Rail Story 13 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 13 

 里帰りした電車たち 3

阪神電鉄8000形現在の大手私鉄には路面電車に端を発するものも珍しくない。従って電車のスタイルも路面電車然としたものでスタートしたものが多かった。
ただしかつて馬車時代から「運転台は殆ど外」という概念があり、今も愛知県の明治村で走っている元京都市電(通称N電)を見れば一目瞭然だが、出入口と運転台は車体に付けたもの…というスタイルだった。しかも出入口にはドアもない。
これでは雨など荒天の時は運転士の苦労が偲ばれるというもの。やがて正面にはガラス窓が設けられ、出入口にはドアが付き、運転台は車内に取り込まれる。ただし今のような独立した「運転室」が設けられるのはずっと後の話で、最前部が若干張り出していて、そこが「運転台」というものだった。

各社共に路面電車同様1両の運転で開業するが、将来の連結運転に備えて連結器を装備していたなど、いずれは郊外電車に発展しようという意思がどこかしか表われていたのは確かだ。その後路面電車としてはいささか大きな電車が各社に登場する。運転台は既に存在したものの出入口とは簡単な仕切りがあるだけだったが、この頃から運転台部分が縦割りの円柱状で、正面が5枚のガラスで構成されたものが見受けられるようになる。

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大正13年、阪神電鉄(以下阪神)にデビューした371形電車は、3年前に製造された321形をそのまま鋼製車に仕立てたものだった。正面はやはり5枚窓。これは321形も同じだったが、阪神の路線は軌道法の適用を受けながらも「線路の一部が道路に接しておればよい」という監督官庁のお墨付き…というより拡大解釈を得て、路面区間を独立した専用軌道へと改良を進め、郊外電車としてのカラーを強めていく。
のち阪神が製造した電車からは出入口のステップが姿を消し、正面の救助網もなくなり路面電車のイメージは弱くなってしまうがそれもそのはず、昭和8年6月17日に神戸市内の岩屋-三宮間の地下化が完成して、阪神の本線からは路面区間そのものが無くなった。

阪神371形は昭和4年に600形と改番され、のち路面電車スタイルを捨て郊外形へと変身を遂げるが、正面の5枚窓は後輩の800形も同じで、他社の同スタイルの電車と違い中央の窓はドアになっていた。
この電車を運転する時は運転士は真ん中の窓に向かうことになるが、肝心の窓はドア兼用、連結運転時は通路となるためコントローラー(クルマでいうアクセル)はドアの左、ブレーキはドアの右にやや離れて設置せざるを得なかった。その結果、この電車を運転する時は両腕を広げた格好になることから、付いた仇名が「バンドマン」。ジャズバンドのドラマーがスティックも軽やかに演奏する光景を連想させたようだ。

阪神は初期の木造車の鋼体化を含め電車の製造を進め、正面の5枚窓は3枚になり、運転台も運転室に昇格する。続いて昭和11年に登場した851形は正面のドアが2枚の折戸となり、しかもガラスはずっと下までとされ、そこを斜めの取手が飾るという洒落たデザインを採用した。そのドアの高級イメージから、付いた仇名が「喫茶店」。客室窓には天井との間に明かり窓が追加されていたが昭和16年製造の881形は明かり窓が廃止になり、少しずつ太平洋戦争の影が迫ってくる。

ここまで阪神に登場した電車は、何故か木造車321形以来の全長14mを守っていた。

昭和20年8月15日、終戦。阪神は復興の槌音高らかにその年の12月30日に急行を復活させた。しかし戦後の技術革新は昭和29年10月1日、新設された特急でデビューの3011形で花開く。梅田-三宮間をノンストップ25分で走破、「世界最高の性能」と謳われたが何より全長は18mに、幅も50cm程拡大され現在のスタイルを確立したのもこの電車だった。戦前に製造された全長14mの電車は「小型車」の烙印を押され、ホームとの隙間が出来てしまうためドアには路面電車時代のステップに代わり出っ張りが付けられる始末。

