Rail Story 15 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 15 

 悲運のクイーン

鉄道車両の中でも、華やかな活躍をする特急用車両。これは国鉄時代から続くJR各社や私鉄各社問わず憧れの存在だったり、旅に出たくなる魅力を備えている。
また特急として走るからには、それ相当の走行性能を有しているのも確かだ。しかし中には画期的な性能を出すために長い開発期間を経て生まれてきたはずなのに、意外なことにその活躍期間が短く、転身を重ねたものもある。今回はそんな運命を辿った特急車両の長すぎるまでのデビュー秘話と、その後にスポットを当ててみよう。

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JR北海道の特急『スーパー北斗』や『スーパーおおぞら』を始め、今では電車特急に全く引けを取らない走行性能を誇るのが現在のディーゼル特急車だ。ハイパワーエンジンを搭載、曲線を高速で通過出来る振子装置を有するものもあり、電化されていない路線の高速化を実現した。しかしディーゼルカーが現在の地位を得るまでには、とても長い時間を要している。

日本の鉄道にディーゼルカーが登場したのは戦前の昭和初期だったが、その少し前に登場していたガソリンエンジンに取って代わるものとして十分なパワーが得られたとは言えず、地方の未電化私鉄に現れた程度だった。またこの時点ではトルクコンバーターがまだ実用化されておらず、自動車のMT車と同じ駆動方式(機械式)で1両での運転が当たり前だった。鉄道省でも地方の輸送量の少ない路線でガソリンエンジン車を走らせていたが、駆動方式は同じ機械式、ディーゼルカーは試作的要素を超えていなかった。

戦後になると都市部などの未電化路線でも経済性と機動性に富むディーゼルカーの導入が国鉄内部で検討される。今度は1両では全く輸送力が足りず複数の車両を繋げる必要が生じた。エンジン自体は直列8気筒ガソリンエンジンのGMH17をディーゼルエンジンに戦前に設計変更したDMH17(150ps/1,500rpm)で実用化の目途が立ったが、問題は駆動方式だった。クラッチ操作の必要な機械式は問題外、戦前の一部車両で採用したエンジンで発電機を回し、その電力でモーターを駆動する電気式に加えて比較検討されたのがトルクコンバーターを使用する液体式だった。
もっともトルクコンバーター自体は戦前にガソリン車で試験が行われていたものの、その後は取り外され神戸製鋼で保管されていたのだという。戦後はディーゼルカーで試験され、これが思いの外良好な成績を残したことで電気式、液体式それぞれのディーゼルカーが走り出した。

電気式と液体式のディーゼルカーはどちらも所期の性能を発揮したが、電気式は発電機とモーターの重量が嵩み、逆に液体式は動力伝達効率に優れていることもあって以後国内では液体式が主流となっていく。その後勾配線区用にエンジンを2基搭載したものも現れ、ディーゼルカーは日光線準急『日光』や関西線準急『かすが』など優等列車にも進出を始める。エンジンも燃焼室の改良などで180ps/1,500rpmまでチューンナップされた。

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昭和30年代の国鉄は東海道線電車特急『こだま』の成功を受け、未電化路線にも『こだま』同様の特急を、という気運が高まっていく。そこでキハ81系東北特急『はつかり』が初のディーゼル特急として昭和35年12月10日に上野-青森間にデビューした。『こだま』を踏襲したスマートなデザインは地方にも近代化をもたらしたように見えた。しかし足回りはそれまでのディーゼルカーと基本的に同じで、エンジンこそシリンダーを水平にしたDMH17Hとしたものの、高速走行を考慮してファイナルギアレシオを若干ハイギアードにした程度で、動力性能は必ずしも十分とはいえなかった。

