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レイル・ストーリー5、発車いたします


 ●名車『OSカー』の話

長野市を中心に須坂、中野など県下の中核都市、志賀高原の玄関口湯田中温泉や木島を結ぶ路線を形成する長野電鉄(以下略して長電)。地方私鉄ながら地下区間があったりで、なかなかの実力派だ。特に長野-須坂間の長野線はメインライン的存在。

冬季オリンピックの舞台ともなった長野市は、古くから善光寺の門前町として栄えたのは有名な話。しかし市街の西部は山がそびえているという地形のため、当然街は東へと広がっていった。ところが既存の長電長野線は市を東西に分断する形になってしまい、戦後のモータリゼーションでクルマは増え続け、市内中心部にあった20箇所にも及ぶ踏切が交通のネックと化してしまったのだ。

昭和39年、長野市、長野県は長電長野線の連続立体交差化の方針を打ち出す。当初高架化の予定で話が進められたが、長野という積雪地区での高架化に疑問が持たれ、長野線を地下化して跡地に道路をつくり、交通渋滞の緩和も図ろうという案が具体化し始めた。そして昭和48年、長電長野線の長野-善光寺下間2.3kmを地下化する事が決定した。これは地方都市としては奈良市の近鉄奈良線が昭和44年にそれまでの油坂-奈良間の路面区間(併用軌道)を改め、同時に道路を拡幅、近鉄奈良駅の地下化を実現したケースに続くもので、画期的だったことは言うまでもない。

事業決定に伴い、昭和50年には長電長野線の地下化工事が始まった。工事はオープンカット工法で進められ、昭和55年11月には地下区間の試運転が開始された。昭和56年2月28日には無事工事は竣工、翌3月1日からは営業運転開始の運びとなった。この地下区間には、長野、市役所前、権堂、善光寺下の4駅が設けられ、駅の壁面は各々テーマカラーに彩られた。長電長野駅はながの東急(デパート)と直結されていっそう便利になった。長野線の跡地は後に長野大通りとして整備され、長野市の中心を南北に貫く幹線道路になった。

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ところが長野線の地下化が現実味を帯びてきた頃、長電には地下線を運転出来る不燃構造の電車が存在しなかった。唯一特急用で名鉄5000系と同じタイプの車体を持つ2000系の12両が、若干の改修で対応するという程度だった。これではせっかく地下線が出来ても意味がない…。

しかも長電の問題はそれ以前からあった。長野地区のローカル輸送を担う長電では、昭和30年代後半から輸送力の不足がクローズアップされていた。利用客からの苦情が相次ぎ、改善を要求されるまでになっていたからだ。

これを受けて長電は昭和40年初頭に新車の計画をスタートさせた。
それは「せっかく新車をつくるのだから、今までの電車にこだわらず予算の許す限り理想的なものにしよう」という意気込みだった。

長電0系「OSカー」

それまで長電の電車は地方私鉄お決まりの、長さ18mでドアは二つか三つというスタイルだったが、長電はそんな既製概念を放棄し、長さ20mでドア四つという、大手私鉄や国鉄の通勤型電車と同じものにした。電車は2両編成だったが、収容力はそれまでの旧型車3両分に相当するものであった。またラッシュ時には4両編成にしてさらなる輸送力強化も図った。このような大型の電車を新製するというのは地方私鉄では当時例がなく、その先見性と独自性は今でも語り継がれているほどだ。

その電車は将来の長野線地下化も視野に入れて設計され、「Officemen & Students Car」という名が与えられた。これを略した「OSカー」という名でずっと親しまれていくことになる。

翌昭和41年、2両編成2本の4両が長電に納入された。OSカーのデビューである。

OSカーのユニークさはそれだけではなかった。製造を担当したメーカーの提案で、前面はFRP製となったのだ。当時FRPを電車の車体材料に使うのは京王井の頭線の3000系が前面の上半分に使ったのが最初で、そのFRP部分は編成毎に色が変えられ「ステンプラ」の名で親しまれていたのは有名。

京王3000系「ステンプラ」
京王井の頭線3000系

長電OSカーはFRPを前面全てに採用した。これは万一の事故の際に復旧を容易にするためという目的もあったらしいが、OSカーの複雑な前面の造形には、FRPは最適な材料だったとも言える。
また長電はそれまで茶色一色の地味な塗装だったが、このOSカーからは今のベージュと赤の明るい塗装になり、これは長電バスも含めた今で言うCI導入の一環にもなったという。

デビューしたOSカーはたちまち威力を発揮し始めた。ただし車体の中央部につけられたステンレス製の社紋は、冬の寒さのせいかポロリと雪の中に落としてしまったが、春になって見つかりめでたく元の位置に戻ったという話も残っているらしい。

FRP製の前面

無事戻った?社紋

FRP製の前面

無事見つかったという車紋

こんな魅力あふれるOSカーは、昭和42年には鉄道友の会の「ローレル賞」受賞という栄冠を得た。

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長電長野線の地下化が具体化し始め、いよいよ「地下線対応車」としてOSカーの仲間は増えるように思えた。しかし長電の輸送量はOSカーのデビュー当時よりもずっと減り、とても新車を増やすほどの経済力がなくなってしまった。OSカーの増備は、一旦この4両で打ち切られてしまったのである。地下線対応車は新車ではなく、他社を引退した中古電車を大量購入して補うことになった。
ようやくOSカー2両が増備されたのは昭和55年のことで、これは車体こそ20mだがドアは三つに変更され、前面のスタイルもドアがなくなるなど大幅マイナーチェンジとなってしまった。

その後、冬季オリンピックが長野で開催されることが決定したが、乗客数が年々少なくなった長電は、普通電車のワンマン運転をはじめとした合理化を行うことにした。それに以前地下線開業のために他社から購入した電車も老朽化し、これを機会に特急以外の電車を入れ替えることが決まったのである。その時、昭和41年製造のOSカーは引退が決まってしまい、昭和55年製造のOSカーも平日朝の須坂-長野間一往復以外は須坂の車庫でお昼寝という、事実上引退に近い形になった。特急電車の2000系は昭和32年から38年の製造でOSカーよりも古いというのに…。

オリンピック開催を前にした平成8年12月、41年製の初代長電OSカーは引退した。長電にとって画期的電車だった初代OSカーの最期は、あっけないものであったのかもしれない。

長電須坂駅には、初代OSカーが引退後も現役時代さながらの姿で残されていた。長電の歴史の中でOSカー抜きには語れないのは事実。そこにOSカーの功績を知ることが出来るが、残念ながら平成14年8月に解体されてしまい、現在その姿を見ることは出来ない。また殆ど仕事の無かった昭和55年製造のOSカーも、冷房搭載とワンマン化改造が困難という理由から、平成15年3月2日をもって引退した。

須坂駅に佇む初代OSカー
長電須坂駅に佇んでいた頃のOSカー


長電OSカーは悲運の名車なのかもしれません。さて長電長野線の地下化を実現した他社を引退した中古車も、これまた名車だったのですが、その名車に決まるまでに別の名車が名乗りをあげたという話も…。

次はその電車の話です。

【予告】赤ガエルは難産だった?

―参考文献―

鉄道ジャーナル 1973年5月号 私鉄名車物語C 長野電鉄OSカー 鉄道ジャーナル社
鉄道ジャーナル 1981年5月号 長野電鉄の地下区間が営業を開始 鉄道ジャーナル社
鉄道ファン 1997年12月号 長野電鉄の赤ガエルとOSカーの今 交友社

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