Rail Story 8 Episodes of Japanese Railway |
●奇跡の復活
小田急ロマンスカーといえば、日本の鉄道界でもトップクラスのレベルを誇る電車…というのは誰しもが認める事実だろう。最近はJRの通勤ライナー的な利用も増えているが、やはり基本は「箱根を目指す特急」ということになるだろう。
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小田急は戦前にも小田原への定員制特急を週末だけ走らせていたが、やがて太平洋戦争が始まり運転は中止され、前後して現在の京急や京王などと共に東急に合併という形をとっていた。
戦後は東急から独立、昭和23年10月新宿-小田原間にノンストップの特急が復活したが、これが今のロマンスカーの原形となる列車と言うべきだろう。もっともこの時点では現在のような箱根登山鉄道の箱根湯本への乗り入れは出来なかったが、その後乗り入れは実現の運びとなり、昭和25年8月1日には新宿から直通電車が走り出した。ただそれは既に戦前から電車を箱根湯本へ直通させたいという「悲願」が実現した瞬間でもあった。
小田急の箱根湯本乗り入れは予想以上の好評で迎えられ、戦後のスタート時に運転していた
1600形電車は、昭和25年7月に運輸省規格形の電車1910形(のちの2000形)に代わっていたが、近年まで続いた喫茶コーナーを設けるという当時としては新機軸を盛り込んだことも好評を博した要因のようだ。同じ頃、西の近鉄でも特急が誕生し、これが現在の近鉄特急の基礎となっていくが、どちらもまだ戦後の混乱が残る時代に明るい光をもたらし、フラッグシップ的存在となっていくのは興味深い。
この小田急の箱根特急は増発に迫られる。当然使う電車を増やさなければならないが、社内では従来の1910形を増やすか、それとも思い切って新車を製造するかの選択で賛否が別れたという。確かに土日の特急は満席が続いており増発は必要なものの、果たして平日も走らせて採算が取れる程の乗客があるだろうかという消極的意見もあったのは確かだ。
結果的には新車1700形3両を導入することになったのだが、そのような危惧もあり車体は新製するもののシャーシ(台枠)は戦災国電の流用、座席数を極力多く取るため3両編成のうち2両目は乗降用ドアを設けない(運輸省の指導で非常ドアはあった)、特急電車としてふさわしい内外装とするものの極端に華美にならないようにする、足回りは戦後初の特急1600形からの流用…などの工夫が図られていたが、これは製造費用を抑え、かつ運賃・料金収入を上げようとする策でもあった。
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昭和26年2月にデビューした1700形の特急は箱根特急のさらなる好評を博す結果となり、今度は利用客の増発要望まで重なってあと3両追加で製造されることになり同年8月に仲間入りした。ところがこの追加製造車には特急電車としての「誇り」が車体中央部に輝いていた。
それは神奈川県の県花、百合をデザインしたエンブレムだった。真鍮でつくられたこのエンブレムはオリエント急行のワゴンリ車のような風格が漂っており、以後小田急の特急の象徴となった。続く昭和27年8月には今度はちゃんとした「新車」で1700形の第3編成がデビューしたが、この電車の車内にはそれまでの白熱灯に代わり蛍光灯が採用され、明るい日本の戦後を象徴するものとなった。これで先代特急電車の1910形改め2000形は役目を終え格下げされていった。
この1700形までの特急電車は、設備こそ特急にふさわしいものであったが、電車そのものの構造は戦前の電車からはあまり進歩していなかった。戦後は私鉄各社で車体の軽量構造、新型の駆動装置などが実用化されはじめ、昭和29年7月、小田急では通勤型の電車2200形がデビューした。続いて特急もということで昭和29年9月、のちのSE車こと3000系の設計にとりかかった。