昭和33年以降、普通電車に俊足の特急をかいくぐる高加減速を誇る通称「ジェットカー」が登場、大型車に伍して活躍した阪神の小型車は引退することになり相前後して地方私鉄に移籍していく。その一つが和歌山県の野上電鉄だった。

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野上電鉄(以下野鉄)は現在のJR西日本紀勢本線海南駅に程近い日方から貴志川沿いに登山口を結んでいた私鉄。大正5月2月4日の日方-紀伊野上間の部分開業の後、大正11年10月16日に生石口(後の登山口)まで全通した。起点が紀勢本線と同じ海南駅でなかったのは、野電が先に出来たからだ。

阪神から小型車が引退する頃、ちょうど野鉄はそれまで走っていた電車の体質改善を考えていた。両社はレールの幅が違う(阪神1,435mm、野鉄1,067mm)が、野鉄が欲しかったのは車体だけで、足回りは既存の流用か他社からの調達で考えていた。
ともかく阪神から車体が移籍することになり、バンドマンや喫茶店も含めて12両が温暖な和歌山へと旅立っていった。

野鉄では元阪神の小型車がちょうど使い勝手もよく重宝されたが、やがてモータリゼーションの波が押し寄せ、昭和40年をピークに輸送量は減少の一途を辿るようになる。やがて臨時株主総会が開かれ全線の廃止とバス転換が決まり、昭和48年4月には路線のほぼ中間点の沖野々から登山口までの廃止申請が行われたが、野鉄労組との話し合いがつかず、またバスを走らせようにも当時道路事情があまり良くなかったようで話は先送りされていた。
そんな矢先に起こったのがオイルショックだった。野鉄の輸送量は僅かながら上昇に転じ、一旦は廃止に同意した地元も反対に回るようになり、野鉄にはどうにか存続の道が見つかった。

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その後も野鉄は踏みとどまったが、平成6年3月31日、命運尽きてしまった。元阪神の小型車もとうとう引退することになったが、阪神は2両の里帰りを決めていた。元阪神600形604号の野鉄モハ24号と、同じく元1141形1150号のモハ32号だった。2両は翌4月1日夜、野鉄の日方車庫に別れを告げ3日の早朝には阪神の尼崎車庫に戻ってきた。そのまま車庫では阪神時代の姿に戻すべく9日からレストアが行われ、7月20日には懐かしい「バンドマン」が蘇った。
しかし翌平成7年1月17日早暁、忘れもしない阪神大震災が発生し甚大な被害をもたらす。幸いにもこれら2両の電車は被災を免れ平成8年6月22日に無事尼崎センタープール前駅近くの高架下、阪神電鉄運輸部教習所の横に安住の地を得た。

阪神電鉄600形 阪神電鉄1141形
里帰りを果たした阪神604号 同じく1150号

2両は完全な阪神時代へのレストアはされなかった。というのも足回りは1,067mmの野鉄時代のままで、むしろ電車の歴史を残したものでもある。高架下は高いフェンスに囲まれているが、2両の姿を見ることが出来る。

「バンドマン」阪神600形604号は、阪神で38年、野鉄で34年と、72年の長きに亘り走り続けた。今や阪神、いや日本の私鉄界の歴史を語る上で貴重な存在であると言えよう。


「バンドマン」と並ぶ阪神の名優、「喫茶店」の姿が今は見られないのは残念ですが、ともかくなかなか的を得たセンスあるネーミングだとは思いませんか?さらに「金魚鉢」なんて電車もあったのです。

次はもう少し西からの話題です。

【予告】 里帰りした電車たち 4

―参考文献―

鉄道ファン 1972年4月号 命脈せまる南紀の電車-野上電気鉄道- 交友社
鉄道ピクトリアル 2000年4月臨時増刊号 釣掛電車の響き 鉄道図書刊行会
関西の鉄道 1997陽春号 阪神間ライバル特集 関西鉄道研究会
関西の鉄道 2005盛夏号 阪神電気鉄道 山陽電気鉄道 関西鉄道研究会
私鉄電車プロファイル 機芸出版社
JTBキャンブックス 私鉄廃線25年 JTBパブリッシング

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