Rail Story 15 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 15 

 スターの転身(前編)

今なお私鉄王国と呼ばれる関西で、スピードとサービスの覇を競った路線といえば、真っ先に思いつくのが京都-大阪間というのは間違いない。京阪、阪急京都線、それに国鉄から続くJR西日本。三つ巴の戦いは続いている。今回は阪急京都線特急の変遷と、活躍した電車にスポットを当ててみよう。

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「ロマンスカー」といえば小田急というイメージが強いが、もともとロマンスカーは京阪電鉄(以下京阪)が名づけたものだった。開業時、京阪は集落の多い京街道(東海道)沿いに路線を建設したが、法規上路面区間を残したことや、カーブの多さゆえに京都・大阪間のスピードアップかなかなか果たせないでいた。しかし街道沿いで比較的人口の多い地域をカバーしたことで乗客数は多く、京阪はバイパス路線の建設も考えるようになった。そこで淀川の対岸、西国街道沿いに新京阪鉄道を別途建設し、高速で両都市を結ぶことにした。
当初京阪は野江から淀川の対岸に渡り、山崎付近から再び淀川を渡って淀で本線に戻る路線を考えていたようだが、路線免許申請にあたり監督官庁から言い渡されたのは「大阪側ターミナルの別途設置」。このため京阪は鉄道省城東線(現在の大阪環状線)の高架化に伴う遊休地払い下げを画策したが果たせず、結局現在の阪急千里線の前身である北大阪電鉄を買収し「新京阪鉄道」(以下新京阪)を設立する。大正14年10月17日に大阪側の天神橋をターミナルとして、また京都側は西院を地上仮駅とし昭和3年11月1日に新京阪は大阪と京都を結んだ。

こうして新京阪は当初から京阪のバイパス路線としてよりも、むしろライバル路線としての性格を持っていた。また京阪が路面電車スタイルから始まったのに対し、新京阪は地方鉄道法で建設されたため規格もずっと上だった。京阪が実現できなかった高速運転を最初から実現出来たため、母屋である京阪も対抗せざるを得なかったと言えよう。新京阪はデイ100形(通称P-6)で昭和5年から超特急を運転開始、山崎付近の東海道本線との並行区間で超特急『燕』とのデットヒートを演じた話は今も語り継がれている。ただし『燕』とほぼ同時刻に運転された新京阪の超特急は無かったといわれており、実際は急行だったようだ。

いっぽう京阪はスピードでは新京阪にはとてもかなわない。昭和2年デビューの600形、翌年デビューの700形は転換式ロマンスシートを装備し、居住性の良さをアピールする。600形・700形「ロマンスカー」による急行は京阪の代表列車となる。
しかし昭和4年10月、ニューヨークに端を発した世界恐慌は新京阪の建設費用償還に波及、結局京阪は新京阪を翌昭和5年9月15日に合併し、京阪の「新京阪線」として再スタートせざるを得なかった。その翌年の3月31日、新京阪線西院-四条大宮間が地下線で開業し、四条大宮は京阪京都を名乗ることになる。昭和9年9月1日、新京阪線の特急・急行は京阪京都-天神橋・十三間の運転となり、途中の淡路で連結・切り離しを行うようになった。また十三では阪神急行電鉄(阪急)との接続を果たしたが、これが後に歴史のターニングポイントとなった。

新京阪線は「超特急」、京阪は「ロマンスカー」、鉄道省も負けずと昭和12年10月10日から京都-神戸間「急行」(急行料金不要)を運転、現在に続く京阪間レースが始まった。京阪は鉄道省の流線型電車モハ52系に刺激されて、こちらも流線型を取り入れた1000形で対抗するが、新京阪デイ100形の走りは両者を圧倒した。この新京阪デイ100形は、参宮急行電鉄(現在の近鉄の一部)デ2200系、阪和電鉄(現在のJR西日本阪和線)モヨ100形などと並び、戦前の関西私鉄の名車に数えられるのは異論がないだろう。

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その後日本は徐々に戦時色を強めていく、昭和13年8月、「陸上交通調整法」が制定され各地で私鉄路線の統合が進められていく中、太平洋戦争さなかの昭和18年10月1日に阪急と京阪は合併し京阪神急行電鉄となる。これを機会に十三で接続していた新京阪線列車の宝塚線を介した梅田乗り入れが行われることになり、デイ100形の一部車両の改造が行われた。
その内容は資材不足の当時のこと、最低限で済まされた。最初から高規格でつくられた新京阪線の電圧は1,500Vだったが、路面電車上がりの宝塚線の電圧は600Vだったため、異なる電圧でも制御電源を確保出来るよう補助電源回路を改造し、また両線の連結器の高さも異なっていたため万一の際に連結出来るよう改造を施した程度だった。