しかしの特急の人気は相変わらず高く、その新型車が登場するまでの間も電車の不足は続くことが明らかだったため、1700形をさらに製造しようという意見も出たが今さら旧型の構造で特急電車をつくるというのもどうかという話になり、繋ぎとして通勤型の2200形を1700形の設備とした2300形4両を昭和30年にデビューさせた。初めから暫定の特急電車としての製造だったというかわいそうな面は否めないが、百合のエンブレムは堂々と輝いていた。
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昭和32年7月6日、戦後の鉄道界にセンセーションを巻き起こした小田急の新型特急電車、SE車こと3000系がデビューした。小田急の特急は「ロマンスカー」というネーミングがポピュラーとなった。車体のデザインは流麗なものになり、塗装もオレンジ、白、グレーでまとめられていたが、デザインそのものが「小田急の特急電車」という位置づけだったのか、あの百合のエンブレムはなくなっていた。
戦後の小田急の特急をポピュラーなものにした1700形はこれをもって引退、通勤型に改造された。暫定車の2300形はその後も予備車としての日々が続いたが、昭和34年4月にSE車の第4編成が登場した時点で引退が決まり、ドアを増設して当時小田急に設定されていた準特急として走り出したが、この時点で百合のエンブレムは消滅してしまった。
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それ以降、小田急ロマンスカーは前面展望を実現したNSE車3100系(昭和37年)、SSE車の後継車のLSE車7000系(昭和55年)、ハイデッキ構造を取り入れたHi-SE車10000系(昭和62年)と続いた。しかしその間も伝統の百合のエンブレムは車体に輝くことなく不遇の日々を送っていた。
平成7年からは、どちらかというとNSE車のキープコンセプトだったLSE車がデビュー後約10年を経たことで、仕様をHi-SE車に合わせるべくリニューアルが行われた。ところが続く平成8年のリニューアル車からは11両編成のうち売店が設置されている2両(3,9号車)について、それまで4本の白の細線が入れられていた部分に、あの百合のエンブレムが復活したのだ。
このエンブレムは以前のような真鍮製のものではなかったが、堂々たる風格が蘇った。のちエンブレムはLSE車の全編成だけでなくHi-SE車全編成や平成2年に御殿場線乗り入れ特急『あさぎり』にデビューしたRSE車20000系にまで及び、小田急ロマンスカーの歴史は再び特急電車の車体に輝くようになった。
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Hi-SE車 10000系 |
堂々と復活したエンブレム |
その後小田急にはビジネスライクに変身したEXEこと30000系がデビューしたが、これは現在の特急需要に適するものとなったものの、実用性が重視された結果、今一歩家族連れや行楽客にウケが悪かった。一旦はフラッグシップの座を明け渡したHi-SE車が再びその座に返り咲いたのはこのような事情があるが、やはり前面展望席のある特急は小田急ロマンスカーには不可欠な要素であることは確かで、新型特急電車のVSE車50000系は、伝統の車体構造が踏襲された。
しかしVSE車には、あの栄光の百合のエンブレムは輝かなかった…。そしてHi-SE車はバリアフリー化に対応出来ないという理由で、早くも引退の道を歩むことになった。
長い歴史を誇る小田急ロマンスカーですが、やはり「箱根」への行楽という原点は外せないようです。でも、その伝統を今に伝える百合のエンブレムは永遠に大切にしてほしい…と願うばかりです。
次は中京方面の話題へと移ります。
【予告】美濃町線を救った電車
―参考文献―
鉄道ピクトリアル
1999年12月号臨時増刊号 <特集>小田急電鉄 鉄道図書研究会
鉄道ピクトリアル
2002年9月号増刊 アーカイブスセレクション1 小田急電鉄 1950〜1960 鉄道図書研究会
鉄道ピクトリアル
2002年12月号増刊 アーカイブスセレクション2 小田急電鉄 1960〜1970 鉄道図書研究会
レイル
No.1‘80 SUMMER 小田急ロマンスカー/北陸の私鉄/アメリカの蒸機保存鉄道 プレス・アイゼンバーン