Rail Story 15 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 15 

 強者たちの足跡

昭和38年9月29日をもって碓氷峠のアプト式は廃止された。廃止後、レールなどの設備は撤去されたが、トンネルや橋梁などの構造物はそのままにされていた。
線路の跡はすっかり草生していたが、北陸新幹線の開業による信越本線横川-軽井沢間の廃止が現実味を帯びてくると、鉄道施設としてのアプト式遺構の存在がクローズアップされるようになった。確かに明治期の土木技術を今に伝える貴重なものであることは確かで、同じ群馬県には富岡製糸場もあることから、文化財的な価値を認める声が強くなってきていた。
平成2年から3年にかけて、群馬県は県内の近代化遺産の調査を開始する。翌平成4年には調査報告書が出来上がり、これを基に文化庁は平成5年8月17日、アプト式遺構(以下旧線)のうち5つの橋梁を重要文化財「碓氷峠鉄道施設」に指定、翌平成6年12月27日には丸山変電所やトンネルなども追加指定を受けている。

現在、旧線のうち横川駅から途中の第三橋梁、通称「めがね橋」までが遊歩道「アプトの道」として整備され、その険しさを感じることが出来る。このうち横川駅から丸山変電所跡の少し先に出来た「峠の湯」までは旧線と新線が並行していたため、元の旧線である新線の下り線の線路が撤去されて遊歩道に充てられた。

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旧線の遺構を訪ねてみよう。横川駅前にある側溝の蓋はグレーチングではなくラックレールが今も使われている。ラックレールには機関車の歯車がつけた痕がそのまま残っており、いかに強い駆動力が掛かっていたかを物語っている。また横川駅の北側、諏訪神社の隣には、かつて火力発電所があった頃に使われた大きな水槽がそのまま残されていた。

横川駅 側溝の蓋はラックレール 生々しい跡 貯水槽跡
現在の横川駅舎 側溝の蓋はラックレール 痕が残されている 火力発電所の貯水槽跡

横川にあった機関車の車庫や庁舎、職員の官舎は整理され、現在は「碓氷峠鉄道文化むら」となった。車庫とその周辺は碓氷峠で活躍した機関車や電車などが展示され、庁舎では資料展示やグッズ販売が行われている。また官舎跡には国鉄時代から保存されていた各地の車両が置かれている。ここから新線の上り線を利用したトロッコ列車「シェルパくん」が丸山変電所跡を経て峠の湯までを往復しており、回遊性を高めている。またEF63形電気機関車を実際に運転操縦体験出来るのは有名だ。

国道18号線の旧道を進んでいくと、国道はかつての坂本宿を経由して遊歩道から少し離れて進むが、峠の湯入口を過ぎると国道は急カーブとなり、いよいよ峠道に差し掛かった辺りで旧線が寄り添う形となる。すぐに第一トンネルの入口が国道の下を通っている(以下横川側を入口、軽井沢側を出口と記する)。

第一トンネル 第二トンネル
第一トンネル入口 第二トンネル出口

やがて人造湖の碓氷湖が見えてくる。国道から湖畔へ降りる道を行くと第二トンネルの出口が見える。国道に戻ると第三トンネル入口から先はしばらく旧線が見えなくなるが、やがて前方に通称「めがね橋」の第三橋梁がその威容を誇っている。

第三橋梁 セントル跡 橋の上は遊歩道 ラックレールを再利用した
第三橋梁(めがね橋) 仮設支保工の跡 橋の上は遊歩道 ケーブルラック

現在遊歩道として整備されているのはここめがね橋までで、遊歩道を訪れる人のために旧道を経由する横川駅や軽井沢駅からのバスも観光シーズンには運転されている。国道から橋までは階段が出来ており上り下りは容易だ。橋からの眺望は見事だが、その勾配の強さに改めて驚くことだろう。また橋の南側には、不用となったラックレールを利用した電気ケーブルの架台が見られるが、これは変電所からサードレールに電気を供給するための電線(き電線という)を設置するためだったそうだ。なお、橋の下部にある石の突起は装飾ではなく、セントルと呼ばれる仮設用の支保工の名残だという。

