Rail Story 15 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 15 

 アプトは峠を制したか

ようやく工事が終わり、明治26年1月23日から試運転が始まった横川-軽井沢間「碓氷峠」。当初は失敗続きで計画通りの輸送の見通しは立たなかった。

その試運転開始直後の1月28日、陸軍を交えた鉄道会議が行われ、その席で軍は現在の中央本線、奥羽本線の早期実現を求めた。また軍事輸送のためにはレールの幅をそれまでの1,067mm(狭軌)ではなく、今の新幹線と同じ1,435mm(広軌)とするよう要望がされている。さすがに広軌とするには経済的に無理であることを了承してもらったが、計画中の両線には、碓氷峠同様アプト式の採用を予定していた区間があったという。

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ところが続く2月26日の鉄道会議では、内容が一変する。
まず計画中の中央本線塩尻以西については、それまで天竜川沿いを飯田まで下り、ここからアプト式を用いて山を越え中津川へ至る伊那線が予定されていたが、アプト式を採らず現在の木曽川沿いルートである西筑摩線を中央本線として建設することが決まった。また奥羽本線については福島から米沢の間の「板谷峠」も同様にアプト式をやめて緩勾配とするよう検討される。この他、中央本線の笹子峠も当初アプト式として計画されていたようだ。

つまり、鉄道局はアプト式を断念したのだ。

国会での答弁やその後も鉄道局はアプト式について強気の発言をしていたが、横川-軽井沢間開業前月にアプト推進派で長官の井上勝が辞任している。事実上の更迭だった。続く明治26年7月13日、検討中の奥羽本線板谷峠の緩勾配化が決定する。アプト式はやはり幹線鉄道としては無理があることを鉄道局は把握していたのかもしれない。

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横川-軽井沢間11.2kmの所要時間は蒸気機関車では1時間15分前後と超スロー運転で、路線は単線、運転本数も増やせない上に輸送力も小さくてはいくつも問題が起こるのは当然だった。

まずは機関車の「煙」。前述したがこれは乗務員、乗客共に悩みの種で、軽井沢駅にはガス中毒に備えて救急箱が用意されていたという。この煙を緩和するには、トンネル入口で列車の進入直後に空気を遮断する幕を引き、列車がピストンとなってその後は負圧となるのを利用して、列車にまとわり付く煙をそのままトンネル内に置いていくことを思いついた。列車がトンネルを出たら幕を上げて煙を排除する仕組みだ。
短いものを除いた20のトンネルには幕引きの職員が常駐することになり、列車の運転に合わせて幕を引いた。確かにある程度の効果はあったようだが、列車に接触したり、負圧で幕がトンネル内に引っ張り込まれ幕ごと宙吊りになったりで、殉職者が絶えなかったという。

次は列車の登坂不能だった。明治34年7月13日、横川から峠を上っていた列車が、サミット直前の最後のトンネルで機関車のシリンダーが吹っ飛び、あろうことに列車は坂を下り始めてしまった。機関車は火の粉に包まれたが乗務員の必死の処置で2km程退行して停まったという。だが列車が退行を始めた時、軽井沢に新築した別荘を見に行こうとしていた日本鉄道副社長の毛利技師長とその息子が列車から飛び降り、列車に轢かれ亡くなった事故は有名である。しかしこの他にも退行事故は大小あったようで、蒸気機関車での峠越えは一日も早い改善が求められていた。

続いては滞貨だった。列車に連結しきれない貨車は横川、軽井沢両駅で順番待ちの日が続いた。特に新潟で産出されてやってくる石油を積んだタンク車は貨物列車に連結するにも制限があったため、出荷の季節には滞貨が目立った。そこで峠の高低差を利用してパイプで運べないかという案が生まれ、これは早速実行に移されることになった。明治39年5月、日本初のパイプラインが線路沿いに完成し輸送改善にはなったものの、のち岩越線(現在の磐越西線)が全通して石油輸送の役割を譲った。大正3年10月まで使われたパイプラインは87,000tの石油を送ったという。ちなみにこのパイプラインの一部は途中の熊ノ平駅の給水管に転用されている。

