電気機関車で牽くという事態を招いてしまった。
しかし頼みの綱の電気機関車も故障続きで再び電車を自力で走らせることになり、国鉄も電車を投入してようやく阪和線の復興が始まった。阪和の電車は国鉄の電車と連結出来るよう改造され、再び走り出した。

ただ「国鉄阪和線」となってはいたものの、沿線の利用者にとって阪和は阪和、国鉄の運行形態はすぐには馴染まなかったようだ。

昭和24年4月10日、国鉄大阪鉄道管理局はこれまた戦前の名車、流電ことモハ52形で京都-大阪間に急行電車の運転を再開、6月1日には神戸まで延長される。茶色ばかりの国鉄電車の中で水色のツートンカラーに塗られ、ひときわ目立った。ついたニックネームは「アイスキャンデー」だった。続いて昭和25年3月1日には元祖湘南電車こと80系電車が投入され、流電モハ52形は茶色とクリームの二色に塗り替えられ阪和線に転属となる。ちなみにこの色は80系電車の関西進出時の色で、グリーンとオレンジの通称「湘南色」(最近は「かぼちゃ色」ともいうらしいが…)になったのは東海道本線が全線電化された昭和31年11月19日のことだった。

阪和線には東海道・山陽本線から転じたモハ52形により昭和26年10月10日、「特急」が復活した。天王寺-東和歌山間の所要時間は58分と阪和の「超特急」には遠く及ばなかったが、それでも阪和の伝統は引き継がれたのだ。

やがて国鉄は横須賀線用の70系電車を阪和線に投入、流電モハ52形を飯田線に追いやった。緑とクリーム色のツートンカラーも颯爽と走り出したが、東海道・山陽本線の通称京阪神緩行線に配属された仲間は従来どおりの茶色だったので、ついたあだ名は「茶坊主」だったとか。

●  ●  ●

昭和32年9月25日、東海道・山陽本線の急行電車は、今の快速に名を改める。続いて昭和33年10月1日には阪和線の特急も直行と変わった。これは11月1日の『こだま』デビューにより、阪和の伝統を受け継ぐ特急は特急料金不要の都市間電車、かたや『こだま』は料金が必要な長距離列車ということでつじつまが合わなくなり、やむなく歴史に終止符を打つことになったのだ。もっとも当時、紀勢本線直通の準急はちゃんと準急料金が必要だった。

高速電車の座を譲っていたもと阪和の電車はそれでも最後はオレンジ色に塗られて阪和線で活躍を続けていたが、とうとう国鉄では引退の時期となり、一部は私鉄に払い下げられていった。名車モヨ100形(国鉄型式はクモハ20形)の2両は松尾鉱業へ移ったが、その後青森県の弘南電鉄で活躍を続けた。暖かい泉南に生まれ育った身にとって、雪国生活は辛いものがあったかもしれない。

●  ●  ●

日本万国博が大阪で開催された昭和45年、関西地区では未曾有の輸送作戦が展開された。国鉄は臨時の快速電車『万博号』を東海道・山陽本線に走らせたが、電車が足りないため横須賀線用の113系電車を投入、湘南色ばかりの当線で異彩を放った。万博終了後は本来の横須賀線に戻されるはずの113系電車であったが、この年の10月ダイヤ改正で京都-西明石間の新設された快速に再登板してもらうことになった。この快速は当時の特急以上のスピードを誇り、『新快速』と命名された。

東海道・山陽本線「新快速」ブルーライナー新快速は翌年4月26日には草津へ延長され増発される。これは並行する私鉄との対抗策だが、現在のアーバンネットワークの始まりともいえる。新快速には湘南色の113系も混用されるようになったが、国鉄はその年の夏までに冷房化を実現した。当時は特急・急行電車以外冷房はついていないのが当たり前だった。
しかし昭和47年3月15日の山陽新幹線岡山開業で山陽本線の急行電車が余るため、新快速に転用されることになった。既に冷房は搭載していたが、イメージチェンジのため白に水色の帯を締めた通称”ブルーライナー”に衣替え、一部はダイヤ改正前に塗り替えが行われたため、急行利用者を驚かせたという。東海道・山陽本線の新快速用冷房つき113系は、先輩の流電モハ52形同様阪和線に転用されることになったが、なんとこちらも”ブルーライナー”になり、阪和線に新設された新快速に活躍することになった。

