Rail Story 15 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 15 

 闘いの果てに

信越本線に特急列車が走り出したのは昭和36年10月1日の大阪-上野・青森間『白鳥』だった。当時は運転区間の大部分が未電化、キハ82系「ディーゼル特急」が奏でる近代化の槌音は、さぞ明るいものがあったに違いない。

特急『白鳥』アプト式の廃止により特急『白鳥』のシェルパはEF63型電気機関車に代わった。直前の昭和38年4月20日には6両編成から7両編成に増強されていたが、昭和39年12月25日に北陸本線に電車特急『雷鳥』がデビュー、大阪-上野間『白鳥』は大阪と北陸を繋ぐ役割を『雷鳥』に任せて昭和40年10月1日からは金沢-上野間特急『はくたか』と改め、増結が望まれていた大阪-青森間『白鳥』と分離独立する。
この時点ではまだ信越本線は長野-直江津間が電化されておらずキハ82系ディーゼルカーが真価を発揮していたが、昭和41年8月24日の電化、続く10月1日に181系電車特急『あさま』が上野-長野間に運転を開始して信越本線に本格的な電化時代がやってきた。全国に特急列車が大増発されたヨンサントウこと昭和43年10月1日に『あさま』は3往復となり、うち1往復が上野-直江津間にも走り出す。

しかし翌昭和44年10月1日、『はくたか』は北陸本線糸魚川-直江津間、信越本線直江津-宮内間の全線電化によるダイヤ改正で上越線経由に飛び去ってしまう。北陸と東京を結ぶルートは既に東海道新幹線経由はあったものの、当時米原経由では『雷鳥』『しらさぎ』の本数がまだ少なく、接続する新幹線も米原は『こだま』しか停車しなかったので、所要時間も長くポピュラーとはいえなかった。むしろ昼行・夜行を問わず特急『はくたか』を始めとする信越・上越ルートが乗り換えもない事もあって好まれ、『はくたか』は電車化によるスピードアップと同時に『雷鳥』『しらさぎ』と共通で11両編成の485系電車を用い、輸送力を上げなければならなかったが、同時に信越本線の列車から食堂車が消えてしまった。

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いっぽう信越本線の急行列車は、電車が躍進を続けていた。昭和40年10月1日には『信州』『志賀』『とがくし』など8往復を数え、すっかり信越本線の主力列車となっていた。この時点で上野-直江津間1往復はディーゼルカーのまま残っていたが、直江津までの電化を受けた昭和41年10月1日ダイヤ改正で電車化され『妙高』2往復に生まれ変わり、この時新設された特急『あさま』より一歩先んじた。電車急行は『あさま』を凌駕する10往復に成長する。もっとも当時、全国的に見ても特急は看板列車的存在でありまだまだ急行が幅を利かせていたが、碓氷峠での制限のため8両編成に抑えられてしまうので他線の12両編成と比べ輸送力は不足がちだった。
そこで考えられたのが「協調運転」。峠では電車も客車や貨車同様、登る時も降りる時も全てをEF63型電気機関車に委ねていたが、登坂時は機関車と共に力行し、降坂時は機関車と共に電気ブレーキを併用して、各々パワーの一部を電車にも負担出来ないかというものだった。これは既に機関車には8両分までのパワーを有しているので、電車は都合残り4両分を負担するだけでよい。早速輸送力の必要な電車急行に導入することになり、165系を改造して試験が行われた。試験の結果は上々で、昭和43年10月1日からは協調用に製造・改造された169系による急行が堂々12両編成で運転を開始した。列車にはビュフェ車も連結され、また列車名は上野-長野・湯田中間急行が『信州』(翌昭和44年10月1日から上野-湯田中間のみ『志賀』)、上野-直江津間急行が『妙高』に統一された。

『信州』などの169系急行形電車 電車と機関車を結ぶケーブルがズラリ 『白山』の489系特急形電車
協調運転用急行電車169系 EF63形電気機関車の連結部 特急『白山』の489系

こうなると特急電車も12両化出来ないかという気運が高まった。『はくたか』が上越線経由となってしまってからは、戦前からの歴史を持ち、信越本線経由で北陸と東京を結ぶ昼行列車では唯一となった客車急行『白山』のスピードアップが急がれ、一時は電車急行にという話もあったが、特急に格上げし電車化するのと同時に直通旅客の多さもあり懸案の12両編成化が決まった。機関車との協調の手法は急行電車の169系とほぼ同じで、『雷鳥』の485系をベースに489系が製造される。早期に出来上がった車両は『白山』での運転開始前には暫定的に北陸線系統のみならず山陽線特急にも足跡を残し、他の485系が11両編成だった中で、12両編成の489系は重宝されたという。
山陽新幹線岡山開業の昭和47年3月15日、晴れて489系電車特急『白山』が上野-金沢間にデビュー、181系の『あさま』に伍して12両編成での活躍を始める。食堂車も復活し、他線の特急とまったく引けを取らない姿になった。1往復ながら『白山』の輸送力は絶大なものがあったようで、11月24日には早くも2往復に。翌昭和48年10月1日には3往復に増え、間合いに『あさま』(ただし食堂車は非営業)にも使われるようになる。増発された『白山』の食堂車には、中央線特急『あずさ』の181系から2両が改造されて仲間入り。車体の断面が微妙に異なり、また登山道の道標を模したレジカウンターの仕切りはそのまま残されていた。

