Rail Story 12 Episodes of Japanese Railway レイル・ストーリー12

 新宿駅の悲劇 (後編)

予想外の進展を見せた京王新宿駅。しかしそれは思惑の違いが生んだ「悲劇」でもあった。どうにか一度目を乗り越えたものの、次なる悲劇が待ち受けるのは、そう遠い日ではなかったようだ。

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昭和47年5月、京王線には新車6000系がデビューした。この電車は京王の伝統を打ち破り、車体は20mクラスでドアが4つというもので、現在に至る標準サイズとなるものである。それまで、あの名車5000系でさえも車体は18mクラスで、これは通称「グリーン車」と同じものだったが、6000系は京王線だけでなく、将来の都営10号線(現在の新宿線)乗り入れを見越したもので、その活躍が期待されていた。

京王5000系 京王6000系
「名車」京王5000系電車 京王6000系電車

京王は昭和42年10月1日に開業していた高尾線で観光需要も増え、続いて多摩川支線を延長して多摩ニュータウンの足となる相模原線の開業を控えており、やがて6000系がその収容力を生かし、特急など優等列車にも進出を始めることになるが、肝心のターミナル、新宿駅は18mクラス7両が限界、それもたった1本のホームが対応しているに過ぎなかった。
もっとも7両編成運転開始の際には、京王から東京都に対し地下駐車場の一部を新宿駅の延伸に譲ってもらえないかと打診したことがあったという。しかしこの話は全く都に受け入れてもらえず、やむなく「4番線に蓋をして3番線ホームを延ばす」しかなかった。

この先は駐車場
この先は駐車場に阻まれている…

昭和50年には6000系が特急に進出、続いて相模原線が京王多摩センター延長開業されて、プロジェクトチームが予想したとおり、ジワジワと京王線の輸送量は右肩上がりの伸びを見せていた。京王は特急と一部の通勤快速の8両編成化を決断したが、これは再び新宿駅の改造を必要とした。つまり蓋をして閉鎖していた4番線を完全に撤去、さらに初台方にホームを延ばして20mクラス8両対応にすることだった。同時に1・2番線も少し改造して18mクラス7両対応にし、苦しいながらも輸送力増強に寄与するには、再びこのような新宿駅の「悲劇」が待ち受けていた。
昭和50年10月20日、8両編成になった6000系特急(一部通勤快速も)が京王線に走り出した。もっともたった1本のホームで8両編成の列車をさばくには2分30秒ほどの折り返し停車時間しか確保出来なかった。
しかし新宿駅には3本のホームしかない。もともとプロジェクトチームの試算ではラッシュ時の1時間に2分間隔、30本の列車を新宿駅に発着させるには3分程度の折り返し時間しか取れないという厳しい条件を前提としており、これは「想定内」の結果だったと言えよう。ただしこの時点で京王線全線の8両編成対応化は間に合っておらず、一部の駅では電車がホームをはみ出して停車、ドア締切の対処をする「見切り発車」だったという。

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昭和53年10月、都営10号線乗り入れを前提に新宿-笹塚間の複々線、通称「京王新線」が開業する。既存の京王線に並行して地下線をもう一つつくるという大掛かりなもので、地上に出たところに笹塚駅が高架で出現、それまでのイメージを一新した。続いて昭和55年3月16日、都営10号線新宿-岩本町間が開通、先に開業していた岩本町-東大島間と繋がった。これを機会に都はそれまで「○号線」としていた地下鉄路線に愛称をつけることになり、10号線は「新宿線」と名づけられた。同時に予定していた京王線・相模原線との直通運転も始まり、6000系電車が乗り入れを果たした。
さてこの時点でも京王線の10両編成運転計画が進められていたが、実際笹塚-調布間では京王線と相模原線直通の両方の列車が重複しており、ここでプロジェクトチームが気づいたのは都営10号線と直通運転を行う相模原線の列車を先に10両編成化すれば、列車の運転本数を抑えながらも京王線全線の10両編成対応化という設備投資を先延ばしすることが出来るという大きなメリットだった。しかも続々と入居が進む多摩ニュータウンの足、相模原線の輸送量の伸びにも対応出来る。

