Rail Story 11 Episodes of Japanese Railway レイル・ストーリー11

 幻の路面電車 2 (後編)

現在京王線の新宿口は、都営新宿線直通運転を行う京王新線が新宿-笹塚間で地下を並んで走っており、複々線と同じ役割を果たしている。今では信じられないが、かつて京王線は新宿から先は甲州街道上や、埋め立て前の玉川上水沿いを路面電車スタイルを残したまま走っていて、急カーブも多く輸送のネックになっていた。しかも戦前にはもっと多くの駅があったという。
昭和39年の新宿-初台間地下化や後の地下区間の延伸以降、京王線の電車に乗っているとそんな過去など微塵も感じさせないが、意外なほどにその名残は今も多く見ることが出来る。

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京王新線笹塚-新宿間には幡ヶ谷、初台の両駅があるが、かつてこの二つの駅は京王線にあり幡ヶ谷駅は地上に、初台駅は地下にあったのを知る人は多いだろう。
ところがこの間にはもっと多くの駅が存在した。それらは戦前、もしくは終戦直前に廃止されていった。

大正2年4月15日、調布-笹塚間を開業した京王電軌は、以後新宿までの線路を少しずつ進めていく。同年10月11日には現在の幡ヶ谷駅の少し先、代々幡仮駅まで延長。ここからは甲州街道の南側を併用軌道(路面区間)として進み、幡代小学校前まで大正3年4月8日に開業している。この時点で代々幡仮駅は役目を終えている。
本設された代々幡駅は昭和9年に幡ヶ谷本町と改称、この駅を含む前後区間が玉川上水を暗渠にして専用軌道化された昭和11年には、幡代と再び改称している。駅の前には郵便局があり、ホームは鉄骨造の大きなアーチ型屋根が設けられて、けっこう目立つ存在だったと言われている。いっぽう幡代小学校前駅はのちに廃止されているが、その時期は明らかではないようだ。

幡代駅跡
幡代駅の前には郵便局があった

幡代駅の前にあった郵便局は今はなく、ライオンズプラザという大きなマンションが建っているが、建物の前にはポストがあり歴史を物語っている。またもう少し新宿寄りには幡代小学校前駅の名の由来となった幡代小学校が今もあり、往時を偲ばせている。

幡代小学校前までの開業に続き、同じく大正3年6月11日には代々木まで線路は延びた。この区間には二度の地下化を経て現存する初台駅も開業しているが、当初は改正橋という名前だったという。初台と改称したのは大正8年の話で、徳川二代将軍秀忠の乳母であった初台の局にちなんだものといわれている。地上時代は道路を挟んで上り・下りのホームが千鳥状に対向する、典型的な路面電車スタイルだった。現在は駐輪場となっている。

初台駅下りホーム跡 初台駅上りホーム跡
初台駅調布行きホームの跡 同じく新宿行きホームの跡

代々木駅は現在首都高速4号線が明治神宮の北西から甲州街道の上へとカーブする辺りにあった駅で、新宿ランプへの分岐部がちょうど駅のあった場所のようだ。大正8年には神宮裏と改称、続いて昭和14年には西参道と再び改称しているが、今もこの駅跡の間近にある交差点は、西参道を名乗っている。ちなみに駅が出来た時は明治神宮がまだ無かったとか。
この駅の近くで線路は一旦玉川上水を跨いだため、前後は半径60mのS字急カーブが存在したという。これが戦後の昭和25年の改良まで京王線の電車の大型化を阻んでいた。

西参道駅跡付近
今も名前を残す西参道交差点

さらに線路は新宿を目指していく。大正3年11月19日に新町駅までが開業、駅は玉川上水沿いから再び甲州街道へ移り、以後そのまま路上を進むことになる。
この区間には天神橋駅がつくられたが、他の駅と違い大正11年に貨物用のホームが設けられた。というのも京王が1,372mmという今となっては特殊なレール幅を採用したのは、沿線の多摩川で取れる砂利を貨物電車に積み、当時の東京市電に直通させることを見込んだものだったが、この話は不調に終わったようで、やむなく天神橋駅に貨物取り扱い施設を設けざるを得なかったと言われている。多摩川の砂利はここからトラックなどに積み替えられていったのだろう。
また新町駅は初代京王新宿駅が出来た昭和2年10月28日に位置が変わっており、甲州街道から少し斜めに外れた場所に移動している。初代新町駅は少しだけ新宿寄りの路上にあったという。

