Rail Story 14 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 14 

 踏切は残った

新橋SL広場のC11汽笛一声新橋を…という鉄道唱歌でお馴染みのJR新橋駅。テレビでサラリーマンへのインタビューといえば必ずと言っていいほど新橋駅のSL広場で行われているようだが、この駅はもともと新橋駅ではない。本来の新橋駅は現在シオサイトとなっている、かつて貨物や荷物を取り扱っていた汐留駅だった事は有名だ。

明治5年10月14日、新橋駅は開業した。もっとも日本の鉄道が産声を上げたのはこの日ではなく、品川-横浜(現在の桜木町)間が4ヶ月程遡って6月12日に暫定開業している。しかも10月14日は開業セレモニーが行われただけで、実際の営業は翌15日からだったとか。
当時の新橋駅には車庫、車両工場や本社機能など、鉄道の運営に必要なものも合わせて建設され、総合基地的なものとして新橋駅が完成したのを受けて鉄道の正式開業となったようだ。近年かつての新橋駅舎が復元されたのも記憶に新しく、また前述した明治村にもこの時建てられた工場が移築されている。ちなみに明治5年の新橋駅開業と同時に、早くも駅構内には洋食を出すハイカラな食堂がオープン、これは今に至る「エキナカ」の先祖と言っていいだろう。
やがて鉄道が日本にとって重要なインフラとしての地位を高めていくに従い、日本の玄関口としての駅が必要という声が高まってくる。明治維新後、江戸城前にあった旧各藩の江戸屋敷は取り壊され、代わって軍の施設となっていたがやがて移転、空地となっていた場所が現在の東京駅の場所だった。今では信じられない話だ。

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当時、現在の東海道線は官営、上野から先の東北線や常磐線は日本鉄道が建設を進めたが、ターミナルが離れているのはやはり不便で、日本鉄道が建設した山手線でレールは繋がったが、これはもともと貨物線であり、しかも遠回りとあって東京駅と上野駅、それに現在の中央線の前身である甲武鉄道も東京の中心部へと路線を延ばし始めると、これらをストレートに繋ごうという気運が高まるのも当然の話だった。その真ん中に位置するのが現在の東京駅で、日露戦争に勝利した日本の、まさに中心となるべき駅が必要だったとも言えよう。
のち東京駅より南側は官営、北側は日本鉄道と工事を分担して高架で線路を作る事が明治23年に決まり、用地買収は割とスムーズに進んだものの日清戦争が勃発、工事は官営分こそ少し進んだが日本鉄道分はあまり進展せず、明治39年には鉄道国有法により日本鉄道は官営となる。
その後、高架線工事は南側から進み明治42年12月16日、烏森まで開通、翌年6月25日には有楽町、9月15日には呉服橋(現在の東京駅の少し北で、永代通りのあたり)まで開通して山手線の電車が走り出した。並行して東京駅の駅舎の工事も進められていく。

大正3年12月18日、東京駅開業セレモニーが華々しく挙行された。営業開始は20日と決まり、新橋駅は19日限りで旅客営業に終わりを告げることになる。その19日の夜、最終列車を見送った駅員は総出で引越し作業を開始。今なら大型トラックやトレーラーを使うところだが、自前の鉄道で、しかも25両編成の臨時列車を3本も仕立てて深夜の引越し大作戦が行われたという。引越しの最後は駅長以下駅員全員が列車でそのまま東京駅へと移動、夜も明けて朝を迎えた真新しい東京駅で、そのまま勤務に就いたとか…。

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元の新橋駅はこの12月20日をもって貨物を扱う駅になり名前も汐留駅と改称、代わって烏森駅が「新橋」を名乗ることに。もともと仮の駅だった呉服橋駅は東京駅への発展的解消となり廃止される。
この時点で汐留駅には新橋駅時代の車両工場などがそのまま残されたが、大正4年7月の工場機能の大井工場(現在のJR東日本東京総合車両センター)移転などで貨物駅としての色が濃くなっていく。汐留川に接した部分には艀の荷役場が出来、大正5年5月にはクレーンなど大型機械がつくられる。

