Rail Story 8 Episodes of Japanese Railway

 ●異母兄弟の謎2(前編)

昭和19年、太平洋戦争末期の頃、荒廃を辿っていた日本の鉄道はそれでも大都市部の乗客輸送には厳しいものがあった。そんな事態を打開すべく鉄道省(のちの国鉄今のJR)に登場した電車が「ロクサン形」ことモハ63形電車だった。

この電車は戦後、国鉄だけでなく私鉄にも供給されてその後の復興を支えた立役者となったが、以来50年を経た今日、驚く事に境遇は異なるものの似たような現象が起こっている。

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昭和19年といえば日本の国土は相次ぐ米軍の攻撃を受けて憔悴の一途。そのような時に新型の電車をつくろうといっても、満足な材料もなくフレームは古い木造車のものを改造、車体は極力材料を省略して、さらに出来るだけ代用品を使わなければならなかった。

結果、車体の鉄板は薄くされて歪みが目立ち、窓は木造フレームの三段式で中段は固定、日除けは省略、車内も椅子は木造のものが申し訳程度にあっただけで大部分は省略、吊革はただの木の棒、天井板も省略、電気回路は簡略化され電線類は配管に納めずに縛るだけという、誠に粗末な電車モハ63系列の計24両がようやく完成して早速活躍を開始した…が、当時はモーターすら作る材料がなく、結局は全車トレーラーで戦前からの生き残りの電車に引っ張ってもらってのデビューだった。

その後日本は終戦を迎え、大都市の輸送力低下は深刻化。鉄道省改め国鉄はモハ63系列を引き続き製作することを決めたが、私鉄も同様に車両不足に悩んでおり、運輸省の指導もあってモハ63形電車は私鉄にも供給されることになった。その供給先は東武、小田急、相模鉄道、名鉄、南海、山陽電鉄と多岐に亘っていた。また京成には長さも幅も縮めたタイプが納入されている。

ただし山陽電鉄はレール幅が国鉄と異なる1,435mmだが、台車を設計変更してこれに対応し、山陽電鉄側も今までよりもずっと大型の電車を受け入れる必要があるために全線に亘って改修工事を行った。

いっぽう名鉄に供給されたモハ63形は名古屋本線の庄内川鉄橋を挟む急カーブが20m車体では支障することが判り、新名古屋-豊橋間でのみ走らせることになったが、これでは運転効率が悪いのか、まもなく東武と小田急に譲渡するはめになったという。

このあと、国鉄にはモハ63形でも「ジュラ電」というのが昭和22年始めに仲間入りした。これは戦後GHQの指示により航空機の製造が出来なくなったことで、戦時中に確保した航空機用のジュラルミンが大量に余ってしまったために電車の車体の材料にされたものである。塗装は省略され、唯一窓の下に細い赤い帯が引かれたが、茶色だらけの電車の中で唯一目立つ存在だった。ただしジュラルミンは電車の材料としては全く適しておらず、早々に錆びてボロボロになったという。昭和29年にはオールスチール製車体への更新試作車に変身した。

昭和26424日、悪夢の事故が起きた。有名な桜木町事故である。垂れ下がった架線を引っ掛けたことに端を発した火災はあっという間に燃え広がり、窓が三段式では乗客が脱出出来ず、車体を繋ぐ貫通路もなく前後の車両にも移動出来ない状況の中、100名以上の人命が失われた。これはモハ63形の代用品設計が原因であり、国鉄は急いで電気回路や車体構造の改修を行い、モハ63形はクモハ73形に生まれ変わった。これを受けて各私鉄でも車体の更新が行われ、以降どちらも長く活躍を続けていった。小田急の仲間(1800)たちは、のちに秩父鉄道に移籍し驚くべきことに平成2年まで生き長らえた。

国鉄クモハ73形
晩年のクモハ73形電車(富山港線)

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JR東日本209系時は流れて平成4年、ロクサン形の後継車で高度経済成長を支えた通勤電車103系にもそろそろ疲れが見え始め、JR東日本が開発に着手したのが後に京浜東北線で本格デビューした209系の試作車、901系電車だった。「価格半分、重量半分、寿命半分」を合言葉に設計が進められたが、103系と違うのは半導体技術と車体製作技術の進化を取り入れたことだ。寿命が半分というのが気になるところだが、必要以上の頑丈設計とせず、あえてリサイクルを意識した寿命設定を行いコストダウンを目指している。これらの結果、消費電力は103系の47%となったが、それは電車内に貼られているステッカーでご存知のとおり。

901系は3編成製作されたが各編成毎に試作要素が織り込まれていた。結果的に平成5年からの量産車209系では運転台や電機品などの基本仕様が統一されて、一見同じ電車のように見えるが細かな部分ではメーカーの考えや製作上の相違点があり、微妙に差異が認められるのが面白い。例えば窓の隅の形状や高さ、車内の内装板のディテールなどに表われている。

このメーカーによる一部自由設計は、かつて初代ブルートレイン20系『あさかぜ』がデビューした頃にも行われており、食堂車ナシ20形では2社が内装を全く異なるものとしていた。日本車両は比較的オーソドックスで落ちつきのあるものだったが、日立製作所は楕円を取り入れたモダンなものでデザインを競っていた。のちブルートレインの全国展開により両社のデザインは統一されてしまったが、今ではブルートレインそのものが衰退してしまって食堂車も『カシオペア』『北斗星』『トワイライトエキスプレス』以外無くなってしまったのは残念なところだ。

京浜東北線から先輩103系を追い出した209系は、のちワイドボディ化されて209500番台となり(この時窓の隅の形状や高さは統一された)、これを近郊型(一部クロスシート)にしたE217系は横須賀線に投入された。

更に電車は進化する。続いて登場したE231系は今まで各車両の制御回路を電線類で結んでいたのを、情報技術の進化により列車内LANで結ぶという考えに改めた。結果、徹底的なコストダウンが推し進められ、E231系はJR東日本の標準通勤車としての地位を確立し、総武線、山手線、常磐線などにも進出、近郊型バージョンも同形式に統一され、東北・高崎線や東海道本線にも走り出した。

JR東日本E217系 JR東日本E231系 JR東日本E231系500番台 JR東日本E231系1000番台

横須賀線E217

総武線E231系 山手線E231 湘南新宿ラインE231系

余談だが、東海道本線に投入されたE231系は当然JR東日本オリジナル車。今まで活躍してきた「かぼちゃ電車」こと国鉄時代からの引継ぎ車113系は、JR東日本・JR東海両社の電車が東海道本線東京口で運転されていて、現在まで国府津所属車(JR東日本)と静岡所属車(JR東海)の連結運転が国鉄時代からずっと行われていたが、今度のE231系は当然JR東日本が単独で運転しなければならなくなったそうだ。


現在E231系は首都圏のJR線では全くポピュラーな存在となりましたが、この後、あの「ロクサン形」電車同様、私鉄でも走り出すようになったのです。

次は私鉄のE231系と、それ以前にあった動きについての話です。

【予告】異母兄弟の謎2(後編)

―参考文献―

鉄道ファン 19961月号 ロクサン形電車とそのファミリー交友社
鉄道ピクトリアル20031月号【特集】私鉄高性能車の半世紀鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 199912月増刊号 <特集>小田急電鉄鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 20036月号 【特集】JR東日本209系・E231 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル
200312月号 【特集】都市鉄道の車両標準化鉄道図書刊行会
国鉄客車・貨車ガイドブック
誠文堂新光社

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