天神橋駅跡 新町駅跡
天神橋駅跡に残る京王の変電所 新町駅の場所は今もそのまま

天神橋駅には変電所が併設され、その東側に貨物ホームがあったようだ。またこの変電所は現在も京王線に電気を送っており、その名も天神橋変電所のままだが、終戦直前に爆撃を受けて使えなくなった変電所の一つでもあり、結果的に京王が新宿東口からの撤退を決めざるを得なかったという、曰く付きの所でもある。
この先線路跡は現在の文化女子大の前を通り、甲州街道に沿う形となっていた。なお現在の京王線は文化女子大の前の地下から甲州街道の一つ南側の通りの地下を経由して新宿駅へ至っているが、これは新宿駅を出てすぐのカーブを緩和するためだった。代わりに今は京王新線と都営新宿線の新宿三丁目駅までがこの先、かつてのルートをトレースしている格好だ。

そして甲州街道の西新宿2丁目交差点にあるKDDビルの向かい、ニッポンレンタカーの前が不自然な三角地帯になっているのに気づくが、ズバリここが大正14年に移転した二代目新町駅のあったところだ。戦後も引き続きここで甲州街道を斜めに横切っていたため、今もその形だけが残っている。

大正4年3月31日には新町-葵橋間が開業。続く5月1日には省線(今のJR線)新宿駅を陸橋で越えて新宿仮駅まで延長し、同月末の31日には新宿三丁目交差点の新宿駅まで延長を果たす。この時は省線の新宿駅の西口が葵橋駅、東口が停車場前駅という位置づけで、省線越えも甲州街道上ではなく、今行われている新宿南口改良の甲州街道仮陸橋のように、一旦南にずれて専用の陸橋を設けていた。。
後に大正14年には省線新宿駅南口の甲州街道上に線路を移設、葵橋駅は省線新宿駅南口に移転した停車場前駅に統合され、停車場前駅自身も昭和12年には省線新宿駅前と改称している。

葵橋駅跡付近 線路は新宿東口へ
葵橋駅のあった辺り 京王線はこの先新宿東口へ向かっていた

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新宿東口へと進出した京王は、本社ビルの建設と並行して京王新宿駅を建設、昭和2年10月28日に移転開業した。この時点で京王は東京市電との直通運転を断念したことになるが、不調に終わったはずの直通は、一時期だけ限定的に実施されていた。
それは大正12年の関東大震災によるもので、翌年には震災復興のため新宿三丁目交差点で京王と東京市電のレールは繋がり、市電の貨物電車が砂利を取りに乗り入れていたという。おそらく京王が砂利輸送のために建設した今の相模原線の前身、多摩川原支線までトコトコと走っていただろうと思われる。

また同じ頃、郊外電車への脱皮を図っていた京王は、開業当初から使っていた4輪単車を持て余していた。そこで震災被害の大きかった横浜市電を救済すべくこの4輪単車を譲渡することになったが、この時はまだ東京市電と京王のレールは繋がっていない。そのため京王から横浜へ旅立つ電車は新宿三丁目交差点で一旦脱線させ、再び東京市電のレールに納めたあとは、電車は高輪で線路が繋がっていた京浜電鉄線(今の京浜急行)に乗り入れて長躯横浜まで自力で走っていったといわれている。この頃は京王、東京市電、京浜電鉄は全部同じ電圧・レール幅だった。

結局幡ヶ谷-新宿間にあった駅は終戦直前の昭和20年7月26日、新宿駅の移転と同時に整理されることになる。幡代・西参道・新町駅は廃止となり初台駅だけが残った。また天神橋駅はそれ以前の昭和16年に廃止されていたようだ。

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京王線幡ヶ谷-新宿間は地下化されてしまったが、実際に線路跡を歩いてみると、ところどころに換気口があって時折電車の音が聞こえてきて、かつての線路との関係が判る。玉川上水は京王線の地下化後まもなく淀橋浄水場の廃止で埋め立てられたものの、現在は線路跡と共に多くが緑地として整備されており、散策を兼ねてかつての名残を訪ねることが出来る。

今も残る三字橋
玉川上水を渡っていた三字橋

甲州街道と山手通りの交差点の少し新宿寄りには、玉川上水を渡っていた「三字橋」(みあざばし)が残っている。
今は橋の下を流れていた水路はなく欄干だけがあるだけだが、橋はここに水が流れ、寄り添うように京王の緑色の電車がのんびり走っていたという事実を、もちろん知っているだろう。その水は長く人々を潤したが、今はその跡が人々の潤いの空間となっているに違いない。


東京の、しかも新宿という副都心にありながら、こんな静かな空間があり、しかも電車の線路が持つ歴史までもを教えてくれました。歴史も意外ながら、存在も意外でした。

次は東京の郊外でひっそりと消えた路線の話です。

【予告】消えたモノレール

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 2003年7月臨時増刊号 【特集】京王電鉄 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄 鉄道図書刊行会
鉄道ダイヤ情報 1997年2月号 総力特集 京王帝都1997 弘済出版社

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