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レイル・ストーリー7 只今発車します


 ●二つの『しらさぎ』ものがたり(中編)

国鉄特急列車の停車駅でなくなった大聖寺での加南線への乗換え客が激減する中、モータリゼーションの影響で増大する赤字に悩まされていた北陸鉄道は、鉄道路線全ての廃止を検討するまでに至っていた。

結局石川県の意向もあって金沢の郊外を走る石川線と浅野川線は通勤・通学の足として存続されることになったが、その他の路線は廃止が決定した。加南線は真っ先にその対象になってしまい、昭和46年7月10日、山中馬車鉄道以来続いた温泉アクセスに終止符を打つことになった。

しかし加南線のスター的存在だった『しらさぎ』『くたに』の両車は、デビュー後まだ10年も経っていない。このままスクラップになるはずもなく、現在「SL急行」の運転で有名な静岡県の大井川鉄道に移籍することが決まった。
『しらさぎ』『くたに』は加南線の最後を見届けず、廃止の直前に今度は国鉄特急『しらさぎ』のルートを経由して東海道線の金谷まで回送されていった。
結局加南線は温泉電軌から北陸鉄道に引き継がれた電車たちが中心になって最期を努めることになったが、まだ若い『しらさぎ』『くたに』に、悲しい別れの光景を見せるには忍びない…という気持ちもあったのかもしれない。

大井川鉄道に到着した『しらさぎ』『くたに』ではあったが、そのままでは走れなかった。というのも北陸鉄道時代は電源が直流600Vだったが、今度は同じ直流でも1,500Vだ。足回りも全て新製だった『くたに』は改造が困難だったために結局モーターを外されてしまい、もと小田急の電車に牽かれての活躍となった。愛称は『あかいし』と変更されたが、車体の塗装は北陸鉄道時代そのままとされ、逆に連結相手の小田急の電車を北陸鉄道カラーに塗り替えている。
いっぽう『しらさぎ』のほうは足回りが旧型車の流用だったためにかえって構造がシンプルで、1,500Vへの改造は比較的容易だったという。『しらさぎ』の名前もそのまま、アルミボディーを輝かせて今度は風光明媚な大井川沿いを走ることになった。

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山陽新幹線が博多まで全通した昭和50年3月10日、この時は北陸線にも転機が訪れている。

『雷鳥』『白鳥』などの大阪方面への特急が湖西線経由となり、米原での東海道新幹線乗り継ぎが出来なくなってしまったので、その役目を負った新幹線連絡特急『加越』が富山・金沢-米原間に一挙6往復デビューした。これで『しらさぎ』の6往復と合わせ12往復の東海道新幹線接続特急が実現することになった。ただし『しらさぎ』がグリーン車2両に食堂車まで繋げた堂々12両編成だったのに対し、『加越』のほうは所要時間が短いこともあってグリーン車1両連結の7両編成と、身軽な装いでのデビューだった。

新設された北陸線特急『加越』
新設された特急『加越』

全日空L-1011-385-1トライスター(旧塗装)

この頃から北陸-東京の旅客の流れには、徐々に航空機が台頭してくる。もともと自衛隊機の離発着にと2,700mの滑走路を有する小松空港は大型機の就航が可能で、東京-小松線にはL-1011トライスターに続いてB747SRジャンボも投入され、年間利用客数はたちまち100万人を突破した。また当初から運航の全日空に加え日本航空、日本エアシステムが参入、幹線に並び国内線トップ10以内の盛況さを誇る主要ローカル路線に成長した。『しらさぎ』『加越』はこれに対抗した東海道新幹線連絡の色が濃くなっていく。ところが昭和57年11月15日、上越新幹線大宮-新潟間が開業、北陸と東京を結ぶルートに変化が見え始める。

ここで『しらさぎ』には大敵が現われた。全国的に急成長した高速バスである。昭和62年7月には北陸自動車道・名神高速道路経由の高速バスが金沢-名古屋間に登場し、所要時間は『しらさぎ』より1時間程余計にかかるものの料金は半額程度、街中のバス停から乗れるという気軽さも手伝って爆発的人気を呼んだ。そのような流れの中で『しらさぎ』からは食堂車が消え、『加越』ともども編成まで短くなってしまう。