第六トンネル 新線碓氷川橋梁
第六トンネル入口 新線碓氷川橋梁

橋の軽井沢側はすぐに第六トンネルの入口がある。今はバリケードがされているが、近い将来遊歩道は熊ノ平まで延長される予定で、整備工事も行われているようだ。第三橋梁からは新線の碓氷川橋梁がそのまま残っているのも見える。ちなみに第六トンネルは旧線で最長、途中には蒸気機関車時代に煙を排出するための穴が設けられていた。

国道に戻ると、見えてくるのが第五橋梁だ。スパンが短いのでアーチの内側が補強された状況が判る。対照的にもう少し先の第六橋梁は唯一補強が行われなかった橋で、優美な姿を見せている。
その少し先には熊ノ平駅(アプト式開業当初と新線開業後は信号場)の跡があるが、国道からは直接見ることは出来ない。峠のほんの僅かな水平部分を利用してつくられた熊ノ平駅だったが、駅の前後はトンネル。アプト式時代の途中でホームの長さが足りなくなったのでギリギリまで延長した結果、線路の両側に短いトンネル(突込線)を別に掘り、ようやく停車出来たのだという。アプト式廃止後、国道から業務用トラック等が入れるようレールを撤去した突込線の一つを国道へ延長してある。もちろん一般車は進入禁止で、通常は柵がされている。

第五橋梁 第六橋梁
補強の状況が良く判る第五橋梁 補強されなかった第六橋梁

熊ノ平から軽井沢側の旧線は、殆どが新線の上り線。に改築・転用されていて遺構は少ない。アプト時代の昭和28年に改築された第十一橋梁はそのまま新線でも使われた。一部線形の改良が行われた関係で第十六トンネル出口から第十八トンネル入口までが国道沿いに当時を偲ばせている。

第十一橋梁 第十六トンネル 第十七トンネル
新線でも使われた第十一橋梁 第十六トンネル出口 第十七トンネル出口

第十七トンネルを出ると、旧線は第十三橋梁を渡る。国道18号線は現在少し離れたところを通っているが、かつてこの橋の下を国道はヘアピンカーブを描いて二度潜っていた。実はこの第十三橋梁がもともと「めがね橋」を名乗っていたようで、国道が改良されて第十三橋梁の下を通らなくなってからは、第三橋梁が代わって「めがね橋」と呼ばれるようになったという。
第十三橋梁の先はコンクリートで蓋がされた第十八トンネルの入口で、新線(上り線)が分岐している。

第十三橋梁 その先は新線と合流 今にも列車が来そうだ
第十三橋梁 第十八トンネル内で新線が合流 今にも列車がやって来そうな新線(上り線)

国道はここから先は旧線より少し高いところを行く。峠を登りきるとそこには突然軽井沢の街並みが広がっている。関東平野の先端から高原へと登る険しい道、それが碓氷峠なのだ。
そのサミットともいえるのが、かつて二度のトラブルを起こしたバーチカルカーブのある矢ケ崎で、軽井沢駅までは800mしかない。軽井沢駅舎は新幹線開業を期に建て替えられたが、元の駅舎はかつての高原の玄関口の趣もそのまま、駅舎記念館として保存されている。

矢ケ崎信号場跡 軽井沢駅は近い 軽井沢駅舎記念館
矢ケ崎信号場跡 ゴールの軽井沢駅は目の前 保存されている軽井沢駅舎

軽井沢駅構内にはアプト式初の電気機関車10000形(EC40形)と共に、横川-軽井沢間最期の日に仲間と共に手を取りやって来たEF63形電気機関車の2号機がまるで今にも峠へと向かうような、国鉄時代から変わらぬ雰囲気を構内も含め漂わせている。傍らからは第三セクターとなったしなの鉄道の電車が発着し、その向こうの一段高いところには新幹線『あさま』が静かに出入りしている。碓氷峠の歴史と時代の移り変わりを鮮明に映し出す光景だ。