しかし大正12年9月1日、関東大震災が発生、汐留駅は火災により新橋駅以来の駅舎を始め構内の殆どを焼失してしまう。汐留駅は応急復旧が行われるが、すぐ近くの築地では東京中央卸売市場、通称築地市場が建設される。それまで東京の台所は日本橋だったが、震災を期に帝都復興事業としてこの地に移転したのだった。
これを受け汐留駅からは築地市場へ直接青果や鮮魚を運べるよう、1.1kmの線路が延長されることになる。昭和10年2月11日開業の東京市場線である。市場には半円形の建物に沿うように東京市場駅が設けられ、全国から貨車が集まった。相前後する昭和11年3月には汐留駅の震災復旧が完成して、かつての新橋駅とその周辺は、ガラリと趣を変えていく。

こうして汐留駅、それに東京市場線は賑わいを見せるが、やがて太平洋戦争が勃発、昭和20年3月10日の東京大空襲ではどちらも被害を受けてしまい、汐留駅は上屋の一部を焼失、東京市場駅は駅舎と停まっていた貨車を焼失、汐留駅はさらに5月24日には倉庫やホームの一部を失い、終戦を迎えることになる。
戦後の汐留駅には進駐軍の鉄道輸送管理部門、通称R.T.O.が置かれ、朝鮮戦争の時は米軍傷痍兵専用列車が乗り入れるなど、あまり冴えなかったようだが、ようやく「戦後」を迎えた昭和30年代からは構内の改良が再開され、昭和34年11月5日には汐留-梅田間に初のコンテナ特急「たから号」が電気機関車に牽かれて運転を開始、東京市場線共々忙しく走り回っていた貨車の入換用蒸気機関車はディーゼル機関車に交代するなど、明るい話題にも恵まれていく。

続いて高度経済成長を象徴する東海道新幹線開業を前にした昭和39年8月から、東京駅で扱われていた手小荷物列車は汐留駅発着とされ、汐留駅は貨物・荷物両方の列車を受け入れるようになる。勢い隆盛を極めた汐留駅だったが、実際はパンク状態となり急ぎ東海道貨物線と合わせ大井埠頭にコンテナ列車用の貨物駅がつくられる。一方の東京市場線には昭和41年10月に運転を開始した九州からの冷蔵貨物特急「とびうお号」が乗り入れるようになり、イキの良い鮮魚が東京に出回ることになったが…。

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この後、汐留駅、東京市場線の運命は変わっていく。ピークは長続きしなかった。東名・名神高速道路の開通や国道の整備、トラックの性能が大幅に向上したことにより、国鉄の貨物・荷物輸送は斜陽化を迎える。鉄道輸送とは比べものにならないスピードアップを実現してしまったのだ。かつて一級国道といえども砂利道があったり、峠道などはぬかるんだドロンコ道、貨物や荷物は鉄道輸送が当たり前だった常識は打ち破られてしまう。
やがて汐留駅、東京市場駅共に貨物・荷物の取扱量は減少を辿り、国鉄の分割民営化を目前に荷物輸送の廃止、貨物輸送の大幅見直しが断行されることになる。まずは戦前から青果・鮮魚を満載した貨車で賑わった東京市場駅が昭和59年1月31日をもって廃止されてしまう(ただし昭和62年1月31日までは貨物引込線として使用を続けた)。のち駅の跡は舗装され、ライバルだったトラックが代わって並ぶようになった。
続いて昭和61年10月31日の夜、汐留駅から最後の荷物列車が門司へ向け出発していった。汽笛一声新橋を…からの114年余りにも及ぶ長い歴史に終止符を打ったのだ。