しかし事件というのは起こってしまうもので、昭和20年5月31日、梅田駅の手前で信号停車をしていたデイ100形の列車が動かなくなってしまい、後続の宝塚線の電車に押してもらうはめになった。ただ当時の梅田駅は地平にあり、高架線から省線をくぐる坂に差し掛かった途端、対応したはずの連結器が外れてしまい、デイ100形はそのまま梅田駅のホーム端に激突してようやく停まったという。
その翌日、今度は十三-中津間の新淀川鉄橋を走っていたデイ100形が米軍機の空襲を受け火災を起こし、これらがきっかけになり新京阪線列車の梅田乗り入れは中止となった。

程なく終戦を迎え、昭和23年8月11日に新京阪線列車の梅田乗り入れが復活した。今度は電圧転換器なるものを装備し補助電源回路はもちろん、ブレーキ用のコンプレッサも正常に作動する。戦前の改造ではコンプレッサの作動までは考慮されていなかったのか、ともかくこれが梅田駅激突事件を引き起こしたのかもしれない。翌昭和24年12月1日、京阪は阪急から分離独立するが、この時淀川を挟んで路線は再編されることになり、新京阪線は阪急に残り京都線として再スタートする。戦前の十三駅接続は京阪が夢見た京都-大阪間の高速路線を手放す結果に…。

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昭和25年10月1日、新京阪線改め京都線に特急が京都-天神橋間で復活する。使用された電車はもちろんデイ100形だった。車体は上半分がオレンジ、下半分は阪急伝統のマルーン、その境目には銀色の帯が入れられ、車内は向かい合わせ式のシートが整備された。ただしこの塗装は今ひとつ人気が無かったのか、のちに銀帯を残してマルーン1色に改められる。
この年には京都線特急用の新車710系も仲間入り。この710系は阪急オリジナルの車体で、新京阪引継ぎの車両の中では異彩を放ったことだろう。塗装は阪急のマルーン1色。電車の正面には「特急」の標識が左右2枚取り付けられ、以後京都線特急の伝統として定着する。これはまだ十三-梅田間は宝塚線を走っていたため、乗客が宝塚線の列車と識別しやすいよう考慮されたといわれている。
ただし710系には向かい合わせシート車の他にロングシート車が後に加わり、特急にも混用されたため今も続く利用者の遺恨がこの時から始まったようだ。

戦前の京阪間輸送シェアは新京阪40%、京阪20%、鉄道省40%だったといわれている。戦後の阪急京都線特急運転開始の1ヶ月前には京阪が戦前の流線型電車の1000形を整備して特急を運転開始していた。「京阪電鉄カーブ式会社」と揶揄されるように、京街道沿いのカーブの多い路線に所要時間では引けを取ったが、転換式シートで豪華さを誇り、昭和29年デビューの1800系からはエアサス車やテレビカーを連結、ソフト面での充実をアピールした結果、翌年には阪急30%、京阪34%、国鉄36%と京阪と阪急の立場が逆転、阪急はうかうかしていられなくなった。
かつて北大阪電鉄時代に東海道本線の路線変更の遊休地を利用した京都線だったが、その名残を残していた南方-崇禅寺間のS字カーブの改良が昭和30年12月15日に完成、スピードアップが実現し翌昭和31年4月16日に京都線特急は京都-梅田間の運転となる。翌年には性能が向上した新車1300系も戦列に加わったが、またも向かい合わせシート車とロングシート車の両方が造られ、どちらも特急に使用されたために、時にはホームで向かい合わせシート車を期待していた利用者をがっかりさせたという。

昭和34年2月18日、阪急は十三-梅田間の三複線化を実現した。これは宝塚線に乗り入れていた京都線の分離を図ったもので、これで肩身の狭い思いをしていた京都線列車が堂々と梅田へと走れるようになったが、この時点では宝塚線の複々線化という名目だったため、電圧は昭和44年8月24日まで600Vのままだった。
いっぽう京都線はずっと京都、つまり四条大宮での発着だったが、これを京都の中心、四条河原町へ延長する計画は新京阪時代に遡り、昭和2年10月18日に路線免許を取得していた。昭和30年代には京阪神の各市内で私鉄路線の延長が進展を見せ、阪急も河原町延長を具体化する。昭和35年5月に阪急は新京阪時代のまま地下線の工事実施を京都市に打診したが、市は「そんな昔の計画が今も通用するのか」と特別調査委員会を設置、どうなることかと思ったら問題が無い事が確認され、昭和38年6月17日、京都改め大宮と河原町の間を地下線の延長という形で完成した。この頃には「オートカー」2300系が3つドアのロングシート車ながら特急に参戦したり、東海道新幹線建設に伴い京都線大山崎-上牧間を同時に高架化した関係で、昭和38年4月24日から12月28日まで何と一足先に新幹線を走るという珍事も披露する。