阪和線新快速は途中鳳に停車し、天王寺-和歌山間を最速46分で結んだ。途中1駅停車とはいえ阪和超特急の45分には及ばなかった。区間ノンストップの特急『くろしお』は当時49分かかっており、新快速…それ以上に超特急がいかに高速運転をしていたかが判る。

ただ、阪和線新快速も超特急同様長続きしなかった。昭和53年10月の紀勢本線新宮電化に伴うダイヤ改正で阪和線を含めた運転形態は大きく変わり新快速は廃止、紀勢本線との直通快速に生まれ変わってしまった。ただし”ブルーライナー”塗装はそのまま受け継がれたが、平成17年4月10日をもって阪和・紀勢本線用113系のコスチュームから姿を消した。

●  ●  ●

関空快速223系平成6年9月4日、泉南の海上に「関西国際空港」が開港した。国内・国際線のハブとしても期待され阪和線と南海がアクセスすることになった。JR西日本は専用車223系を新製して関空快速を走らせることになり、関西本線湊町駅を地下化してJR難波と改称、大阪市内から関空への拠点とした。東京のTCAT同様ここでチェックイン出来るOCATを設置したが余り利用客が伸びず後にOCATは廃止、関空快速の見直しが図られることになった。
平成11年5月からは関空快速は編成を組み替えられ阪和線快速との併結運転をすることになった。阪和線快速は『紀州路快速』と名づけられた。
紀州路快速の停車駅は比較的多く、日根野での関空快速との解結・併結もあるため天王寺-和歌山間の所要時間は53分と奮わないが、新快速、阪和線特急、それに阪和超特急の伝統を今に受け継ぐ唯一の存在といえるだろう。

●  ●  ●

北国青森の弘南電鉄で活躍した元阪和モヨ100形電車は、晩年はモーターを外されてトレーラーとなっていたが、平成元年12月、とうとう長い一生を終えた。同期の関西私鉄の名車たちが昭和40年代後半に相次いで引退してしまった中、平成の世まで生き永らえたことは奇跡に近い。この時阪和「超特急」は伝説と化したが、表定速度81.2km/hは、『こだま』まで破られることのなかった、とてつもない記録だった。

今も阪和線は天王寺駅が高架ホームでかつての阪和の名残を見せているが、それ以外にも、架線を支える電柱の間隔が他のJR線より短かかったり、地平の途中駅もホームの端が改札口でそのまま通りに面するあたり、むしろ関西私鉄路線のつくりそのままだ。また和歌山に近づくにつれ田園風景が広がるようになるが、その中を走る紀州路快速に阪和「超特急」を彷彿とさせるものがあるのだろう。

そして戦後、阪和線に誕生した特急は、戦前の阪和「超特急」からバトンを受けた電車だったが、それはまぎれもなく国鉄初の特急電車だった。

現在の天王寺駅阪和線ホーム
阪和の名残を残す天王寺駅阪和線ホーム


意外な国鉄特急電車の歴史でした。『こだま』の151系は後に『つばめ』などを電車化し全盛期を迎えますが、東海道新幹線の開業で転身を余儀なくされました。そういえばボンネット形の特急も引退して久しいです。

次は近代化の波に運命をゆだねた列車の話題です。

【予告】特急『かもめ』の謎

―参考文献―

鉄道ジャーナル 1971年3月号 私鉄風土記14 津軽の私鉄 鉄道ジャーナル社
鉄道ジャーナル 1978年12月号 紀勢西線 電化前夜 鉄道ジャーナル社
鉄道ファン 1973年10月号 モハ52形流電外部塗装の変遷記録 交友社
鉄道ファン 1975年11月号 特集"くろしお"の道 交友社
鉄道ファン 1990年3月号 POST 交友社
ジェイ・トレイン vol.15 特集アーバンライナー『新快速』 イカロス出版

このサイトからの文章・写真等内容の無断転載は固くお断りいたします。

トップに戻る