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北陸新幹線は昭和48年11月13日に整備新幹線として運輸大臣(当時)から建設指示が出される。しかしオイルショックが世間を騒がせたのもちょうど同じ頃。国鉄の財政も最悪の時期を迎えており、建設計画は事実上宙に浮いてしまう。

時を同じくして『あさま』に活躍してきた181系電車には一度に疲れが見えてくる。『あさま』としてのデビューこそ昭和41年だったが、仲間には既に昭和33年の東海道本線特急『こだま』以来活躍を続けてきた車両も含まれ、度重なる改造などもあってか疲れは予想を超えていた。冬場の大雪シーズンには同じ181系の上越線『とき』は戦列を離れるものが続出、運休が相次ぐ。これは『あさま』とて同じで、新幹線計画は具体化を見せず、この際新造車を投入して8両編成に抑えられてきた181系を引退させ、急行用の169系、『白山』の489系同様碓氷峠で協調運転を行い輸送力を上げる事が決まった。昭和50年6月24日に10両編成の新車189系が『あさま』5往復にお目見え、続く昭和53年10月2日からは12両編成に増強、『あさま』8往復を担当するようになる。この時信越本線から181系は引退し、中央本線『あずさ』にも使われていた181系を含め、状態の良いものが選ばれて『とき』で上越新幹線開業まで走りぬいた。

『あさま』用の国鉄189系電車 上越線特急『とき』の181系電車
『あさま』に投入された189系電車 『とき』に集結した181系電車

その頃『白山』の最大の悩みは「体力不足」。12両編成だったがモーターの付いている車両は6両、あとの6両はモーターのないトレーラー。ひとたびトラブルを起こしてモーター車の割合が落ちてしまうと、勾配の少ない北陸線系統では問題はなかったが信越本線長野-直江津間は妙高高原を挟む峠道の連続で、やむなくEF62型電気機関車の救援を仰ぐことも少なくなかったという。時にはトラブルを抱えて金沢から上野に向かった『白山』と、トラブルを起こさず上野から金沢に向かった『白山』とを、直江津で車両交換する離れ業も披露したとか。
特にダイヤの乱れる事が多い冬場に『白山』のトラブルが重なると信越本線はガタガタになってしまう。これは国鉄内部でも問題となっていて、『あさま』が全て189系化されたのと同時に『白山』はモーター車を8両に増強、トラブルが起こっても運転に支障がないようになった。この時『白山』から食堂車が消えてしまった。食堂車は奥羽線特急『つばさ』用に改造される。

特急『あさま』『白山』が信越本線の主力となっていく中で、最大11往復を数えた電車急行『信州』『妙高』は設備の差が乗客から嫌われるようになり、昭和53年10月2日のダイヤ改正でビッフェ車が外され、のち『あさま』格上げと置き換えに本数を減らしていく。
東北・上越新幹線大宮開業の昭和57年11月15日のダイヤ改正では、『あさま』が13往復となる反面、電車急行は『信州』5往復と一気に寂しくなってしまう。うち1往復は季節列車で、あとの4往復は定期列車とはいえ軽井沢-長野間は快速にされてしまった。そんな中『白山』には『つばさ』から食堂車が帰ってきた。
こうして特急時代を謳歌した信越本線だったが、それは短い期間に過ぎなかった。昭和59年2月、信越本線の直通貨物列車が廃止される。普通客車列車の電車化も進みスルー運転用のEF62形電気機関車の多くは職を失い、東海道・山陽本線の荷物列車に活路を求めたが、本来の活躍ではなかった。

EF62形電気機関車
東海道・山陽筋へ転身したEF62形電気機関車

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昭和60年11月14日、東北・上越新幹線が上野開業を迎え、『白山』は直通旅客が上越新幹線へ遷移するため1往復が廃止され、残る2往復も編成は9両に短縮、食堂車が外された。以後『白山』に食堂車が復活する事はなかったが、これは全国的な傾向で『白山』だけではなかった。ちなみに外された食堂車の中には、のちに上野-札幌間特急『北斗星』の食堂車に生まれ変わった1両が含まれていた。
この時、代わって『あさま』が15往復となるが12両での運転は5往復にされ、残りは9両編成になる(ハイシーズンは12両で運転)。いっぽう電車急行は『信州』が全て廃止となり、夜行の『妙高』を客車列車から電車に置き換えた1往復だけとなってしまった。
またこの頃、特急列車の短編成化によりグリーン車が余剰気味となり、その車両を有効利用して碓氷峠をEF63形電気機関車のサポートなしに走る187系が『あさま』用に計画された。9両編成のうちモーター車が8両、残る1両はハイデッキとした展望サロンカー(グリーン車)となっており、峠を自力で登坂出来るようローギアード化した足回りを持ち、安全に降坂するためのブレーキや特殊装置を充実させることになっていた。