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阪急京都線特急にデビューした2800系淀川の対岸、京阪は昭和38年4月16日、長らく大阪のターミナルだった天満橋から地下線で淀屋橋への延長が成り、都心部への乗り入れが実現した。オール転換式シートのテレビカーは京阪特急の代名詞となり、専用車の1900系に統一され相変わらず人気を博していた。阪急では2300系や1300系を主に710系や時には100形が特急に活躍していたが、時には「がっかり」の電車では京阪にはかなわない。阪急京都線に転換式シートの新車、2800系がデビューしたのは昭和39年6月のことだった。オートカーの3つドアの車体を2つドアにリファイン、特急用にふさわしい電車が伝統の二枚看板も勇ましく河原町-梅田間に走り出した。阪急京都線特急は、同じ阪急の路線の中でも別格の扱いとなる。

阪急京都線特急には2800系が毎年製造され、昭和41年度には全ての特急が2800系に統一された。編成も当初の5両から6両、7両へと長くなる。この頃はまだ京阪「テレビカー」1900系共々冷房はついていなかったが、阪急は昭和46年から京都線特急の冷房取り付け改造を進める。この改造のために電車の規格が若干異なる神戸線・宝塚線と京都線との共通設計で製造された5100系が最初から冷房を搭載して京都線特急の助っ人として走るようになったものの、涼しくても3つドアのロングシート車だったことから、利用者の「がっかり」は相変わらず続いたようだ。
翌昭和47年8月には2800系の冷房改造が終わり、5100系は神戸線・宝塚線に帰っていった。昭和48年3月には全7編成が8両編成になり2800系はトップスターの座を射止める。
しかし京阪も昭和46年から1900系テレビカーを冷房付きでカラーテレビを搭載した新車の3000系に置き換えていた。京阪1900系はたった8年(1810系からの編入車は15年)で特急から引退、ドアを増設して急行用になる。いっぽう国鉄は昭和47年3月から急行用153系を「ブルーライナー」に塗り替えて新快速に投入したものの、中古車ではサービス面で阪急・京阪にかなうはずもなく失速していく結果に。

 京都方先頭の2850 梅田方先頭の2800 
二枚看板も勇ましく走った2800系 

京阪には負けられないと阪急京都線には昭和50年、2つのドアを思い切って両端に寄せ、車内に転換式シートをずらりと並べて豪華さをアップした6300系がデビュー、何より外観は屋根に繋がる部分を白に塗り分け、正面から側面にかけてステンレスの飾り帯を入れたスタイリングはマルーン1色だった阪急ではとても新鮮、デイ100形以来のツートンカラーは利用者の目を阪急に向けさせるには十分だった。特急停車駅には6300系の正面を描いた「新型特急」の乗車目標が設置され、2800系との差別化を図った。昭和53年9月には6300系全8編成が出揃い、2800系は順次3つドアに改造され急行用となって阪急トップスターの座を6300系に譲った。

 3つドア化後の2800系  「新型特急」6300系
 3つドア化された2800系 颯爽と走り出した6300系 

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ここまで阪急京都線特急の座についた電車たちは、華やかな活躍をしながらも、その期間はあまり長いものではなかった。まるで宝塚歌劇団のトップスターを髣髴とさせるものがあるといえようか。中でも2800系は2つドアで転換式シート、しかも冷房車であるという高いサービスレベルを確立した立役者でありながら…。


花の命は短くて…阪急京都線の特急に活躍した電車には、この言葉がぴったりなのかもしれません。しかし特急を引退してからも地道に走り続けました。

次は2800系・6300系のその後と、情勢の変化がもたらした運命、意外なまでの共通点に触れてみましょう。

【予告】 スターの転身(後編)

―参考文献―

鉄道ファン 1995年4月号 京王5000系と阪急2800系・名車がんばる 交友社
鉄道ピクトリアル 2000年12月臨時増刊号 【特集】京阪電気鉄道 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 2009年8月臨時増刊号 【特集】京阪電気鉄道 鉄道図書刊行会
関西の鉄道 1989新春号 阪急電鉄特集 PartU 京都線・嵐山線・千里線 関西鉄道研究会
関西の鉄道 2002盛夏号 阪急電鉄特集 PartX 京都線 関西鉄道研究会
関西の鉄道 2007盛夏号 京阪電気鉄道特集 PartW 京阪線・大津線 関西鉄道研究会
関西の鉄道 2009陽春号 阪急電鉄特集 Part[ 京都線・千里線 関西鉄道研究会
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