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レイル・ストーリー7、只今発車します


 ●これがホントの「道の駅」

現在全国至るところに「道の駅」というものがあるが、鉄道でいうところの「駅」とは関係がない。
しかし北陸自動車道には、そこがかつて本当に「駅」だったところにパーキングエリアが出来て、「道の駅」さながらの存在となっている場所がある。現在の姿からは想像出来ないが、その「駅」の前後では、かつて壮絶なドラマが連日繰り広げられていた。

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明治維新の頃、諸外国との交易のために国際貿易港が必要とされ、天然の良港だった敦賀がその一つに選ばれた結果、接続する陸路として北陸本線がつくられたのは比較的早い段階だった(詳しくはこちらを)。その敦賀に至るには柳ケ瀬峠という険しい峠道を越える必要があったが、のち北陸本線が敦賀からさらに北陸へと東進していくには続く山中峠も越える必要もあり、北陸本線は敦賀を挟んで二つの峠道があるという山岳ルートとなってしまった。

北陸本線はやがて日本海側の幹線ルートとなるが、早期に開通した長浜-敦賀間が出来あがったのはまだ鉄道が「陸蒸気」と呼ばれていた頃。柳ケ瀬峠に存在するトンネルは当然「マッチ箱」といわれた小型の車両に対応する程度のため断面は小さく、しかも他の勾配線区に比べ長かった。のちに北陸本線貨物列車には大型のD50型蒸気機関車が配置されたが、トンネルこそギリギリ通れたものの、険しい峠道をフルパワーで登るために大量かつ高温の煙がトンネル内に充満し、乗務員にとっては地獄のような路線だった。しかも長大で重い貨物列車のため、米原側の麓の中ノ郷から二つの峠を越した今庄との間は列車の後に機関車をもう1両連結していたが、それは正に壮絶なドラマだったという。

乗務員の基地だった当時の国鉄敦賀機関区の公式記録によれば、峠のトンネル内での窒息事故は多くを数え、乗務員の死亡あるいは窒息・悶絶という事態を招いている。この他記録に残らなかったものはむしろ日常茶飯事だっただろうと推測される。
記録の中には、トンネル内の上り坂で貨物列車が坂を登りきれずに停止してしまい、後部の機関車乗務員が、暗闇の狭いトンネルを煙に耐えながら危険を承知で先頭の機関車に辿りつくと、乗務員は三人共に失神して倒れており、やむなく列車を後退させて手前の刀根駅に戻った…というものもある。毎日が上り坂のトンネル、限界一杯の重さの列車と煙の闘いで、国鉄内では敦賀機関区で育った乗務員は、全国どこの路線でも通用すると言われたという。

のち機関車はD50の後輩、デコイチことD51に代わったが、太平洋戦争の前後は燃料の石炭の質も低下し、北陸本線敦賀地区の輸送は苦労続きだった。やがて戦後の復興も見え始めた頃、機関車をそれまでの2両から3両にして、貨物列車の重さを700tから一気に平坦路線と同じ1,000tにすることが決定した。それほどまでに北陸本線の輸送量は逼迫していたのだ。

しかし問題は二つの峠越え。それまで夏季のトンネル内での運転室内温度は55℃を越えるという灼熱地獄、実際に3両での試運転を行ってみたところ、やはりトンネル内での温度上昇は予想以上で試運転は失敗(推定65℃に達したと言われている)、とても1,000tの貨物列車は無理だと思われた。

そこに敦賀機関区で画期的装置が考案された。通常煙突から吐き出される煙はトンネルの天井に当たり運転室に跳ね返って来る格好となってしまうが、煙突から出た煙を直角に曲げ、さらに圧力差を利用してトンネルの天井づたいに機関車の後方へ吹き飛ばすものだった。これなら運転室に入り込む煙を大幅に減らすことが出来る。早速装置を機関車に取りつけて試運転したところ効果は上々、北陸本線貨物列車の1,000t化成功の礎となった。これは「敦賀式集煙装置」と呼ばれるもので、同様に峠道での煙に悩まされてきた勾配線区でも次々と採用され、輸送改善に寄与した。

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北陸本線には全線の電化と複線化、峠の勾配改善という近代化の波がやって来た。昭和32月10月1日にまず柳ケ瀬峠が現在の深坂経由の電化新線となり、元の柳ケ瀬経由のほうはディーゼルカーで運転する支線の柳ケ瀬線となったが、のち昭和39年5月10日にはバス転換され、線路は道路に変わった。
残る山中峠のほうはその下をショートカットするトンネルを掘ることになり、13.8km余りの当時日本一の長さで世界でも5位という北陸トンネルが昭和32年に着工された。とにかくこの区間の改善は急を要したが驚くことにたった4年で完成に至り、昭和36年6月10日には新線に移行、電車や電気機関車が活躍を始めた。山中峠経由の旧線は柳ケ瀬線とは違い、直ぐにバス転換された。もとの線路はこちらも道路となったが、ともかく蒸気機関車が繰り広げた壮絶なドラマはここに終止符を打った。

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のちに旧北陸本線ルートは再び北陸の動脈に生まれ変わる。

昭和53年に開通した北陸自動車道はこの旧線をパイロットルートとして建設が進められ、柳ケ瀬峠にあった刀根駅跡には刀根PAが、山中峠にあった杉津(「すいず」と読む)駅跡には同じく杉津PA(上り)がつくられた。即ち、元の駅がそのままの場所でさながら「道の駅」として復活したという、珍しい例となったのである。

