Rail Story 12 Episodes of Japanese Railway レイル・ストーリー12

 四つ橋線の謎 2 (前編)

関西の大手私鉄路線には地下に駅がある路線が多い。一番早かったのは現在の阪急京都線で、京都市内を地下線として開業(当時は京阪)、阪神がそれに続く。戦後は大阪市中心部への乗り入れが認められ京阪、近鉄も地下線で進出したが、現在までに唯一地下で電車を見ることが出来ないのは南海電鉄(以下南海)だ。

なぜ南海だけが地下から取り残されているのだろうか。

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もっとも、南海が大阪で地下鉄進出を計画したことは知られている。昭和38年3月の運輸省(現在の国土交通省)の諮問機関、都市交通審議会の答申第7号で天下茶屋-天神橋筋6丁目間の路線が、その緊急性から「早急に建設すべき路線」として認められる。現在の地下鉄堺筋線だ。
ところが当時地下鉄堺筋線は大阪市、阪急、南海がそれぞれ計画を打ち出していた。建設主体や電車を運行する会社も早急に決められるべきであったが、三者の併願では審議会でも収拾がつかなかったようだ。

その後三者による話し合いは持たれ、結局大阪市が路線を建設することになり、阪急、南海は地下鉄に「乗り入れる」ということが決まった。しかし、三者の路線規格は当時見事にバラバラで、電車を直通運転する手だても見つからず、またもや収拾がつかなくなってしまう。
結局昭和40年に当時の近畿陸運局長の裁定で、阪急の規格をもとに大阪市が堺筋線を建設、阪急が乗り入れることに決まり、南海は涙をのんでその年の10月に出願を取り下げることになったのだが…。

どうやらこれには伏線があったようだ。というのも地下鉄堺筋線が出来れば、阪急は千里線との直通運転をすることが出来る。確かに現在そのような運行もなされているが、大阪府がデベロッパーとなって開発した千里ニュータウンと大阪市内を結ぶもう一つの鉄道路線としての期待が掛けられていたようで、それには既に千里線を持つ阪急が乗り入れれば一石二鳥、しかも来る万博輸送にも応援を求めることが出来るという大阪市、さらには大阪府の目論みがあったのだろう。

堺筋線の計画そのものはもっと前に動き出していた。昭和33年3月の都市交通審議会の答申では、既に天神橋筋6丁目-天満(大阪環状線に接続)間の路線が低い評価ながらも答申されており、同時に天満-動物園前間の路線も含まれていた。地下鉄堺筋線の計画はこの時点で動き出していたことになる。
しかも天神橋筋6丁目-天満間は事業主体が阪急となっており、実は阪急はこの間の路線免許を申請、昭和34年2月に免許を取得していた。もしかしたらこの時点で阪急が地下鉄堺筋線を走ることが約束されていたのかもしれないが、それはかつて新京阪時代に天六ビルを貫通して路線を延長する計画が具体化したものだったのか…。

南海は地下鉄への進出が出来なかった。しかしこれは二度目の出来事だった。

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地下鉄堺筋線のルーツは昭和33年の都市交通審議会答申だったが、同時に地下鉄四つ橋線大国町-西梅田間も同じ低い評価ながらスタートを切っている。ところがこの計画を最初に持ち出したのは大阪市ではなく南海だった。

大阪市が、あの「市営モンロー主義」の限界を感じ、関西の私鉄各社に市内中心部への進出を認めるようになったのがちょうどこの頃だが、南海が大阪ミナミの中心である難波からキタの中心、梅田への路線建設を考えたのはむしろ自然と言えよう。
昭和31年10月に行われた都市交通審議会では私鉄各社が市内中心部への延長線計画を発表、その中で南海が持ち出したのがこの話。ところが他社が既に免許申請まで行っているなど、根回し良くかなり具体的なところまで練ったものまであったのに、この時の南海は「梅田まで路線を延ばす計画ならあるんですが…」という程度の、ただの案に過ぎなかった。