残っていたパイプライン
当時使用されていたパイプラインの一部

蒸気機関車によるアプト区間の輸送は限度を迎えた。工夫に工夫を重ねたが1つの列車での輸送量は140tが限度、これ以上の輸送改善は蒸気機関車ではなく、もっと力の強い電気機関車を導入するしか方法がなかった。明治42年6月、横川-軽井沢間の電化が決定したのは、むしろ当然だっただろう。
翌明治43年4月、電化工事が始まった。特筆すべきはこの区間に26あるトンネルの断面が小さく、通常の路線のような架線を張ることが出来ないため、地下鉄同様サードレールを線路の横に敷き、ここから集電する方法を採ったことである。この方式では低圧方式以外認められていないため直流600Vを採用した。なお、横川・軽井沢両駅は機関車の付け替えや入換えのために作業員通路を確保しなければ安全上問題があるので架線を用いた。そのため電気機関車はサードレール用の集電装置と架線用の集電装置の二刀流となった。

珍しいのはサードレールの取付け方で、お馴染みの地下鉄ではサードレールの上面から集電しているが、この碓氷峠だけはサードレールの下面から集電するという全く逆の方法だった。全区間ブラケットと呼ばれる金具で吊られていた。これはトンネル以外の部分では、特に冬季などサードレールに霜が降り機関車の運転に支障するためというのが理由だ。ただし工事そのものは列車の運転の合間を縫って行わなければならず、また狭いトンネル内などは作業性も悪く工事は大変だったと伝えられている。
列車の運転に必要となる電力は、まだ電力会社からの購入など出来る時代ではなく、鉄道省自ら火力発電所を横川に建設、途中の丸山と矢ケ崎の変電所と共に明治44年5月に完成、電化工事も続く9月に出来上がり、ドイツから輸入した10000形(のちのEC40形)電気機関車も到着して、10月1日から試運転が始まった。ちなみに駅構内や駅舎などの照明も、自前の発電所で賄ったそうである。

10000形電気機関車 地下鉄とは上下逆の集電装置
10000形電気機関車(現在軽井沢駅に保存) 地下鉄とは上下逆向きの集電装置

明治45年5月11日、待望の電気機関車による営業運転が開始される。煤煙に悩まされる事なく列車の運行が出来るのは、大きな光明だったに違いない。速度も蒸気機関車時代の8km/hから18km/hに上がり、所要時間も49分に短縮された。ただしこの電気機関車は出力が小さく、輸送力を上げるのはもう少し先の話となる。事実蒸気機関車も併用して使われていた。のち鉄道省大宮工場でつくられた国産初の電気機関車、10020形(のちのED40形)が大正8年6月から配備され、大正10年5月11日、アプト開業以来活躍した蒸気機関車が勇退した。これを機会に電気機関車3台運転が開始され輸送力は230tに、大正14年には4台運転となり300tまでになった。

ED40形電気機関車 運転台は片側だけだった
初の国産電気機関車はアプト式のED40形 軽井沢寄りは運転台がない

大正15年12月、スイスから輸入された10040形(のちのED41形)電気機関車が戦力に加わった。この機関車は車体も出力も大きくなり、その後碓氷峠アプト式での輸送の主力となる国産機関車ED42形の基礎となった。昭和6年9月10日からは電気機関車の5台運転が可能となり輸送力は最大350tと、電化による輸送改善が成功したことになる。ただしスイス生まれのED41形は時計のような精密な機械で構成されていたらしく、動力性能そのものは大変良かったものの保守員を悩ませたとか。

