Rail Story 11 Episodes of Japanese Railway レイル・ストーリー11

 見果てぬ夢(中編)

開業直後に思わぬトラブルで市内中心部へのアクセスを断たれた京阪だったが、その後も夢は捨てなかった。

前述のように京阪は路線の性格上、高速運転に向いたものではなかったために、淀川の西岸に高速新線を作るべく計画を進めた。その時、大阪側のターミナルは天神橋ではなく梅田を目指していたが、これは鉄道省城東線(今のJR西日本大阪環状線の東半部)の高架化に伴う遊休地払い下げを見込んだものだった。
結局払い下げは新線である新京阪の開業には間に合わなかったが、この払い下げにまつわる様々な興味深い話が残されている。

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大正8年、鉄道省は地平を走っていた城東線の高架化と電化を計画した。このときの計画では既存の線路よりも少し外側に路線を移すことになっており、具体的には現在より東側に1km程離れるものとされていた。
翌大正9年が明けてまもなく、その計画を聞きつけた京阪は遊休地を用いて京阪線並びに計画中の新京阪線の梅田乗り入れを計画、早速鉄道省との交渉を行った。5月20日には両者で覚書が交わされたが、その内容は「京阪が城東線の払い下げを受ける代償をもって鉄道省は同線の高架化を実施する。これを超過した分は京阪が負担する」というものだった。
京阪は敷地だけでなくレールなど施設一式も手に入れることが出来たが、巨額の資金を必要とする結果となった。

ところがこの覚書調印は、傍目には「密約」と映ってしまったようだ。
同年7月になってこの密約が大阪市議会で明るみになると、議会は事前の話し合いが無かったこと、新たな市内交通の進出に懸念があることなどの不快感を露にするが、それ以上に問題となったのは、政界が大阪市抜きに勝手に京阪との話を進めたことに対する疑念だった。
実は最初に京阪の路線が特許を受けられたのも、当時の京阪社長が政界にコネを持っていたためだという一種の不信感が大阪市にあり、今回もどうも怪しいのではないか…と見られていた。

この頃になると大阪市は大正9年に施行された都市計画法により、地下鉄や市電路線を道路建設と同時に行い、いわゆる「市営モンロー主義」をも推し進めていく。だが明治43年4月の京阪の開業前に、ちゃっかりと高麗橋東詰-天神橋南詰の路線特許をものにしたのは大阪市ではなかったか…。

結局この「密約」に関しては、以後新規路線について市と合同で事前に諮問委員会を設ける、ということで一応決着はみた。

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城東線の高架化に大きな期待をかけた京阪だったが、関東大震災やその後の不況の影響で、工事主体である鉄道省は全く動きを見せなかった。仕方がないので京阪は北大阪電鉄の特許をもって天神橋からの新京阪線の建設を余儀なくされてしまう。

ところが新京阪は、梅田進出とは別の路線も計画していた。北大阪電鉄が現在の阪急との接点を求めた十三から先を、何と阪神電鉄の碑島(現在の姫島)まで延長しようというものだった。
大正12年9月5日にこの路線免許は得られたが、ゆくゆくは新京阪線の電車を阪神に直通させて神戸へ…というものだった。しかしその後この沿線が大阪市に編入されると、やっぱり大阪市は黙っていなかった。諮問委員会の結果、新京阪は工事に着手出来なかったばかりか、結局せっかくの路線免許を阪神に譲渡、一旦は新京阪と阪神との間で相互乗り入れの契約まで至ったものの阪神も路線を建設せず、この路線は実現しなかった。

京阪は開業時に大阪市電を介しての阪神との接続、あるいは直通運転を見込んでいたものの大阪市のドタキャンに遭い、この時再び阪神とランデブーまで至ってまたもや大阪市が絡んで話は御破算。どうも両社は縁がなかったのかもしれない。

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京阪の梅田乗り入れ昭和3年7月、城東線の高架化は突然再開の運びとなる。ただしこれはどちらかと言うと不況対策で、公共事業への投資で地域経済の活性化を図ろうというものだった。これに併せ京阪は翌月に葉村町(現在の中崎町付近)止まりだった路線特許を角田町、即ち現在の阪急梅田駅付近まで延長したが、これは密約の発覚以後、設けられた諮問委員会により京阪の梅田進出について京阪線野江から桜ノ宮までと、新京阪線は天神橋筋六丁目から桜ノ宮で京阪線からの路線と合流して梅田へ、というものに整理されていた。

