おまたせいたしました。
レイル・ストーリー6、ただいま発車いたします。


●阪急電車の謎

京都・大阪・神戸の三都市を結ぶ路線を中心とする関西の大手私鉄、阪急電鉄。以前京都線の謎について取り上げたが、今回はそれ以外の話題をいくつか拾ってみよう。

阪急のイメージカラーといえば車体の塗装に使われているマルーンだというのが思い浮かぶ。電車の窓枠の銀色と合わさって、とてもシックな装いである。また車内は壁が木目調でシートはグリーン。これらは戦前からずっと阪急の伝統として受け継がれてきたものだ。

阪急梅田駅ビル

また大阪のターミナルである梅田から茶屋町界隈にかけては、阪急ブランドの街と言っても過言ではないだろう。もっとも阪急は創業当初から沿線の宅地開発や、今の宝塚歌劇創設にも取組んだことは有名である。
梅田の中心的役割を担ってきたのは昭和4年に駅を取り込んでオープン、阪急百貨店をキーテナントとした8階建ての阪急梅田駅ビルだった。阪急の「駅とデパートのドッキング」は成功し、この手法を真似て大手私鉄のターミナル駅では殆どが百貨店との共存という形になっていく。長らく梅田の顔として君臨してきたが、現在は改築工事が進められている。

その時の阪急梅田駅は現在の位置ではなく、現在のJR線より南寄りで、現在の阪急グランドビルは元の駅の一部に建てられている。大正15年7月5日に神戸線・宝塚線梅田-十三間の高架化と複々線化が行われた時には梅田駅は高架で造られたが、昭和9年6月1日にはそれまで地平だった省線(今のJR線)大阪駅の高架化と同時に阪急梅田駅の地平化(つまり立場が逆転)が実施され、一夜にして両者の切り替えが行われたという。
以降阪急梅田駅はカマボコ型ドームの駅として親しまれていくことになるが、この頃の阪急の建築物・構造物は実に優美な装飾を兼ね備えていた。それらは今でも数多く残っているが梅田駅は特に豪華なものだったのは良く知られている。また御堂筋口から阪急百貨店1階売場脇を通り梅田駅へと続くコリドールは、かつてホームだった。

阪急梅田駅旧コンコース

ここがホームだったとは

旧コンコース

ここがホームだった

このドーム型の天井のあるところがかつてのコンコースだった場所である。梁はアーチ型にデザインされ、壁の四隅には翼を持つ獅子、鳳凰、青龍、白馬が、その間には日輪(鳥)、月輪(兎)が描かれている。これは阪急の快速性と、昼夜を別たぬ電車の運行を表現したものといわれており、改築によりそれらが見られなくなってしまったのは実に惜しい。

今も重厚な御堂筋口
重厚な御堂筋口

獅子

日輪

鳳凰

獅子

日輪(鳥)

鳳凰

青龍

月輪

白馬

青龍

月輪(兎)

白馬

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昭和18年10月、阪急と京阪は一旦合併(昭和24年12月には分離)、翌昭和19年4月からは新京阪線改め京都線の電車が十三-梅田間を宝塚線経由で梅田乗り入れを果たしている(昭和20年6月から23年8月までは中断)。
戦後は輸送量が大幅に増えたこともあってこの間の京都線の独立が求められていた。昭和34年2月18日には旧北野線(路面区間でかつての宝塚線)の場所を利用して「宝塚線の増設」という形で京都線の線路の増設が完成、三複線が並ぶ壮観な姿を見せた。ただしこの線路には中津駅ホームは設けられず、京都線だけは普通電車でも通過する。

しかしこの区間はあくまでも名義上は宝塚線。事実増設当初は宝塚線の電車もここを走った。また当時宝塚線の電圧は600Vだったのでそれに合わさざるを得ず、新京阪時代から1,500Vだった京都線の電車は電圧が半分以下となってのろのろ運転だったらしい。
この状態は神戸高速鉄道への乗り入れのため1,500V化された神戸線に続き、昭和44年8月24日に宝塚線が1,500Vになるまで続いた。京都線十三-南方間には「無電圧区間」を設け600Vと1,500Vを分け、電車は直通運転していたという。