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昭和6年9月1日、信越本線の支線として上越線が全通する。谷川岳を仰ぎ見る群馬・新潟県境はループ式の清水トンネルで抜け、このトンネルを挟む水上-石打間は緩勾配でつくられ最初から電化されていた。このルートは以前ボイルが明治7年5月に中山道鉄道の調査を行った時に、部下のゴールドウエーとキンドルにより同時に調査させたものだった。信越本線は東京と新潟を直接結ぶ役割を終えたが、それ以前の大正2年4月1日に富山線(現在の北陸本線東部)が開通すると、信越本線を介して東京と北陸が繋がって両地域を直通する列車が新設されるなど、路線の重要性に変化をもたらす。

やがて電化時代を築いた初期の電気機関車EC40形、ED40形も引退の時期が近づき、昭和9年以降は主力機ED42形が配備されていく。昭和11年4月、大役を果たしたEC40形12両は全機が引退。続いてED40形も昭和15年から引退を始める。ただ電圧が600Vだったのが幸いして、一部の仲間はアプト式の駆動装置を撤去されて同じ600V電化の地方私鉄などに払い下げられ、再び活躍することになった。

ED42形電気機関車
主力機となったED42形電気機関車

ED42形時代を迎えた碓氷峠は、4台運転で360tの輸送が実現した。これがアプト時代の1列車当たり最大輸送量となる。配備直後には峠を降りるときのブレーキを摩擦力だけに頼らずモーターを発電機として利用し、抵抗で熱に変える発電ブレーキが実用化され、さらに戦後には得られた電力を熱ではなく架線に送り返す電力回生ブレーキになった。約25%の電力節減になったと伝えられ、今の省エネルギーのはしりだった。これは今のハイブリッドカーにも基本的に同じシステムが搭載されている。昭和26年にはED40形、ED41形が引退、峠はED42形に統一される。

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終戦を迎え、混乱からようやく落ち着きを取り戻した国民は避暑地軽井沢を目指すようになった。戦時中運休となっていた信越本線の優等列車は、一旦は石炭事情の悪化による中断を挟んだものの少しずつ復活する。昭和27年4月1日の高崎線大宮-高崎間の電化が行われ、10月1日からは信越本線の優等列車は上越線列車も含めてスピードアップが実現、夜行準急には2等寝台車も連結されるようになった(当時はまだ3等制)。
ところが、夏場などあまりの乗客の多さにそれまで起こらなかった事件が起きてしまった。横川から峠をゆっくりと登ってきた列車がサミット地点を迎えると、それまで急勾配だったレールは当然水平に変わる。これをバーチカルカーブという。時には定員の3倍を超える(実は法令違反)乗客で大賑わいの客車は、台車のスプリングが縮みきってしまっていて、床下に取り付けられていた水槽がラックレールに接触してしまったのだという。昭和30年12月、年末年始の混雑を迎える前にこの部分の改修が行われ、以後アプト式運転で同じ事件は起こらなかった。鉄道が旅客輸送の主力だった時代を物語るものといえよう。

戦後10年。国民の暮らしにもすっかり余裕が生まれたが、逆に余裕が無くなってしまったのが碓氷峠だった。単線である上に特殊なアプト式であるため列車の運転本数を増やそうにも思うに任せず、輸送力は他の幹線に比べてかなり低かった。1列車当たり最大360t。この頃既に全線が電化されていた上越線では貨物列車の1,000t輸送が実現していた。約3倍もの輸送力だった。信越本線の貨物列車は一部上越線迂回を余儀なくされており、アプト式の抜本的改良が求められるようになる。同時に明治期につくられたアプト式の線路やトンネルなどの設備や、黎明期に行われた電化設備の老朽化が目立ち始め、戦前から活躍してきた主力機ED42形電気機関車にも疲れが見えてきたのも事実だった。それ以上に横川・軽井沢両駅における機関車の連結・切り離しや、機関車の運転や保守などに携わる職員の多さゆえに経費が嵩んでいた。

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このままでは信越本線全体の輸送力が限界を迎えてしまう。また近い将来の信越本線全線電化や複線化なども視野に入れると、碓氷峠だけをこのままにしておくのは大いに問題があり、大規模な改良が必要と考えたのは国鉄高崎鉄道管理局だった。昭和31年8月「碓氷白書」がまとめられ、国鉄本社にその窮状が上申される。