もっとも『はつかり』のディーゼル化を控え、当時の国鉄ではもっとハイパワーなエンジンを開発して動力性能を上げる検討はデビューを遡る昭和29年から始まっていた。エンジンのペースとなったのはやはり戦前のディーゼルエンジンで、ドイツの高速ディーゼルカー、フライング・ハンブルガーに刺激されて鉄道省が試作した電気式ディーゼルカー、キハ41000形に搭載されたV形8気筒エンジン(240ps)だった。これを直列6気筒にし、シリンダーを水平に変えターボチャージャーを加えてDMF31HS(400ps/1,300rpm)が出来上がった。これはディーゼル機関車のDD13形に搭載したものと基本的に同じだ。DMH17系列では当初から床下搭載を目的にボア130mm、ストローク160mmとしていたが、こちらはボア180mm、ストローク200mmとシリンダーが大きかったのが欠点だった。
またトルクコンバーターも400psを受け止めるものが開発されたものの、試作車のキハ60系が出来たのは昭和35年のことで、『はつかり』まで時間は残されていなかった。さっそく試験が繰り返されたが結果は思わしくなく、結局国鉄技術陣は新エンジンを諦め、使い慣れたDMH17Hの搭載を決めた。ヨーロッパのディーゼル特急に比べパワーウエイトレシオは2/3程度…。

当時国鉄や鉄道車両メーカーが目論んでいたのはディーゼル特急の成功よりも、むしろディーゼルカーの海外輸出でもあったようだ。昭和35年、東京で開催されたアジア鉄道首脳者懇親会では国鉄・私鉄の代表車両の展示会が行われたが、これは日本のディーゼルカーのプレゼンテーションでもあった。言い換えれば『はつかり』は、この展示会に間に合わせなければならなかった。そのためには安定した性能を発揮出来る動力装置が必要とされ、既に円熟期を迎えていたDMH17系エンジンが求められたのも事実だった。試乗会も行われ、日本の輸出産業の市場拡大には役立ったものの、見切り発車的な面は否めなかったようだ。

続いて昭和36年10月1日、『はつかり』の改良型キハ82系によるディーゼル特急が全国展開を果たす。未電化区間のクイーンとして華やかな活躍を始めた半面、足回りは『はつかり』と同じDMH17Hが採用されていた。

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すっかり特急が大衆化していく中、地方幹線にはまだ特急の走っていない路線があった。名古屋と長野を結ぶ中央本線・篠ノ井線には急行『しなの』が走っていたが、他の路線同様、特急の新設を求める声が上がったのは当然だった。
しかし『しなの』のルートである木曽路は古くから「全て山の中」と言われるように山岳路線として知られ、ハイパワーな特急車両が求められるのは当然だった。キハ82系ではパワーウエイトレシオが急行に劣る結果となり、急行より遅い特急では話にならない。これはキハ81・82系の先頭車が冷房などの電源用エンジンを搭載する関係で走行用エンジンが1基となっているためで、しかも3〜4両に1両連結しなければならなかった。これに比べ当時の急行は冷房がなかったため、エンジン2基搭載車で固めていた。

国鉄の新エンジン開発は続いていた。ディーゼルカー用としては失敗に終わったDMF31系列は結局ディーゼル機関車用として進化、ディーゼルカー用はシリンダー寸法にボア140mm、ストローク160mmを採用、ターボ付き水平対向12気筒エンジンのDML30HS(500ps/1,600rpm)と、これを片バンクの直列6気筒インタークーラー付きターボとしたDMF15HZ(300ps/1,600rpm)が昭和39年に完成していた。
昭和41年には300psエンジン搭載のキハ90形、500psエンジン搭載のキハ91形を試作、さっそく比較検討されたがエンジンの寸法が両者あまり変わらないことや、500psエンジンはパワーに余裕があり1両に1基搭載で済み、長編成にした場合エンジンの基数を減らせることが決め手となり、キハ91形をあと10両製造して昭和42年10月1日から急行『しなの』1往復に使用開始。結果は上々で特急への搭載にも目途が立ち、翌昭和43年10月1日、通称「ヨンサントウ」のダイヤ改正で新エンジンDML30HSC搭載のキハ181系による特急『しなの』が名古屋-長野間にデビューする。

新たなクイーンの誕生だった。『きそ』と改称した急行に比べ約40分のアドバンテージを誇った。

キハ181系は勾配線区での所要時間短縮だけでなく、高速性能の向上も視野に入れていた。それまでのキハ82系は最高速度100km/hだったがキハ181系はパワーアップで当時の電車特急と同じ120km/h、昭和45年2月10日にキハ82系からバトンタッチした上野-秋田間『つばさ』は3月15日のダイヤ改正で本領を発揮、上野-福島間の東北本線では『ひばり』など485系電車特急とほぼ同じ所要時間で疾走した。また福島-米沢間の板谷峠ではそれまで電気機関車の力を借りていたものが自力走行を実現した。『つばさ』からエンジンは小改良でDML30HSEに、ブレーキもディスクブレーキを採用した。

