Rail Story 12 Episodes of Japanese Railway レイル・ストーリー12

 奈良電の足跡 (前編)

平成のこの世では、もはや奈良電という会社はない。それは現在の近鉄京都線であり、かつての奈良電気鉄道の略称というのはよく知られている話である。
しかし近鉄のネットワークを形成する路線にありながら、比較的長い間独立した会社として存在したことは大阪線や名古屋線と性格を異にしているが、その割には近鉄の影響下にあった時間も長かったという、不思議な路線でもある。

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近鉄8600系電車明治末期から昭和初期には、今に至る関西私鉄路線の形成が進んだ。その中で京都と奈良を結ぶ路線が計画されたのは、ごく自然な流れでもある。大正8年11月3日、奈良電気鉄道の名で京阪電鉄の中書島駅から小倉、祝園、木津などを経て大阪電気軌道(以下略して大軌。現在の近鉄)の奈良駅(現在の近鉄奈良駅)へと向かう路線の免許申請が行われた。

このルートには後日競合する他社、関西電気軌道が参入した。こちらは京都七条から宇治、田辺、木津を経由して奈良へ向かうものだったが、二社の併願というのもどうかと鉄道省の勧告もあり両社は協議の上で合併、改めて奈良電気鉄道が路線の建設を進めることになり、大正11年11月16日に路線免許を取得した。この時途中の田辺から京阪の八幡町(現在の八幡市)へ至る支線も免許を受けたが、これは未成に終わっている。

奈良電が始めに路線を計画した頃はちょうど第一次世界大戦が終わったばっかりで景気も良かったが、やがてその景気も頭打ちになり不況が訪れる。奈良電もやはり影響を受けてしまい、なかなか事業を進めずにいたところに他社の参入騒ぎがあった訳で、逆に言えばこの事が起爆剤になって路線の建設にハッパが掛かったとも言えよう。

路線免許は下りたものの相変わらずの不況で工事は進展を見ず、奈良電首脳陣はルートを短くして建設費を浮かすことを思いついた。具体的には両端で既存路線へ乗り入れれば、自社区間を短く済ますことが出来る。まず奈良側は大軌の西大寺駅へ乗り入れ、奈良までは大軌乗り入れとする。こうすると木津を経由せずストレートに西大寺へ向かうことが出来る。
また京都側は京阪宇治線へ乗り入れて中書島まで電車を走らせれば、当初の計画よりも4.3kmの短縮が可能というものだった。これらは同時に乗り入れ先の大軌・京阪にとっても自社のネットワークの一部にもなりうるもの…という結論になり、結果的に両社が資本参加するという形に発展する。
奈良電は大軌・京阪両社との間に1時間あたり10往復の乗り入れを契約、これに伴う路線免許の変更も大正13年10月25日に受けられた。ようやく路線の建設がスタートしたが、結局奈良電の株の半数弱は大軌と京阪が保有することになった。

しかしこの頃既に奈良電は自社路線を大阪へ延ばすことを考えていた。これが後のトラブルに発展するとは…。

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路線の建設は平坦な区間ばっかりの小倉-西大寺間から始まり、小さなルート変更はあったものの比較的順調に進んだという。ところが京阪への乗り入れは宇治としたものの若干遠回りになるのは否めず、当初の計画通りストレートに中書島駅付近へ進み、さらに伏見桃山駅まで線路を延ばしてここを京阪との乗り入れ地点とした。どうやら建設開始当初の不景気はこの頃には少し上向きに転じ、それでこのような変更がなされたようだ。大正15年12月15日にこの変更は免許されたが、そのたった10日後に大正天皇が崩御、昭和天皇の即位大式典が昭和3年11月に京都で挙行されることが決まり、奈良電はそれに間に合うよう路線の建設を急ぐことになったが、いくつかの大きな問題に直面することになる。

まずは京阪中書島駅の東約500m付近で宇治川を渡る必要がある。さっそく全長149m、橋脚6基の鉄橋が設計されたが、当時この付近の宇治川河川敷は日本陸軍京都師団工兵第16大隊の演習場で、しかも架橋の演習が行われているとあって、その橋脚は邪魔…と軍からクレームがついてしまった。
続いて京都府から桃山御陵の参道である大手筋との平面交差は認められず、奈良電はこの付近を地下線とする計画を発表したが、ここは昔から酒造で有名な伏見。たちまち酒造組合から「肝心の地下水が涸れたらどうしてくれる」とクレームがつき、結局高架線での建設を余儀なくされた。この一件が発端になり伏見町議会は町内に建設される鉄道路線を全て高架線とするよう決議する。
さらに当初この先は京阪に乗り入れて三条まで電車を走らせる予定が、既にこの頃には京阪の列車本数が増えており、奈良電の乗り入れに難色が示されてしまう。やむなく奈良電は単独で省の京都駅進出をすることにし、ルート変更で廃線になった鉄道省奈良線(現在のJR西日本奈良線)の路盤などの払い下げを受ける前提のもと、昭和2年9月28日に免許を受ける。

もっとも省の奈良線は奈良鉄道という私鉄だったがのち国有化、大正10年8月1日に東海道本線が東山トンネルを経由する現在のルートになった際に、奈良線は桃山-稲荷間の中間点付近から琵琶湖疏水沿いに京都駅へ至る旧東海道本線ルートに、まるで玉突きのように移行している。最初に奈良鉄道が建設した区間は奈良電に払い下げられることになり、京都駅乗り入れは実現へ向かう。ちなみに残りの東海道本線廃線跡は名神高速道路深草バス停付近-大津トンネル付近の間に生まれ変わっている。

