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レイル・ストーリー7 只今発車します


 ●もうひとつの「能登線」

石川県能登地方には第三セクターにより運営されている「のと鉄道」というのがある。路線はJR西日本から移管されたもので、七尾-穴水間の七尾線と穴水-蛸島間の能登線の二つから成っており、線名もそのまま引き継いでいる。もっとも穴水から先には朝市で有名な輪島まで七尾線が延びていたが、去る平成13年3月いっぱいで廃止されてしまった。

金沢から直通の急行『能登路』の廃止、線内観光急行列車『のと恋路号』の廃止など明るい話題に恵まれない「のと鉄道」ではあるが、それよりずっと以前に同じ「能登線」を名乗る路線が存在した。

それは北陸鉄道能登線。能登半島第二の都市、羽咋から三明(さんみょう)までを結ぶ非電化路線だった。

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北陸線との分岐点、津幡から伸びてきた七尾線が羽咋で能登半島の通称外浦寄りから七尾を経由した内浦寄りのルートをとったのに対し、羽咋からそのまま外浦沿いに輪島へ、逆に羽咋から手前は富山県の氷見までの路線をつくろうと大正11年に設立されたのが、奇しくも「のと鉄道」ならぬ「能登鉄道」だった。

路線の建設はもともと海沿いということで砂丘が多く、資金難もあって思うようには進まなかったという。そんな中で羽咋-能登高浜間が大正14年3月3日に開通、昭和2年6月30には能登高浜-三明間が開通して路線が出来あがった。しかし三明から先、能登金剛など景勝地が多い富来からは路線の延長が拒否され、輪島までの道は閉ざされてしまった。また氷見への延長は全く目途がつかなくなったという。
のち昭和18年には加南線と同様に北陸鉄道に合併され、「能登線」を名乗ることになった。

しかし北陸鉄道の他の路線は戦後電化された金名線を含め全て電車での運転だったのに対し、能登線は最後まで電化されなかった。晩年はディーゼルカーの活躍が続いていた。

北陸鉄道能登線の沿線には石川県有数の海水浴場である柴垣海岸や、能登一の宮である気多大社があり、夏の海水浴シーズンと正月の初詣の時には国鉄七尾線からの直通列車が運転され、多いに賑わったという。
その乗り入れはまだ能登鉄道時代に遡る昭和9年12月22日には既に認可されており、大晦日からは早速金沢からの初詣直通列車の運転が始まっている。また夏の直通列車は「はまかぜ」「能登つばめ」という愛称がつけられ親しまれた。
なおこれらの直通列車はディーゼルカーとなった晩年を除きC58型蒸気機関車の牽く列車で運転され、しかも能登線の列車はラッシュ時でもせいぜい2〜3両での運転だったのに対し、その倍以上の6〜7両もの客車を繋げて堂々乗り入れていた。

このように正月と夏だけ活気付いた北陸鉄道能登線だったが、それ以外は羽咋と沿線とを結ぶ通勤・通学の足として走ってはいたものの、もともと目的が果たせず中途半端に終わった路線であり、加えて沿線人口が少ない上に過疎化が進み、昭和30年代半ばにして早くも経営状態は思わしくなかった。モータリゼーションが加速した昭和40年代に至っては累積赤字が2億5千万円を突破、これ以上の路線維持は不可能という結論に至った。

結局北陸鉄道の他の路線同様、廃止が決まってしまった。まずは加南線が昭和46年7月10日をもって廃止され、続いて金石線が同年8月31日に廃止、能登線は地元との話し合いが翌年まで延びたこともあって、昭和47年6月24日に廃止された。もう少し待てば、再び真夏の喧騒が能登線最後の賑わいをもたらしたのかもしれないが、それはとても叶わぬ話であった。

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廃止された北陸鉄道能登線は大部分が自転車道として再生された。即ち、ほぼかつての姿を彷彿とさせながら存在している。

羽咋駅はそのまま自転車道の起点となっており、ゆるやかな上り坂の先でJR七尾線と立体交差している。その先は一部一般道となって今度は国道159号線の下をくぐっている。

羽咋駅跡

七尾線を越える

国道を潜って

北陸鉄道能登線羽咋駅跡

JR七尾線をオーバークロス

国道159号線をアンダークロス

能登一の宮駅には、かつて国鉄から長大編成で乗り入れた列車を受け入れるため能登線としては破格の長さのホームがあったが、それは盛土となったまま面影を留めている。また能登線の中間で最も人口が多い高浜町の中心部では、線路跡が2車線の道路になり、かつての高浜駅はバスターミナルとなっている。