特急『つばさ』のキハ181系
『つばさ』にデビューしたキハ181系

続いてキハ181系は伯備線にも活躍の場を得る。昭和46年4月26日、新大阪-出雲市間にそれまでの急行を格上げした『おき』が走り出した。ただこの時が既にクイーンの悲運の始まりだったのかもしれない。

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『おき』は山陽新幹線岡山開業の翌昭和47年3月15日に『やくも』と名を変え、岡山-出雲市・益田間4往復となった。しかし120km/hが許されたのは山陽本線岡山-倉敷間の短い距離、『おき』時代はというと1年弱でのダイヤ改正を控え、他の列車の運転に支障しないようダイヤを設定したため高速性能を発揮出来ず、大阪-岡山間ではキハ82系『かもめ』より遅かったという。
またこのダイヤ改正では四国に初の特急『しおかぜ』『南風』がデビューした。実は昭和36年10月1日、宇野線に電車特急『富士』『うずしお』が新設された時に四国側の接続特急が一時は計画されたが、まだ需要は少ないと判断され実現には至っていなかった。ようやく新幹線を控え特急時代を迎えた四国だったが、全国的に特急の需要が伸びていた当時、他地区からキハ82系を転配するだけの余裕がなく、キハ181系の導入となったそうである。ただし食堂車は連結されず、グリーン車に車内販売の基地が設けられた。

そんな頃『つばさ』は板谷峠でトラブルを起こしていた。パワーアップしたとはいえ過酷な峠道では夏場を中心にオーバーヒートなどが多発、時には電気機関車の助けを仰ぐようになっていた。
ディーゼルカー用エンジンのパワー標記は自動車用エンジンと違い連続定格出力であり、最高出力ではない。キハ181系のエンジン、DML30HSEは500ps/1,600rpmとされていたが、実際にはフルスロットルで590ps/2,000rpmを叩き出していたのだ。しかし板谷峠越えでのフルスロットル多用は定格をはるかに超える過負荷を強いるもので、無理があったのは否めなかった。昭和47年12月からは正式に電気機関車との協調運転が行われるようになった。

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ハイパワーゆえの悩みを抱えたまま、未電化区間のクイーンとして君臨したはずのキハ181系。意外にもその輝きは短かった。

昭和48年7月10日、中央本線・篠ノ井線は全線電化され特急『しなの』にはカーブを高速で走れる振子式の381系電車が投入された。名古屋-長野間の所要時間はさらに30分短縮、その差を見せつけた。
ただ381系電車にはそれまでなかった問題が発生した。車酔いである。時には乗務員でさえそれに悩まされ、全国版のニュースにまで取り上げられた程だったが、冷房の温度を少し下げたり、「振子式で揺れますので…」という放送を「カーブを高速で通過する構造になっておりますので…」と改めたりして終息したという。
いっぽうキハ181系は2往復が存置され食堂車付きというサービスを売りにしていたが、食堂車利用が減り同年10月31日で食堂車の連結を取りやめ、昭和50年3月9日をもってキハ181系は『しなの』から撤退した。7年足らずの活躍だった。

同じ年、奥羽本線の全線電化が完成し『つばさ』は11月25日から485系電車に置き換えられた。東北本線を電車特急に伍して高速走行し、奥羽の山々にエンジン音を響かせていたキハ181系は5年余りで活躍を終え、山陰線系統と四国に集結する結果となる。キハ82系の高山線特急『ひだ』置き換えという案もあったが、保守側が『しなの』で手を焼いたDML30HSEエンジンを拒んだといわれている。

4往復でデビューした伯備線特急『やくも』は昭和48年10月1日には6往復となり、ディーゼル特急初のエル特急となっていた。高速走行区間は短かったが、山岳区間でハイパワーエンジンを生かせる数少ないキハ181系本来の活躍の場だった。
しかし伯備線にも『しなの』同様振子式電車381系登場の日がやって来た。昭和57年7月1日、『やくも』は電車化されキハ181系は山陰地区で走り続けていた先輩キハ82系の置き換えに回ることになる。食堂車は役目を失った。