ただし省の奈良線には桃山-伏見間の短い区間が貨物線として残っていた。奈良電はこの間に乗り入れる必要が生じたが、町の決議により新規路線は高架線で建設しなければならない…。奈良電は鉄道省に対し共用での高架線建設を申し入れるものの、既にこの頃省の貨物列車は1日5往復程度で、そのためだけに高架化の費用を負担するのは無駄であり、省はあっけなく廃止を決めてしまったという。

こうして奈良電のルートは確保された。省からの払い下げは比較的順調に進んだが、何しろ工期がない。

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急ぎ奈良電は路線の建設を進める中、早くも首脳陣の間では路線の大阪への延長が画策されていた。これは奈良電が当初から観光路線であり、そのままでは安定した輸送基盤が得られないという判断があったからと伝えられている。そのため京都と大阪を結ぶという方向性をも打ち出すことになり、途中の小倉から大阪の玉造までの路線免許を申請した。

ところが前にも話したとおり、この時期全国に鉄道建設ブームが巻き起こっていたことは事実で、京都と大阪の間には他にも畿内電鉄、東大阪電鉄などの計画案が林立、京阪電鉄も省の片町線を電化して乗り入れる計画まで発表、混乱を招くことになる。しかも奈良電はまだ路線の開業すら至っていないというのに、奈良側の終点を西大寺ではなく直接奈良市内へ乗り入れる支線や、その先を南へと伸ばし桜井で参宮急行電鉄(現在の近鉄大阪線の一部)へ乗り入れて伊勢まで電車を走らせようと計画する。

さらに奈良電は自社の大阪延長線が認可されなかった場合に備えて東大阪電鉄に資本参加、なんと路線免許を両天秤に掛ける始末で、このような勝手な動きに大株主の京阪や大軌の心中は…。

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小倉から京都にかけては、工事施工認可の下りた区間から順次着工することになり、まずは桃山御陵前までの建設が先に進められることになったものの、宇治川を渡るためには軍との協議が必要、その妥協案は「途中に橋脚のない鉄橋」だった。これなら演習には支障しない。
つまり、1スパンで川を渡りきる必要が生じ、トラス構造で全長164.6m、総重量1,839tの巨大な鉄橋が設計されたが、着工は昭和3年4月1日のことで開業まで7ヶ月あまりしかない。果たして間に合うのだろうか。

結局この状況では国産に頼ることは無理と判断され、アメリカのベツレヘム社が全体の8割強を製造、残りは国産で賄うことになったものの、アメリカへの鋼材発注は電報しか手段がなく、電話はもちろんFAXやメールなどが揃った現在とは比べものにならない関係者の苦労が偲ばれるというものだ。輸入された部材は国内の工場で加工後すぐに艀に載せかえられて現場へと送られ、通常行われる工場での仮組み立てを省略、6月中旬から異例のぶっつけ本番で架設が始まったという。
この後も工事は急ピッチで進められ9月中旬には大きな鉄橋がその威容を現した。足場の撤去などが終わった10月16日に橋は完成をみた。

宇治川を渡る橋は「澱川鉄橋」と名づけられた。重量360tの列車同士がその上ですれ違っても大丈夫なよう設計されており、現在も近鉄京都線の重要な一部分である。

澱川鉄橋 鉄橋を渡る近鉄8000系電車
今も威容を誇る澱川鉄橋 途中に橋脚はない

澱川鉄橋の先は酒造組合・京都府からクレームがついて建設しなければならなくなった高架線だが、工事の認可が下り、着工したのは昭和3年6月2日のことだった。こちらは開業まで5ヶ月しかなかったが、何と9月末には鉄筋コンクリート造の堂々たる高架線が完成した。完成当時、周囲には大きな建物はなく、この高架線はひときわ目立ったという。

桃山御陵前駅付近の高架線 その高架下 桃山御陵参道の大手筋 大手筋を高架で越す近鉄京都線
桃山御陵前駅付近の高架線 高架下は店舗や駐車場に 桃山御陵参道の大手筋 高架で大手筋を越している

また当時存在した巨椋池の一部に堤防を築き線路を設ける工事は、4ヶ月に及ぶヘドロとの戦いとなったがこちらも決着、だが予定していた全線同時開業は省奈良線廃線跡の転用工事のため諦めざるを得なくなり、西大寺-桃山御陵前間の先行開業という形でどうにか目途がついた。

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昭和3年11月3日午前4時、奈良電桃山御陵前駅では華々しく開通式典が行われ、続いて満員の客を乗せた一番電車が奈良を目指した。残る区間の工事も鋭意行われ、順風満帆のように見えた奈良電だったが…思わぬ落とし穴もありその祝賀ムードは長続きしなかった。


奈良電が全線開業するまでには時間は要しませんでした。しかしそれとは裏腹に、奈良電を取り巻く環境は悪くなる一方…思いがけない多くの事件に襲われることになるのです。

次は、そんな事件と路線の謎に迫ります。

【予告】 奈良電の足跡(後編)

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 2000年12月臨時増刊号 【特集】京阪電気鉄道 鉄道図書刊行会
関西の鉄道 2003年新春号 近畿日本鉄道特集 PartX 京都線 懐かしの奈良電 関西鉄道研究会
JTBキャンブックス 近鉄特急(上) JTB
鉄道未成線を歩く vol.1 京阪・南海編 とれいん工房

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