●後楽園駅の謎
営団地下鉄(現:東京メトロ)で2番目に古い歴史を持つ地下鉄丸の内線。着工は戦後間もなくの昭和26年4月20日だった。
丸の内線は、大正14年に策定された都市計画高速鉄道網が、戦後の昭和21年に東京都の戦災復興計画の一環として改訂されたものに基づき建設されたもので、それは五つの路線で構成されていた。中には既に開業していた銀座線も含まれていたが、今振り返るとなかなか興味深いものがある。
路線名 |
予定区間 |
経由地 |
備考 |
1号線 |
東急目蒲線武蔵小山駅-東武東上線板橋駅 |
五反田、田町、日比谷、本郷3丁目 |
後に計画変更 |
2号線 |
東急東横線祐天寺駅-常磐線北千住駅 |
恵比寿、永田町、九段、浅草橋 |
後の日比谷線 |
3号線 |
東急玉川線大橋駅-浅草 |
(渋谷-浅草間は銀座線で開業済) |
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4号線 |
中野区富士見町-豊島区向原町 |
新宿、四ツ谷、赤坂見附、日比谷 |
現在の丸の内線 |
5号線 |
中央線中野駅-深川区東陽町 |
高田馬場、水道橋、神保町、日本橋 |
後の東西線 |
これを見ると概ね現在の路線に似たものがあるのが判るが、1号線だけは今の営団の最新路線である南北線に似ているのに驚く。
また1〜3号線までの起点はいずれも東急の路線となっている点が注目されるが、これは後に当時東急を率いていた五島慶太が、公職を追放されるまで影響力が強かったことを伺わせるものだろう。また3号線には銀座線を手中に収めることが出来なかった五島の意地のようなものを感じる。
路線の規格はこの時点ではすべてサードレール集電方式で、レールの幅は1,435mm。すなわち銀座線と同じものであり、現在のような既存の郊外路線との直通運転は全く考えられていなかった。これらの中からまず4号線池袋(仮駅)-御茶ノ水間が着工を迎えた(
詳しくはこちらも)。● ● ●
丸の内線の起工式が行われた昭和26年3月30日の翌日、私法人だった営団は公的法人として生まれ変わる必要に迫られ、設立当時に将来の乗り入れを希望して出資した東急・西武・東武・京成の各社が持っていた営団株は営団自身で買い入れられ、部外の資本は国鉄(国)と東京都だけとした。これに前後して「大東急」は解体され京急・小田急・京王帝都が独立、在京の私鉄各社は営団株放出を機会に、地下鉄に進出しての都心部乗り入れを計画した。各社が出願した区間は以下のとおり。
年 |
会社 |
区間 |
昭和23年 |
小田急 |
南新宿-東京駅(のち参宮橋-八重洲口間に変更、東武との連絡を想定) |
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東急 |
中目黒-東京駅、目黒-広尾 |
昭和24年 |
東急 |
渋谷-新宿、五反田-品川 |
昭和25年 |
京急 |
品川-東京駅(のち品川-八重洲通間に変更、京成との連絡を想定) |
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京成 |
押上-有楽町 |
昭和29年 |
京王帝都 |
富士見丘-新宿 |
昭和30年 |
京王帝都 |
角筈2丁目-両国、神楽坂-上野 |
昭和30年 |
東武 |
北千住-新宿 |
しかし各社の出願が相次いだことで収拾がつかなくなり、昭和30年に運輸大臣の諮問機関である都市交通審議会が設立され、この答申により東京の地下鉄路線の5路線が再び決められることになった。
翌昭和31年8月には早くも第一次答申が発表され、これを受けて昭和32年6月に都市計画高速鉄道網が再び改訂となり、1号線は現在の都営浅草線、同じく2号線は営団日比谷線となった。3号線は既に開業していた銀座線で、その起点は渋谷ではなく東急玉川線大橋駅のままだった。
4号線は丸の内線だったがこの頃には既に一部区間は開業済。5号線は東西線で、国鉄中央線・総武線との直通運転もこの時に決まった。
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ところが昭和26年に丸の内線が着工された時、その当時の5号線の計画に沿って池袋-御茶ノ水間には5号線との将来の接続を予定した駅がつくられていた。実はそれが後楽園駅だったのである。結局接続は実現しなかったものの、先行して駅の工事は行われた。
丸の内線後楽園駅の池袋寄りには、日中に電車が停まっているスペースがある。ここはもともと高田馬場方向から走ってきた東西線(5号線)が地上に出た線路だった。駅では丸の内線の御茶ノ水方面行きと東西線の東陽町方面行きが、丸の内線の池袋方面行きと東西線の中野方面行きが、それぞれ同一ホームで乗り換えが出来るように考慮されていた。そして東西線は駅の東側の白山通り手前で再び地下に潜ることになっていた。
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ここが東西線の線路になるはずだった |
予定では両側には東西線の線路が… |
現在の後楽園駅ビル「メトロ・エム」 |
後楽園駅は、開業以来カマボコ型の屋根が特徴の駅だった。そこにはホームの外側にもう1本ずつ線路を敷くことが伺えたが、近年駅ビルが建て替えられ「メトロ・エム」となり、かつての面影はない。そして東西線が来る予定だったという事実を偲ぶものは、駅西側の電車が留まる線路以外は無くなってしまっているが、もしかしたら後楽園駅で丸の内線と東西線の顔合わせが実現していたのかもしれない。
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東西線05系 |
東西線5000系 |
東西線JR301系 |
丸の内線02系 |
丸の内線はその後延伸され、赤坂見附では当初の予定どおり銀座線が東京高速鉄道だった頃の設計を生かして、銀座線との方向別接続が実現した。
一方の東西線も後に国鉄(現:JR)中央線・総武線との直通運転が始まった。東西線の両端、中野と西船橋は営団の駅ではなくJRの駅に乗り入れる格好になっているが、駅の施設はJRなのに東西線のホームだけは営団が管理しているようで、電車が発車する際に流れるサインはJRお馴染みのメロディではなく、営団の「プーーーーー」なのが面白いところである。
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丸の内線後楽園駅は東京ドームの最寄駅として多くの乗客で賑わっているが、かつてこの駅はカマボコ型ドームだった。今は駅ビルに取り込まれているが、後楽園球場が東京ドームとなって「ドーム」というこの駅の歴史が引き継がれた…というのは言い過ぎだろうか。
久しぶりに営団地下鉄の話題を取り上げましたが、やはり原点の「地下鉄銀座線ストーリー」に帰ったような気がします。でも地下鉄にはまだまだ「謎」が潜んでいるのでしょう。
次は初の新幹線からの話題です。
【予告】東海道・山陽新幹線うらばなし(前編)
−参考文献−
鉄道ジャーナル 1974年11月号 特集:東京の鉄道<第二部> 鉄道ジャーナル社
鉄道ピクトリアル 2000年10月号 【特集】鉄道とシームレス交通 鉄道図書刊行会
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