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いっぽう北海道にはキハ181系は投入されなかった。昭和54年9月、それまで酷寒の地で走り続けたキハ82系の後継車となるキハ183系が試作され、翌昭和55年2月10日から特急『おおぞら』に走り出した。
このキハ183系にはキハ181系のエンジンDML30HSEをデチューンしたDML30HSI(440ps/1,600rpm)と、かつてキハ90で搭載したDMF15HZからインタークーラーを省いたDML15HSA(220ps/1,600rpm)が採用された。これらはパワーをレートダウンすることによりエンジンの信頼性向上を狙ったものだったが、デビュー時の最高速度はキハ82系と同じ100km/hで、キハ181系と違い無理をせず安定した性能を出す方向性ともいえよう。
キハ183系には食堂車はつくられていない。デビューを前に余剰となっていたキハ181系の食堂車を転用する案もあったが、全国的に食堂車が衰退していたこともあり、グリーン車の車内販売基地に調理設備を設けることになったという。もっとも当時、北海道の特急では食堂車の需要が比較的高かった。夜遅くなる列車では駅を出ても既に飲食店は閉まっており、特に冬場など暖かな車内で食事を取っておくのが当たり前だったと聞く。まだファミレスやコンビニが少なかった頃の話だ。

その後キハ183系はブレーキの改良などで最高速度を110km/hにアップ、JR化直前には改良型のキハ183系500番台(通称N183系)が登場した。エンジンは定格回転数を上げてパワーアップしたDML30HSJ(550ps/2,000rpm)と、新開発した直噴エンジンのDMF13HS(250ps/2,000rpm)となった。スタイルも大きく変わり、もはや国鉄特急車のイメージは受け継がれていなかった。のちキハ183系にはエンジンをインタークーラーで武装、ファイナルキアレシオをハイギアードにして最高速度130km/hを実現した仲間(通称NN183系)も加わり、現在も活躍を続けている。

いっぽう四国ではJR化直前にDML13HSエンジンを搭載したキハ185系がデビューしていた。ステンレスの車体が特徴で、引退した新幹線0系のシートを転用、普通車のクーラーはエンジン直結式でバス用のものを改良するなど、コストダウンも図っていた。
やがて瀬戸大橋線が開業するとキハ181系は岡山へと足を伸ばしたが、設計の古さは隠せず瀬戸大橋走行時の騒音が大きいとクレームがつき、早々に本州乗り入れはキハ185系に譲る結果となった。平成5年3月17日をもってキハ181系は四国から引退した。

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結局山陰線特急に集結することになったキハ181系。京都と山陰の各都市を結ぶ『あさしお』は山陰線・福知山線の電化と共に『北近畿』など電車特急に交代する。平成6年12月3日には智頭急行線経由の『はくと』(新大阪-倉吉))としても走り、久しぶりの高速走行が実現したものの智頭急行線の振子式ディーゼルカーHOT7000系の『スーパーはくと』は最高速度130km/h、平成生まれの実力の差を見せつけられる。平行する高速バスにも勝てず3年後の平成9年11月28日に廃止となった。
平成13年7月7日のダイヤ改正では山陰のキハ181系にも後継車のキハ187系が登場、『くにびき』(米子-益田)『おき』(米子・鳥取-小郡)が世代交代の日を迎えた。山陽新幹線博多開業時にスタートした『おき』は昭和51年10月1日からキハ181系を使用しており、意外なことに長い期間の活躍だったことは特筆されよう。ただ『くにびき』改め『スーパーくにぴき』は利用の低迷で2年あまり後に廃止されてしまう。この時キハ187系は『いなば』(鳥取-岡山)をキハ181系から置き換えたが、キハ181系を追いやったのは新鋭だけでなく、地方のクルマ社会化という現象も手伝ったのは間違いない。

平成17年2月いっぱいで関門トンネルを抜け山陰と九州を結んでいた『いそかぜ』(米子-博多)も廃止となり、とうとうキハ181系の特急は昭和57年7月1日に先輩キハ82系から受け継いだ播但線経由の『はまかぜ』(新大阪・大阪-倉吉・鳥取)だけとなった。