汐留駅は国鉄清算事業団に移管され、跡地は売却されることになった。昭和11年から続いた駅舎や何度も改良が続けられた線路、戦災を受け建て直された上屋などは全部撤去されたが、驚く事に元の新橋駅の遺構が現われた。かつてのホームや車庫の基礎などがそのまま埋まっていたのだ。他にも江戸時代の屋敷跡なども出現したが、なにより日本の鉄道創世記の姿がこの時見られるとは、誰も思わなかったことだろう。売却され再開発されるはずだった駅跡地はしばらくの間「発掘作業」の場となり、ようやく再開発が進んだのは最近の話というのはご存知のとおり。ゆりかもめの汐留駅開業が遅れたのもこの理由があったからだ。
この縁があってか、現在はかつての新橋駅舎が元の場所に再現され、鉄道発祥の地としての記念碑として存在している。

元の場所に再現された新橋駅舎
元の場所に再現された初代新橋駅舎

いっぽうの東京市場線は道路となり、そこに線路があったことを伺わせる。驚くべき事に、歴史の生き証人というべきものが今も残されている。

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再現された新橋駅舎から海岸通りを少し進む。この海岸通りはもともと汐留川沿いの細い道で、現在汐留川は多くが埋め立てられて海岸通りは拡幅され、上には首都高速道路KK線が走っている。しばらくするとシオサイトの向かい側には、一本の踏切警報機が立っている。

シオサイトと海岸通り 踏切が残っていた!
シオサイトと海岸通り 踏切が残っていた!

この警報機は東京市場線が海岸通りを横切る時に使われていたもので、当初は撤去される予定だったが地元町内会から「都民の暮らしを支えた東京市場線の警報機が消えるのはしのび難い」という申し入れがあり、築地市場、東京都中央区教育委員会などの協力もあって、そのまま残されたという。また隣には「銀座の柳二世」も植えられ、昭和初期からのこの界隈の雰囲気を伝えている。

首都高速を跨ぐ線路跡 朝日新聞社横は線路跡
首都高速を跨ぐ 朝日新聞社横の線路跡

東京市場線の跡はその先で1車線分の道となり、首都高速道路都心環状線の上を跨ぎ、朝日新聞社の横を通って築地市場の前に現われる。線路跡はそのまま築地市場へと吸い込まれていく。
その先、築地市場の青果部の横を通り、円形になっている水産物部の脇で線路は終わっていた。昔は多くの貨車が停まっていたことだろう。ここが東京市場駅の跡だ。良く見ると現在の水産物部の建物の下の部分は、かつてホームだったことが伺える。

築地市場青果部 築地市場水産物部 東京市場駅ホーム跡
築地市場青果部 同じく水産物部 建物の下にはホーム跡が残る

東京の台所として関東大震災以後長く続いた築地市場だが、最近は建物の老朽化などで移転話が持ち上がっているのは全国的にも有名。ただ移転先候補地に今ひとつの不安があるようではっきりした移転時期はアナウンスされていないが、早晩この場所も過去帖入りするのは間違いないだろう。その時東京市場駅の跡も消えてしまうだろうが、あの踏切だけは、東京の歴史を、そして鉄道の歴史を伝える重要な存在であり続けることを願うばかりだ。


鉄道開業以来、歴史を語り続けてきた新橋・汐留界隈…。今は時代の最先端を行くスポットとして注目を集めていますが、その影で、地道に存在をアピールするものが残されていたのです。

次は、あの不運の駅の話題を再び取り上げてみましょう。

【予告】 万世橋の謎 2

―参考文献―

鉄道ジャーナル 1976年10月号 なんでもはじめて!鉄道サービス百年史 鉄道ジャーナル社
鉄道ピクトリアル 2003年12月号 汐留駅と東京の臨港鉄道 -歴史と現状 鉄道図書刊行会
JTBキャンブックス 東京駅歴史探見 JTB

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