能登一の宮駅跡

今も残るホーム跡

高浜駅跡

能登一の宮駅跡

ホーム跡が残っている

高浜駅跡はバスターミナルに

その先、終点の三明まではレールさえあれば今でもディーゼルカーが走ってきそうな自転車道となっている。途中の鉄橋もそのままだ。やがて線路跡は海岸沿いからやや山間部に移り、アップダウンを繰り返しながら終点の三明へ向かう。

鉄橋はそのままの姿

小さな鉄橋

現在は自転車道

鉄橋もそのまま残っている

小川を跨ぐ鉄橋

一目で線路跡と判る自転車道

終点の三明の由来は、かつてここに流罪となった三名が辿り付いた場所…それがやがて「三明」になったものと言われている。何故ここが終点になったのかと思われるほど小さな集落だ。
現在駅跡地には石碑があるが、それはかつてここに鉄道が存在し、赤字、過疎などに苦しみながらも住民に愛されていたという証ではないだろうか。

現在の三明駅跡

石碑と転轍機

終点三明駅跡

駅跡を示す石碑

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北陸鉄道能登線に最後まで残っていたディーゼルカー達は国鉄払い下げの旧型車が殆どだった。中には「機械式」なる変速機を持つものもあったが、クルマで言うところの「マニュアルトランスミッション」。当時既にディーゼルカー用のトルクコンバーターが実用化されていて、2〜3両編成での運転はトルコン車が使われたものの、たまに都合でこのMT車が入るともう大変。クラッチ操作があるためにMT車には別に運転士が必要で、しかもギアチェンジは汽笛での合図だったという。そのギアチェンジもうまくタイミングが合う時は稀で、クラッチを繋ぐと列車はガックン!と前後に激しく揺さぶられ、運転士も乗客もヘトヘトになったとか。

また能登線のディーゼルカーの特徴として、正面に荷台がついていたことがあげられる。これは合理化のため昭和40年に貨物輸送を廃止したこととも関係しているが、なにしろ野暮ったいスタイルとなってしまったのは確かだ。

その中の1両に、北陸鉄道が唯一新製したディーゼルカーがあった。昭和32年8月に日本車輛から納入されたキハ5301は、当時私鉄のディーゼルカーは国鉄車をコピーした車体設計が圧倒的だったのに対し、なかなかスマートな完全オリジナル設計だった。でもあの野暮ったい荷台もしっかりついていた…。ただし当初はエンジンを付けてもらえず、国鉄払い下げ車に引っ張ってもらってのデビュー。
のち昭和38年10月、晴れてエンジンの搭載となったが、この時国鉄のディーゼルカーと連結運転が出来る制御装置も追加され、将来は国鉄七尾線の列車に連結して金沢まで直通運転を行う…という計画もあったようだが、結局その装置は北陸鉄道では一度も生かされないまま終わってしまった。

路線の廃止によりディーゼルカー達は役目を失ってしまったが、同じ非電化私鉄から再度の活躍を!という話が来て、最新のキハ5301を含む4両が関東鉄道などに移籍して、電化により役目を失い小田急「あさぎり」から引退したディーゼルカーのいる仲間に加わった。また中には思いの外生き永らえた仲間もいたと聞く。
一部のディーゼルカーは車体だけが金沢市内でスナックに転身したもの等もあったが、いつしか錆がひどくなり解体されてしまった。今はその姿を見ることは出来ない。

すっかり記憶の彼方となってしまった北陸鉄道能登線だが、採算の苦しい「のと鉄道」存続問題が浮上している中、ふと思い出してしまう存在である。


「道の駅」というものが全国にありますが、福井県には本当の道の駅が存在します。しかもそれは一般道路ではなく、高速道路に存在するのです。いったい何なのでしょう。

次はその道の駅で、かつて繰り広げられた壮絶なドラマの話です。

【予告】これがホントの「道の駅」

−参考文献−

鉄道ファン 1972年3月号 廃止が決定した北陸鉄道能登線
鉄道ファン 1972年10月号 北陸鉄道能登線廃止
鉄道ピクトリアル 1996年9月号 <特集>北陸の鉄道
鉄道ピクトリアル 2001年5月臨時増刊号 【特集】北陸地方のローカル私鉄

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