イラストマークとなった『しらさぎ』

国鉄はJRに生まれ変わり、昭和63年3月13日には新幹線連絡にターゲットを絞った特急『かがやき』が金沢-長岡間に2往復、特急『きらめき』金沢-米原間に1往復新設される。のち上越・東北新幹線が東京駅に乗り入れる頃には上越新幹線ルートがすっかりポピュラーになり、『かがやき』が4往復に成長したのに対し『きらめき』はもう1往復増えたにとどまってしまった。
またJR東海が最初に手がけた在来線の輸送改善が高山線特急『ひだ』の新車投入と増発・スピードアップだった。富山と名古屋を結ぶ両者の所要時間は大差がなくなり、乗客の選択の余地をまたも増やすことになった。
結局『きらめき』は、『かがやき』から生まれ変わったほくほく線経由の特急『はくたか』が新設された平成9年3月22日に姿を消した。

あまりいい事の続かなかった『しらさぎ』『加越』だったが、航空機や『はくたか』なども含めた相乗効果が現れたようで、かえって安定した実力を発揮するようになった。『しらさぎ』は米原止まりの増結車を連結するようになり、再び編成が長くなる。しかしこの頃には長年走り続けた485系電車に疲れが見え始め、平成13年9月には『サンダーバード』の増発で役目を失っていたもと『スーパー雷鳥』用の485系グレードアップ改造車がさらに手を加えられて転用されたが、これはショートリリーフに過ぎなかった。

平成15年4月、『しらさぎ』の半数が新車683系に置き換えられた。次いで7月には『しらさぎ』の残り半数と『加越』全列車が新車になった。この結果8月の旧盆期には乗客数前年対比20%増という好成績を記録し、北陸地方では「しらさぎ効果」などの言葉まで生まれた。続く10月のダイヤ改正では『加越』は『しらさぎ』に統合され発展的解消を遂げ、大阪へは『サンダーバード』、名古屋・米原へは『しらさぎ』、越後湯沢へは『はくたか』の北陸特急3系統の軸が出来あがった。
実は4月・7月の新車の投入時は暫定デビューだったためにスピードアップまでは実現していなかった『しらさぎ』は、この時からはいよいよ130km/h運転となり、さらなる実力が発揮されていくだろう。

最終日の485系『しらさぎ』

新車683系『しらさぎ』

485系最終日の『しらさぎ』

新車683系『しらさぎ』

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大井川鉄道に移籍した北陸鉄道『しらさぎ』『くたに』だったが、『くたに』改め『あかいし』は自力で走れないのがネックになってしまったが、平成8年3月まで活躍した。
いっぽう『しらさぎ』のほうは地道に大井川沿いを走りつづけていたが、近鉄、京阪、南海から電車が移籍して第二の活躍を始めるとこちらも活躍の場がだんだん狭められていく…。


北陸線特急『しらさぎ』は数々の運命を乗り越え、今や北陸線の代表格になりました。いっぽう北陸鉄道『しらさぎ』は大井川鉄道での活躍が続くはずでしたが…

次は現在の北陸鉄道『しらさぎ』と、加南線の跡の話です。

【予告】二つの『しらさぎ』ものがたり(後編)

−参考文献−

鉄道ジャーナル 1975年5月号 聞き書き 北陸本線の生い立ち 鉄道ジャーナル社
鉄道ピクトリアル 1996年9月号 <特集>北陸の鉄道 鉄道図書研究会
鉄道ピクトリアル 2001年5月臨時増刊号 【特集】北陸地方のローカル私鉄 鉄道図書研究会
鉄道ピクトリアル 2002年4月号 【特集】581・583系電車 鉄道図書研究会
鉄道ピクトリアル 2003年1月号 【特集】私鉄高性能車の半世紀 鉄道図書研究会
名列車列伝シリーズ 17 特急はくたか&北陸の485/489系 イカロス出版

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