キハ181系は未電化路線への直通が出来るメリットを生かし、行楽シーズンに北陸線経由で大糸線へ乗り入れる『白馬アルプス』(往路夜行急行・復路昼行特急)や『シュプール』、同じく北陸線経由で高山線八尾へ直通する『おわら』、また関西から伊勢方面への修学旅行列車などにも活路を見出した。いずれもキハ181系がそれまで縁のなかった路線での活躍も見られるようになった。
ただし夏シーズンの『白馬アルプス』、冬シーズンの『シュプール』共に利用客の減少で、近年は運転されていない。

 特急『白馬アルプス』(大阪駅)  特急『白馬アルプス』(金沢駅)
特急『白馬アルプス』  

平成21年3月26日、JR西日本は『はまかぜ』への新車投入を発表した。平成23年には置き換えが実現するようだ。未電化の山岳幹線に特急時代をもたらし、高速化を実現したキハ181系。本来の活躍は電化の波が思いのほか早く押し寄せ、不本意な悲運のクイーンに終わったかもしれないが、最後の日まで国鉄特急型の伝統を残し、走り続けてほしいものだ。

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振り返ってみるとディーゼル特急はエンジンのパワーアップと、駆動方式の歴史を語っている。今では電車特急に全く引けを取らない性能を手に入れた。しかしそれはトルクコンバーターの実用化が鍵だったともいえよう。戦時中に保管されていたトルクコンバーターが、もしも金属回収令であわやスクラップになっていたら…歴史は大きく変わっていたのかもしれない。

 - あとがき -
 前作『レイル・ストーリー14』をリリースして1年余り、大変ながらくお待たせしてしまい、反省しております。申し訳ありません。

今回はずっと構想にあった碓氷峠を話題に取り上げることが出来ました。東北新幹線や九州新幹線が延伸されていく中で、唯一在来線の一部区間廃止となった信越本線横川-軽井沢間。採算性か存続か…新幹線の開業と在来線の在り方については問題が山積しています。景気の停滞もある中で地方空港を発着する国内線利用率も低下し続けていると聞きます。そんな中、本当に並行して開業する新幹線を手放しで喜べるのか、本当に必要なのかを考えさせられました。同時に先人の苦労と歴史の悪戯。もしも選択が逆だったら展開が大きく変わっていたかもしれなかった…という事実があまりにも多く、驚くばかりでした。

さて鉄道界では大都市圏で新車の投入が相次ぎ、なおも輸送改善が進められています。反面、地方都市圏や長距離列車からは廃止、減便、見直しなど明るくない話題ばかりが続いています。特に夜行列車の衰退はもはや目を覆うばかりで、需要がすっかり変ってしまったことを意味しています。規制緩和や自由化は競争力を高めるという大義名分はあったかもしれませんが、残念なことに需要の拡大には至らずインフラとしての鉄道の地位を下げてしまったのは確かです。しかもデフレまでも招いてしまいました。今では航空やバスまでもが共倒れし兼ねない事態と言えるでしょう。

国鉄がJRに生まれ変わって20年以上が過ぎ、「国鉄型」と呼ばれる車両の引退も続いています。列車の廃止と運命を共にする名車の引退はファンからすれば非常に寂しいものがありますが、これはJRのみならず私鉄各社でも同様な時期を迎えています。今回取り上げた阪急6300系など、華々しいデビューを飾ったのがもう懐かしく思えます。既に引退した名鉄7000系パノラマカーなど、時代を築いた車両たちの活躍に終止符が打たれる…当たり前のことが当たり前でなくなるのが、一部が今日の不景気と重なってしまったという事実。残念です。

しかし鉄道が持つ使命までもが当たり前でなくなる日…それはあってはならない、今戻さないと大変なことになるのではと思えてなりません。

長くなりました。この辺でペンを置きましょう。

ご乗車ありがとうございました。
平成22年早春 

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 2006年2月号 【特集】キハ181・183・185系 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション13 国鉄の気動車1950 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション14 国鉄の気動車1960 鉄道図書刊行会
JTBキャンブックス キハ82物語 JTB

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