杉津PA(上り)

杉津PA(上り)

刀根PA

杉津駅跡の杉津PA(上り)

ここに線路があった

刀根駅跡の刀根PA

ただしこの北陸自動車道の建設も簡単なものではなく、敦賀IC〜今庄IC間は当初暫定2車線での開業だった。現在でもこの区間は上り線と下り線が全く別のルートを走っており、先に開通したのがパイロットルートを生かした部分ということになる。

ちなみに北陸道の開通時は敦賀ICから途中の葉原トンネルの手前までは下り線、その先今庄ICまでは上り線を使った暫定対面2車線通行がしばらく続いた。現在も北陸道葉原トンネルの米原側坑口には下り線と上り線が遷移していた部分が業務用エリアとして残っている。山中峠は土木技術が進歩した近年でさえ、一度に4車線の道路を建設出来なかった程の険しい地形だということになるが、そこにかつて鉄道を通したという先人たちの苦労は図り知れないものがあると言える。

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現在は道路となった旧線を辿ってみよう。

琵琶湖の北に位置する木ノ本の先、中ノ郷が柳ケ瀬峠の入口だった。現在は道路となっている線路跡だが、ホーム跡はそのまま記念碑として残っており、駅名標も保存されている。

この先はいよいよ峠道。柳ケ瀬駅跡を過ぎた雁ケ谷信号場跡には敦賀方面と武生方面への分岐点があるが、これを敦賀方面へと進むとサミットの柳ケ瀬トンネルの坑口だ。単線の線路跡を利用したためトンネル内は1車線となっており、信号を確認して進入することになっている。確かにトンネルの中はかつてデコイチが咆哮したとは思えないほど狭い。トンネルを出ると線路跡は北陸道になり刀根PAになる。その先の短い小刀根トンネルは文化財として保存されていて、かつての姿を見ることが出来る。

中ノ郷駅跡

柳ケ瀬トンネル

小刀根トンネル跡

中ノ郷駅跡はそのまま

柳ケ瀬トンネル

小刀根トンネル跡

疋田で現在線と合流した旧線は、敦賀駅を過ぎて再び現在線から別れ山中峠へと向かう。ここまで2車線だった道路は新保駅跡から先は1車線になり、上り坂の先はやがて葉原トンネルとなる。旧線を利用した道路のトンネルは照明設備があるが、設置されたのはつい最近のことで、それまでは真っ暗な闇の中だった。信号のないトンネルの入口では先に対向車のヘッドライトの有無を確認して進入する必要がある。

葉原トンネル

トンネル内部

眼下に広がる敦賀湾

葉原トンネル

トンネル内部の様子

眼下には敦賀湾

トンネルを抜け少し進むと杉津PA(上り)の裏に至る。さらに短いトンネルをいくつか越えるとサミットの山中トンネルが見えてくるが、ここでの海抜は265m。眼下には敦賀湾の絶景が広がっていて、敦賀からここまで登ったことが判る。

山中トンネル(敦賀方)

山中トンネル(今庄方)

山中信号場跡

山中トンネル(敦賀方)

山中トンネル(今庄方)

山中信号場跡

トンネル出口にはかつて山中信号場があった。引込線の先にあった短いトンネルの跡も残っている。この先は大桐駅跡まで下り坂が続き、その先は坂が緩やかとなって今庄へと至っている。

旧線時代は敦賀機関区、今庄機関区が峠越えの基地となっていたが、今庄駅構内には今も蒸気機関車に水と石炭を補給していた給水塔と運炭台が残っている。
また今庄町役場前にはかつて旧線で活躍したデコイチが保存されている。これはD51でも481号機で、製造以来山陽本線、伯備線、山陰本線で活躍した機関車で北陸本線に配置されたものではない。ただし煙突を見ると正規のものより短いのが判るが、これは伯備線時代に集煙装置が装備されていたことを物語るもので、敦賀ゆかりの集煙装置が付いていたデコイチということになる。

今庄町役場前のデコイチ

今も残るかつての施設

保存されているデコイチ

駅構内に今も残る給水塔・運炭台跡

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現在北陸本線は『サンダーバード』『しらさぎ』『はくたか』など電車特急が行き交う「特急街道」と異名を取るほどの幹線となっている。しかしその歴史の中に、このような壮絶なドラマが繰り広げられていたことを忘れてはならない。そして意外な程、その名残は40年以上たった今でも比較的容易に見ることが出来る。


デコイチはよく「デゴイチ」と言われがちですが、先輩のD50が「デコマル」と呼ばれていたのに続いてD51が出来て「デコイチ」と呼ばれたのが真相のようです。

次の話題は北陸路を離れ、関西へと向かいます。

【予告】今日を走る京都市電

参考文献−

鉄道ジャーナル 1975年5月号 聞き書き 北陸本線の生い立ち 鉄道ジャーナル社
鉄道ジャーナル 1999年2月号 北陸本線旧線跡を行く 鉄道ジャーナル社
鉄道ファン 1998年8月号 北陸本線の難所と敦賀式集煙装置 交友社

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