軽井沢駅のEF63 2号機 10000形電気機関車
軽井沢駅のEF63形電気機関車 こちらは10000形電気機関車

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ここでアプト式の電化時代を築いた機関車達の引退後に触れてみよう。

10000形(EC40形)電気機関車は昭和11年4月に廃車となったが、うち2両は昭和16年4月に京福電鉄福井支社(現在のえちぜん鉄道)に譲渡され、翌昭和17年4月にテキ511形として再起した。ラックレール用の駆動装置が取り外され身軽になったことから、特徴あるボンネットの片方を取り去りデッキとしている。このうちテキ511号は昭和39年2月17日に役目を終え、国鉄大宮工場に戻って10000形への復元が行われた。8月には復元が成り、軽井沢駅で保存される。もう1両のテキ512号はそのまま福井で働き続け、昭和45年7月15日に廃車となるまで生き永らえた。

ED40形電気機関車は、戦時中に南海鉄道(現在の南海電鉄)への譲渡が行われ、戦後も引き続き東武鉄道や駿豆鉄道(現在の伊豆箱根鉄道駿豆線)に譲渡されていく。その中で12号機だけは昭和25年11月23日に10000形同様に北陸へと移動、富山港線(現在の富山ライトレール)へと移り国鉄内での再起を果たしたが、あまり活躍の場がなかったのか2年後の昭和27年6月に廃車となる。
南海では出力の割に車体が重く運転台も片方だけでは貨物列車の牽引に向かなかったようで、汐見橋駅などで戦後まもなくまで貨車の入換に使用された程度だったようだが、1両は東急碑文谷工場でボンネットスタイルに改造され秋田中央交通で昭和29年8月に一生を終えた。また駿豆鉄道に移ったものは運転台を両側に設け、足回りも改造がなされたが後に岳南鉄道に移籍、11号機だけが昭和47年まで残った他は昭和27年に廃車となった。
いっぽう東武鉄道では日光軌道線で使われ、路面区間で貨物列車を牽いてのんびり走っていた。運転台が片方のまま使用されたので、運転台のない方を先頭にした時は車掌がステップに乗って先導したという。この仲間の内10号機は昭和43年8月に国鉄に寄贈されて大宮工場で復元、以後大宮工場内に展示されていたが現在は鉄道博物館でアプト式の仕組を今に伝えている。

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軽井沢駅前に、一つの石碑がある。明治26年4月1日に信越本線横川-軽井沢間が開通したのを記念して建てられた「碓日嶺鉄道碑」で、その碑には高崎と直江津から進んできた信越本線が碓氷峠を越すエピソードや苦労などが漢文体で書かれている。現在建っている碑は実はレプリカで、昭和15年に元の碑の拓本を手本に少し小さくして建て直したものだ。
当初建てられたものは関東大震災で倒壊してしまい、その後放置されやがて草むらに埋もれてしまっていた。そのまま戦後になり昭和29年に当時の横川保線区長だった小山五郎が哀れ三つに割れてしまっているのをたまたま発見し、その年の11月3日に熊ノ平で再建している。碑はモルタルで接合され、背部をレールで補強して現在も建っている。旧線跡の遊歩道「アプトの道」が熊ノ平まで延長されれば、こちらも目にすることが出来るだろう。

碓日嶺鉄道碑
軽井沢駅前にある碓日嶺鉄道碑

横川にある「碓氷峠鉄道文化むら」の中には、かつてアプト時代に駆動力を伝えたラック式歯車とラックレールで出来た「刻苦七十年碑」がある。ここは碓氷峠でシェルパを務めた機関車達の車庫だった場所だ。
アプト式は導入以来、試運転での失敗や事故、思うに任せない輸送力向上など、職員の努力は計り知れないものがあっただろう。それが通常の運転方式になり、ようやくその苦労から解放され安全に寄与することが出来た。昭和38年11月30日、当時の国鉄総裁からの表彰を受けて建てられたのがこの碑である。碑の文字は当時国鉄高崎鉄道管理局長だった赤木渉によるものだという。