十三駅を発車していく京都線急行
京都線十三駅の京都方には無電圧区間があっ

現在の阪急梅田駅(京都線改札口)同じ頃阪急は手狭になってしまった梅田駅の混雑と将来の電車増結に悩んでいた。このため阪急百貨店と国鉄線(当時)に挟まれた駅を諦め、国鉄線の北側に駅を移転することにした。昭和42年8月27日に神戸線が新駅に移転、引き続き宝塚線、京都線の工事が行われ昭和48年11月23日には移転完了、10両編成対応の私鉄最大級の駅が出来あがった。これが現在の阪急梅田駅である。通路が長くなるため設置されたムービングウオークは日本初の動く歩道だった。
ホームの下は阪急三番街が造られ、うめだ地下センター(現在のホワイテイ梅田)等の地下街にも直結、新阪急ホテル、阪急イングス、ナビオ阪急(現在のHEPナビオ)、阪急ファイブ(現在のHEPファイブ)等の自社ブランド商業施設で固める今の姿をつくりあげた。

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さて、阪急でも神戸線・宝塚線(略して神宝線という)と京都線(千里線・嵐山線を含む)は前述のように生まれが違っている。現在は一見しただけでは全部同じ電車が走っているように思えるが、実は両者の電車は明確に区別されている。

まず電車といえば当然電装機器が必要である。戦前から阪急の機器は東芝だったが、京都線は新京阪時代から東洋電機を愛用しているのである。この伝統は今でも守られている。またモーターのギアレシオも微妙に違っている。

次に電車の番号。阪急では各形式とも0から番号を与えていたが、新京阪は1から始まっていた。これは戦後現在の阪急がスタートしてからも受け継がれたが、昭和47年にデビューした京都線と堺筋線の直通用冷房車5300系からは、神宝線に合わせ0から付番するようになった。この電車は後に河原町から直通の「堺筋急行」として走り出した。

京都線特急6330系

宝塚線普通6000系

京都線の6330系

神宝線の6000系

京都線・千里線は昭和44年12月6日から大阪市交通局堺筋線との直通運転を行っているが、このためにデビューした3300系からは大阪市との協議で車体寸法が若干変わっている。神宝線の電車とは幅が10cm広く、長さが10cm短くなっているのだ(京都線特急用6300系・6330系は長さがもっとある)。それ以後京都線にデビューした電車もこの堺筋線用の寸法が踏襲されたため、神宝線を走れないのである。
逆に神宝線の電車は電圧の1,500V化以後そのまま京都線への乗り入れが可能となり、昭和45年の日本万国博の時は直通電車が走っていたし、その後神宝線の電車の京都線貸し出しも行われた。また現在は電車の検査等は全て京都線の正雀工場に集約化されているため、神宝線の電車が京都線を走ることがある(この時は回送となる)。

ただしそれよりずっと以前の昭和26年1月6日には複電圧対応に改造された4両により京都-神戸間に、続いて京都-宝塚間に直通の特急を走らせたという記録が残っているが、肝心の直通客は少なかったようで同じ年の10月10日で運転を終了しており、その後復活しなかった。

数年前に引退した先代京都線特急車の2800系は堺筋線直通以前につくられたため、神宝線と同じサイズだった。お別れ運転では最初で最後の神戸行きが実現したが、今の京都線特急車6300系が引退する日が来ても、それはどうしても実現不可能な話なのである。


鉄道各社共通のストアードフェアカード「スルっとKANSAI」は、阪急の「ラガールカード」に始まり、方式は少し異なりますが関東にも「パスネット」が生まれました。自動改札の実用化も阪急が先駆でした。阪急は鉄道界のリーダー的存在の一つと言えるでしょう。

次は港町神戸からの話題です。そして最終回となります。

【予告】神戸港に鐘は鳴る

−参考文献−

鉄道ピクトリアル 1998年1月号 <特集>旅客ターミナル 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 1998年12月臨時増刊号 <特集>阪急電鉄 鉄道図書刊行会
関西の鉄道 2000新緑号 阪急電鉄特集PartW 神戸線・宝塚線 関西鉄道研究会

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