碓氷白書を基に翌昭和32年5月、国鉄関東支社は具体的計画案を打ち出す。

まず横川-軽井沢間の路線を全く別ルートの緩勾配線として、信越本線の電化延伸を同時に行えば旅客列車はスルーで走らせることが可能で、貨物列車は機関車2台運転で最大900tとすることを最善案とした。その別ルートとはアプト式の中尾川沿いルートではなく、かつてボイルやパウネルが推奨した緩勾配ルートである入山峠案と和美峠案の折衷案だった。想定される工期は約3年、ループ式を含む総延長25.2kmの案が出来上がった。所要時間こそアプト式と大差ないものの、特殊な設備や専用の車両を必要とせず、この区間だけに必要な付加要員も不用なため経費面でも大きなメリットが見込まれた。

しかしこの案を国鉄本社がそのまま認めるはずはなかった。問題となったのは25.2kmもの山岳路線を将来的に複線で建設するのは、多額の費用がかかることが明白だったからである。
もっとも当時、電気機関車の性能は著しく向上していたのは確かで、アプト式同様の急勾配線をつくったとしてもアプト式を用いず通常の方式で峠を制することは技術的になっていた。昭和34年8月、国鉄本社は現行の中尾川ルートに並行した路線を建設し、工事費そのものを圧縮する案を、関東支社の緩勾配案と併せて検討することになる。
本社の急勾配案によると、信越本線の電化を同時に行い基本的にはスルー運転だが横川-軽井沢間だけは強力な補助機関車を1台もしくは2台連結することになっていた。ただし補助機関車1台では320t、2台では500tが限度と考えられた。またアプト式同様、横川・軽井沢両駅での機関車連結・切り離しは必要としており、経費面でのメリットは見込めなかった。いっぽう建設費は関東支社案の半額程度で済み、工期も半分の1年半、並行した新線の完成後にアプト式の現行線を改修すれば、そのまま複線化は可能だった。

奇妙な事に、かつてアプト式を採用した時と全く同じ議論がなされたことになる。結論も同じだった。国鉄は急勾配案を採用した。もっとも建設費の違いは決定的だったものの、戦後日本の技術力を国内外にアピール出来るという面もあったのは確かだ。当時は新幹線も実用化を目指していた時期で、アプト式に頼らずとも安全に峠を制する事が出来るという自信と誇りだった。

昭和36年4月5日、峠の麓にある坂本小学校の校庭で、碓氷新線の起工式が行われた。国鉄技術陣の自信とは裏腹に、碓氷峠はそう簡単に彼らを受け入れてくれなかった。


碓氷峠を鉄道が克服したように見えたアプト式でしたが、老朽化という思わぬ障害によって継続は断念せざるを得ませんでした。代わって通常方式が峠を制したのかと思いきや、自然はあまりにも過酷でした。

次は、技術革新と峠との闘い、そこに現われた伏兵の話です。

【予告】 峠は厳しかった

―参考文献―

鉄道ファン 1996年12月号 特集:最後の力持ち EF63 交友社
鉄道ファン 1997年9月号 特集:信越本線 EF63 交友社
鉄道ファン 1997年10月号 碓氷線全史-その2- 交友社
鉄道ファン 1997年12月号 横軽はこうして消えた 碓氷線全史-最終回- 交友社
鉄道ピクトリアル 1993年1月号 <特集>碓氷峠100年 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 1996年11月号 <特集>信越本線 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 2009年1月号 <特集>勾配に挑む鉄道 鉄道図書刊行会
RM LIBRARY 39 碓氷峠の一世紀 運転史から見た横軽間の104年(上) NEKO PUBLISHING
RM LIBRARY 40 碓氷峠の一世紀 運転史から見た横軽間の104年(下) NEKO PUBLISHING

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