刻苦七十年碑
現在は碓氷峠鉄道文化むらにある刻苦七十年碑

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刻苦。その言葉が碓氷峠の全てを物語っているだろう。この地に鉄道を敷き、ずっと長い間勾配と闘ってきた鉄道員の姿そのものである。その鉄道は使命を終え新幹線に全てを託したが、その新幹線でさえ碓氷峠を直接征することは出来なかった。

いっぽう碓氷峠の鉄道建設に大きな影響を与えた国道だったが、戦前から舗装が行われるなど改良が進められてはいたものの、184箇所ものカーブと勾配で難所には違いなかった。昭和41年7月、横川から軽井沢の先、追分付近に至る「碓氷バイパス」が着工され5年後の昭和46年11月に開通した。カーブは48箇所に抑えられたが、そのルートは中尾川沿いではなく入山峠となった。かつてボイルが計画した入山峠を緩勾配で越す案に近いルート選択である。峠を越した軽井沢では旧中山道に合流せず南軽井沢を通っているが、信越本線がもしも入山峠案をが採択していたら軽井沢駅も現在の場所ではなく南軽井沢に出来ていただろう。信越本線の軽井沢駅が当初仮駅だったのは、この理由があったからだ。
また、信越本線横川-軽井沢間廃止後に走り始めた代替バスも、この碓氷バイパス経由での運行となった。旧道での運行は行楽シーズンや軽井沢での渋滞時に行われた程度である。

また平成5年3月27日に藤岡IC〜佐久IC間が開業した上信越自動車道も、碓氷峠でなく和美峠に近いルートを選択した。横川SA付近から丸山変電所付近や旧坂本宿を見下ろす巨大な斜張橋から南へと進み、和美峠の少し南の八風山トンネルで峠を越している。なお平成11年10月30日に上信越自動車道は全線開通した。

上信越自動車道の大きな斜張橋
信越自動車道の大きな斜張橋

こうして現在の碓氷峠は、国道18号線旧道だけが静かに我々を迎えてくれるが、今や公共交通機関は行楽シーズン限定の「めがねバス」だけになってしまった。
現代の最新技術を持ってしても、なお人を寄せ付けない険しい峠。信越本線は「分断」という結論を見てしまったが、かつてボイルやパウネルが提唱した緩勾配案を採択していたらどうなっていたであろうか。他の地方幹線に見劣りしない輸送力を備え、交通機関としてもっと大きな地位を得ていたことは間違いないだろう。アプト式の採用は成功だったとは必ずしも言えず、また通常方式になっても輸送力は上がらなかった。工費圧縮のためとはいえ二度同じ「近道」を選んでしまった結果だった。

碓氷峠はこうして、人間と自然との長い闘いを教えてくれている。


自然は偉大でした。鉄道も道路もその険しさに破れ、戦いに終止符を打ったのです。また人の叡智は長い時間をかけ、確かな裏づけの上に成り立つものだと改めて知った次第です。

次は、華やかな活躍の場から追われ、安住の地を得た電車の話です。

【予告】 スターの転身

―参考文献―

鉄道ファン 1997年9月号 特集:信越本線 EF63 交友社
鉄道ピクトリアル 1993年1月号 <特集>碓氷峠100年 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 1996年11月号 <特集>信越本線 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 2009年1月号 <特集>勾配に挑む鉄道 鉄道図書刊行会
RM LIBRARY 39 碓氷峠の一世紀 運転史から見た横軽間の104年(上) NEKO PUBLISHING
RM LIBRARY 40 碓氷峠の一世紀 運転史から見た横軽間の104年(下) NEKO PUBLISHING
鉄道ピクトリアル 2006年3月号 峠を下りたシェルパ列伝

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