昭和56年9月1日、いよいよ10両編成運転が相模原線京王多摩センター-都営新宿線岩本町間を走る朝の通勤快速で始まった。ただし京王が目指しているのは全列車の10両編成化。都営線直通系統だけではまだ不足していた。やはりネックとなるのは新宿駅。さらなる拡張が必要とされていた…。

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ここまで話したとおり、新宿駅を拡張するには初台方へとさらにホームを延ばさないと10両編成の列車は収容出来ない。しかしホームに差し掛かる直前には上り線と下り線を平面交差出来るレール(シーザースクロッシングという)が設置されており、このレールを移設しないとホームの延伸は無理。ところが初台方は甲州街道に並行するようにカーブしており、その先は上り勾配でなおも地下線、シーザースクロッシングはカーブのない平坦部でないと設置は不可能という悪条件が重なった。
結局京王は初台方にあるカーブの先にシーザースクロッシングを移設するため、上り勾配をもう少し急なものに変え平坦部を捻り出すという苦肉の策を採った。それも電車の運転を妨げることなく工事を進めるという難工事だったが、これはプロジェクトチームの「新宿駅での最短折り返し時間は3分程度」という試算があってこそのものだった。

同時に1番線の線路を少し東寄り(JR線寄り)に移設、ホームの拡張も工事も行われ、昭和57年11月8日、新宿-高幡不動間の通勤急行・通勤快速が、待ちに待った10両編成で走り出した。

京王8000系 10両対応になったホーム
1番線に停車中の8000系電車 10両編成対応になったホーム

昭和62年12月、名車5000系の引退が始まった。これは国の「特定都市鉄道整備積立金制度」の適用を受けたもので、具体的には国から無利息で路線や電車の改良資金を借りられるというものだ。しかも積立金という方法を取り、工事が終わったら一部を運賃値下げという形で利用客に還元するという便利な制度だが、京王は工事の進捗と並行して京王線の電車を全て20mクラス4つドア車に統一することを決めた。京王線のイメージを変えた18mクラス3つドアの5000系電車は、徐々に役目を終えることになったのである。
平成元年4月には急行が10両編成に、平成4年3月には新宿-つつじヶ丘間全駅、翌平成5年3月には相模原線全駅、平成8年3月にはとうとう京王線全駅が10両編成化対応となり、朝のラッシュ時には特急から普通までの全列車が10両で運転されるようになった。電車も平成4年に今の特急の主力8000系が登場、工事が全て終わった平成9年12月28日、京王は運賃の9.1%値下げを実施した。

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昭和40年代前半、あのプロジェクトチームが打ち出した計画は、新宿-調布間の複々線化のみが成らなかっただけで、こうして完遂された。平成12年には大型化の先陣となり都営線直通を果たした6000系電車の後継車となる9000系電車が走り出したが、この電車の正面は名車5000系のイメージが受け継がれているという。また拡張された新宿駅は平成13年11月にバリアフリー化、サイン性の向上などを目的としたニューアル工事が行われ、翌平成14年4月26日にはすっかり生まれ変わった。新宿駅の「悲劇」はようやく終幕した。

京王9000系 リニューアルされた新宿駅
京王9000系電車 リニューアルされた新宿駅

昭和38年4月、新宿駅の地下化で終わったはずの京王の戦後は、実はここまで長く尾を引いていたのかもしれない。


モータリゼーション。今ではあまり聞かれなくなった言葉ですが、その波を受けて40年以上も彷徨い続けた京王新宿駅…。確かにこれは悲劇に間違いありません。その京王線と直通運転している都営新宿線ですが、こちらにも気になる話があるようです。

次はその話に注目してみましょう。

【予告】 都営新宿線乗り入れものがたり

―参考文献―

鉄道ファン 1978年2月号 特集:私鉄のターミナル 交友社
鉄道ファン 1995年4月号 京王5000系と阪急2800系・名車がんばる 交友社
鉄道ファン 1998年6月号 特集:地下鉄ネットワーク 交友社
鉄道ピクトリアル 2003年7月臨時増刊号 【特集】京王電鉄 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄1950〜60 鉄道図書刊行会

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