これではいけないと南海は考えたのか、次の審議会が4日後に迫った、まさに期限ギリギリの昭和32年5月20日に今宮戎付近-梅田間の路線を申請する。そのルートは南海本線を難波手前で分岐、大阪球場(現在のなんばパークス)の西側の新川下水跡を北上して国鉄湊町駅(現在のJR西日本JR難波駅)付近から西横堀川の下を梅田まで走るものとされ、南海西横堀川線と名づけられた。
都市交通審議会の席上、南海は改めてこの梅田進出案を発表するものの、今ひとつ説得力に欠けたのか審議委員には「そんな半年ちょっとでホンマに計画出来とるんやろか?」と疑われてしまう始末。

現在の新川下水跡 上は阪神高速
現在の新川下水跡 阪神高速が上を走っている

そんな南海に待ったをかけたのが大阪市だった。それまで全く計画になかったはずの地下鉄3号線(現在の四つ橋線)の大国町-西梅田間の延長案を持ち出したのだ。
確かに当時地下鉄1号線(現在の御堂筋線)の混雑はひどく、降りようと思っていた駅でドアまでたどり着けず、ようやく電車を降りたのは次の駅だったという話もよく聞く。1号線には一刻も早くバイパス線を建設しなければならない事情もあったのは確かだ。大阪市は南海とほぼ同じルートを計画する。なぜか新川下水跡を経由するところまで同じだった。

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南海と大阪市が目的は違うながらもほぼ近似した路線の建設を打ち出したために、昭和33年3月の答申では建設主体が明記されないまま両社の計画は一本化の方向で継続審議されることになる。
南海は路線申請を済ませていたのに大阪市は特許申請に至っておらず、この段階では南海がリードしていたものの、南海の社内では西横堀川線計画がなぜかトーンダウンしてしまう。これには諸説があるようだが、ともかく審議委員にはウケが悪かったようだ。

審議は昭和37年3月まで続いたが、結局大阪市の熱意が実り地下鉄3号線を延長することで決着する。この年の9月、南海は西横堀川線の路線免許を得られないまま申請を取り下げてしまう。これを受けて南海は堺筋線建設を目指すことになったのだが、乗り入れも含め実現には至らなかった。大阪市が建設した地下鉄3号線は当初予定の新川下水跡の下を走る予定だったのが、ここに阪神高速1号環状線を建設することになった結果、大国町からそのまま四ツ橋筋を北上することになり、1号線や南海との接続は既存の難波駅とは少し離れたところに位置する「難波元町駅」(のち難波駅に統合)となった。
仮に南海が西横堀川線を建設し得たとしても、同様に新川下水跡には路線を建設出来なかったのは容易に想像され、南海難波駅とは直接接続は出来なかっただろう。それに難波発着系統の列車と、西横堀川線直通系統の列車の相互接続をどの駅で行うつもりだったのかは、今となっては明らかではない。

キタへの進出が成らなかった南海は、大阪万博終了後にターミナルの難波駅改造に着手する。駅全体を地上2階から3階へと持ち上げるという大規模な工事だったが、同時にショッピングゾーン「なんばCITY」もオープン、キタの阪急に勝るとも劣らない一つの「街」が出来上がった。


こうして一旦「地下」と決別した南海ですが、再び地下への誘いが舞い込んできます。ところがそれはまたしても…。

次はまたも南海に降りかかった悲劇の話です。

【予告】 四つ橋線の謎 2 (後編)

―参考文献―

鉄道未成線を歩く vol.1 1京阪・南海編 とれいん工房
鉄道ジャーナル 1999年9月号 速報:運輸省の「都市鉄道調査」 鉄道ジャーナル社
鉄道ピクトリアル 1998年12月臨時増刊号 <特集>阪急電鉄 鉄道図書刊行会

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