これは碓氷新線が出来たばかりの昭和38年7月、晩年かぼちゃ電車と呼ばれた115系電車で峠の自力走行試験を行い成功した実績もあったようだ。187系は横川・軽井沢両駅での電気機関車の連結や切り離しの時間を省き所要時間の短縮を狙う予定だったが、高崎線内での最高速度は120km/hから110km/hにダウン、改造費が高くつく割には時間短縮効果は僅かと判り、計画だけで終わったという。結局余剰のグリーン車は東京発着の東海道線や総武快速・横須賀線に転用され、車体の塗装こそ合わせたが寸法がまるで違い、デコボコ編成が生まれた。

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何の進展も無かった北陸新幹線だったが、昭和57年3月3月30日に一旦高崎-小松間のルートだけが公表される。しかし同じ年の9月24日の閣議で工事そのものの凍結が決定、またも計画はストップしてしまう。
その後昭和60年12月25日、高崎-小松間の工事実施計画認可申請が出され、国鉄の分割民営化直前の昭和62年1月30日には整備新幹線計画の凍結が解除される。北陸新幹線計画は再び動き出した。3月1日、国鉄はJRに生まれ変わり、整備新幹線計画は運輸省(当時)とJR各社からのヒアリング開始に持ち込まれた。この年の12月17日にJR東日本が提出した意見書に書かれていたのは「信越本線横川-軽井沢間の廃止」。地元にとって寝耳に水だった。

意見書によると新幹線開業後の横川-軽井沢間の旅客需要は1日あたり170人程度、特殊区間のため年間10億円の赤字を計上しており、バス転換が妥当という線を打ち出していた。地元との協議が平行線を辿る中、平成元年1月17日、年度内の北陸新幹線着工と引き換えに信越本線横川-軽井沢間の廃止が整備新幹線建設促進委員会で正式に決まってしまった。
続く8月2日、北陸新幹線高崎-軽井沢間が着工される。軽井沢までとされたのは、当時は財源問題もあり時間短縮効果の高い区間が優先着工されたためで、軽井沢-長野間は山形新幹線のように在来線を新幹線規格なみに改築するミニ新幹線方式となっていた。残る区間については犀潟-六日町間の北越北線が第三セクターの北越急行線として建設再開されていたこともあり、糸魚川-魚津間、高岡-金沢間だけを青函トンネルのように新幹線規格でありながら在来線の列車を走らせる、スーパー特急方式として建設されることになっていた。現在の特急『はくたか』が一部区間のみ新幹線を走行する形だった。

JR時代の『あさま』北陸新幹線が徐々に具体化していくのを尻目に、信越本線では特急『あさま』がなおも勢力を広げていた。昭和61年11月1日には全列車9両編成ながらも17往復に成長、夜行急行『妙高』も受け持つことになり、169系が碓氷峠を越える急行から撤退した。『白山』はそのままだったが車庫での合間に『ホームライナー』としても走り始める。『あさま』はJR化後の昭和63年3月13日には18往復に、うち8往復は11両に増強され、平成2年3月10日のダイヤ改正で『あさま』は上野-長野間2時間39分、『白山』は上野-金沢間5時間57分の最速記録を打ち立てる。
しかしそれもつかの間、平成4年3月14日に『白山』1往復が北越急行線を介して上越新幹線に接続する特急『かがやき』に立て替えられて元の1往復に戻ってしまい、スピードもダウン。代わって『あさま』が19往復となる。翌平成5年3月18日、夜行急行『妙高』は廃止された。

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平成3年6月15日、第18回冬季オリンピックの開催地が長野と決まった。高崎-軽井沢間のみフル規格で建設されていた北陸新幹線だったが、観客輸送の事もありぜひ長野までフル規格にならないかと地元からの要望が上がるのは当然だった。この年の8月22日に軽井沢-長野間はフル規格に変更されたが、ミニ新幹線と違いフル規格新幹線ルートから外れる小諸市は反対の意向を示していた。