ところがこの頃から京阪は新京阪線の建設に費やした莫大な金額の借金返済に頭を悩ませていたばかりか、以前に進出した和歌山地区での電力事業と和歌山市内線の経営が思わしくなく、鉄道省に対して工事費を払うことすら難しくなっていた。京阪線の野江から桜ノ宮までの路線は断念、新京阪線の梅田延長だけにターゲットを絞るまでに計画の縮小を余儀なくされたが、 なおも京阪の経営難は続き、とうとう鉄道省に対し昭和7年7月、城東線高架化途中で工事費の支払猶予願を提出するまでになってしまった。

昭和8年2月13日、城東線大阪-桜ノ宮間は高架化され、3日後には天王寺まで全線の高架化と電化が完成したが、計画とは違い工事費を圧縮するため地平線の真横に高架線を建設した。京阪はなんとか支払った工事費分の払い下げを受けられたものの、既に京阪には改修・建設の費用は残っておらず昭和17年10月には路線免許は取り下げられた。京阪は払い下げられた土地一式を鉄道省に「納める」ことで、ここまでの苦労を徒労に終えている。

また同じ頃、阪急は京阪が梅田駅とするはずだったはずの土地を取得している。

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ようやく高架化された城東線だが、工事が行われた時点では新京阪線はまだ「建設予定」だった。そのため新京阪線が建設されても良いように、また当初の覚書に基づき土地はもちろん施設一式も、一応は残されていた。
レールなどは戦時中の金属回収令で撤去されたようだが、桜ノ宮駅の大阪寄りの大川には戦後の昭和30年代前半まで、かつての高架化まで使われ、一旦は京阪に払い下げられた鉄橋が残っていたという。現在は一部の橋台を残して撤去されている。

また天神橋から延長されるはずだった線路は桜ノ宮駅の南で立体交差する予定だった。このため城東線は新京阪線が潜れるように橋を設けていた。しかもこの橋は大阪環状線となった今も「京阪電鉄乗越橋」という名前で現存しているのだ。

桜ノ宮駅へ進入するJR西日本103系電車 京阪電鉄乗越橋 橋の名板
大阪環状線桜ノ宮駅に進入する電車 現在の「京阪電鉄乗越橋」 名板は今もそのまま

現在、大阪環状線の電車に乗っても、この橋は全く気づかないうちに通過してしまう。桜ノ宮駅で電車を降りてみると、橋の下は飲食店などが並び、ここが鉄橋であることすら判りにくくなっているが、よく見るとこの「橋」の部分だけは鉄製のガーターとなっていて、橋台には「京阪電鉄乗越橋」と書かれた名板が取り付けられ、今も歴史を残している。また現在の桜ノ宮駅そのものも、新京阪線が接近することを考慮した構造でつくられたといわれている。

さて、京阪が梅田進出の夢を諦めた時に、阪急がうまく手に入れた土地はどうなったのだろうか。

それは現在のHEPファイブの場所である。ここに京阪の梅田駅が出来るはずだったのだ。もしも京阪の計画がそのまま進められていたら、ここからは京阪特急が出町柳へ、それとも新京阪線特急が河原町へと走っていたかもしれないし、それ以上に、京阪がかつて夢見たさらに壮大な計画である「名古屋電気鉄道」の実現の可能性も否定できず、そうなるとここから名古屋行き特急が…それは新幹線以前の名阪間レースに名を残し、近鉄特急ビスタカー、国鉄特急『こだま』などと並んで、さらに歴史を塗り替えていたことだろう。

HEPファイブは京阪梅田駅になるはずだった
HEPファイブの場所は京阪梅田駅になるはずだった

そしてこの場所にはHEPではなく「京阪シティモール」が、阪急梅田駅と並んで威容を誇っていたのかもしれない。


京阪が大阪キタの中心、梅田へ進出しようとしていたとは、今となっては驚きです。しかしこの他にも、京阪は大阪の都心部への進出を考えていたのですが…さらに話は混沌としていきます。

次はなおも続く夢の話です。

【予告】見果てぬ夢(後編)

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 2000年12月臨時増刊号 <特集>京阪電気鉄道 鉄道図書刊行会
関西の鉄道 1999年陽春号 JR大阪環状線・桜島線特集 関西鉄道研究会
鉄道未成線を歩く vol.1 京阪・南海編 とれいん工房

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