こうして北陸新幹線は現在の形で長野までの工事が進められた。しかし問題は「碓氷峠」。あの急勾配に新幹線を通す事は出来なくないかもしれないが今度は高速鉄道。まさか補助機関車で…という訳にはいかない。軽井沢までの新幹線ルートは信越本線とは大きく異なり、安中市の北部を経由したトンネルばかりのルートが採択された。もちろん緩勾配(30パーミル)に抑えられたが、これは当時の新幹線規格に定められた最急勾配の2倍だった。規格どおりに建設すると、とんでもない路線延長になってしまう。しかし新幹線電車の性能は大幅に向上しており、この勾配でも峠を制することは既に可能な領域に入っていた。

北陸新幹線高崎-長野間の工事は順調に進み、平成7年度内にはオリンピックを翌年に控えた平成9年10月1日開業が決まった。引き換えに信越本線横川-軽井沢間は前日の9月30日をもって廃止されることになった。また軽井沢-篠ノ井間は第三セクター「しなの鉄道」に移管となり、信越本線は分断という運命を辿る。

そして平成9年9月30日、信越本線横川-軽井沢間は最期の日を迎えた。軽井沢駅での保存が決まったEF63形電気機関車の2号機が仲間と共に峠を越えた午後から廃止に向けた運転の変更が行われ、夜には役目を終えたEF63形達が次々と横川の車庫に戻り始めた。夜行急行『能登』はダイヤ改正後のルートとなった上越線経由に変更されたが、『あさま』19往復、『白山』1往復は最期まで信越路を駆けた。
もう10月1日が目前となった23時55分、『あさま37号』をサポートして軽井沢へ向かったEF63形電気機関車の19号機と3号機のペアが横川に戻り、この瞬間信越本線から「碓氷峠」が長い歴史の幕を下ろした。

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JR東日本E2系新幹線電車の『あさま』平成9年10月1日、長野新幹線が開業、『あさま』は装いも新たに新幹線に転身した。「北陸新幹線」とならなかったのは当面北陸への延伸はなく、長野へ向かうというイメージがないという配慮もあったからだが、ストレートに「長野新幹線」と名乗ることについては当然北陸各県から異論があり、結局変則的なネーミングに落ち着いた。
ただしマスコミ各社は当初から「長野新幹線開業」と伝え、本来の北陸新幹線の一部区間開業としてのトーンダウンは避けられなかったが、「長野新幹線」は直ぐに世間に浸透してしまい、翌年にはJR東日本も表記を「長野新幹線」と改めてしまう結果に。

信越本線特急『あさま』に使われていた189系電車は、一部が中央本線特急『あずさ』に転用された他は6両編成にされて長野-直江津間快速「信越リレー妙高」として走り出した。『白山』に使われていた489系は上越線経由となった『能登』と『ホームライナー』、臨時の『はくたか』に使われる他、北陸と東京ディズニーランドを結ぶ団体列車で京葉線にも乗り入れるようになった。
いっぽう、横川-軽井沢間廃止時に7往復運転されていた普通列車は一部時刻変更はあったが7往復のままバス転換され、一旦は碓氷峠を懐かしむ人が増えて平成11年10月には10往復になったものの、やがて人気も落ち着き平成13年10年には9往復に、平成15年10月には7.5往復(土休日は7往復)になっている。

碓氷峠は、鉄道がこの地に挑む前の静けさに戻った。104年余りにも及ぶ、急勾配との長い闘いであった。


一世紀以上にも及んだ人間と自然との闘い。しかしそれを制したのは偉大な自然だったのです。意外なことに最新技術は碓氷峠を放棄する結果となりました。先人達の苦労…図り知れないものがあったかもしれません。

次は、今も残るアプトの遺構、それに現存する機関車達を訪ねてみましょう。

【予告】 強者たちの足跡

―参考文献―

鉄道ジャーナル 2009年3月号 北陸新幹線の経緯と工事の現状 鉄道ジャーナル社
鉄道ファン 1996年12月号 特集:最後の力持ち EF63 交友社
鉄道ファン 1997年9月号 特集:信越本線 EF63 交友社
鉄道ファン 1997年10月号 碓氷線全史-その2- 交友社
鉄道ファン 1997年12月号 横軽はこうして消えた 碓氷線全史-最終回- 交友社
鉄道ピクトリアル 1993年1月号 <特集>碓氷峠100年 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 1996年11月号 <特集>信越本線 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 2009年1月号 <特集>勾配に挑む鉄道 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 2009年8月号 北陸新幹線の概要と工事の進捗状況 鉄道図書刊行会
RM LIBRARY 39 碓氷峠の一世紀 運転史から見た横軽間の104年(上) NEKO PUBLISHING
RM LIBRARY 40 碓氷峠の一世紀 運転史から見た横軽間の104年(下) NEKO PUBLISHING
キャンブックス 幻の国鉄車両 JTBパブリッシング
名列車列伝シリーズ17 特急はくたか&北陸の485/489系 イカロス出版

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