Rail Story 11 Episodes of Japanese Railway レイル・ストーリー11

 見果てぬ夢(前編)

明治以前の京都-大坂間の交通手段は、淀川を挟んで右岸(北側)の西国街道、左岸(南側)の京街道、それに淀川の水運が主なものだった。この内、西国街道は大坂の町中を経由せずにさらに西へと向かうものだったが、京街道は淀川左岸の町を通りながら大坂へと向かう、両都市を繋ぐ役割が強かった。また京街道には淀川左岸の淀、枚方、守口などの船着場もあって、水運との関係も深かったという。
明治10年に京都-大阪間に官設鉄道が出来たが、これは日本の鉄道ネットワークを形成する関係で西国街道ルートを選択したために京街道沿いは鉄道とは無縁のままで、淀川には蒸気船が就航して活況を呈していた。
ようやく京街道には明治43年4月15日に京阪電鉄(以下京阪)が大阪天満橋-京都五条間を開業、電車が走り出した。ただし当初、大阪のターミナルは高麗橋を予定していたという。

現在の高麗橋
地名の由来となった高麗橋

今では大阪のメインストリートは御堂筋だが、この通りが出来たのは昭和12年のことで、それまでメインストリートの座は堺筋だった。当時堺筋には高麗橋に三越、長堀橋に高島屋、日本橋に松坂屋があり、現在のビジネス街とは少し違った様相を呈していた。
その後、長堀橋の高島屋は昭和7年に南海なんば駅ビルが出来たため昭和14年に統合を受け閉店。日本橋の松坂屋は天満橋へ昭和41年に移転して(店舗は昭和44年高島屋東別館となり平成16年3月まで営業)新たなスタートを切った。しかし天満橋店も平成16年5月に閉店してしまう。
いっぽう江戸時代から続く高麗橋の三越は、他店が移転・閉店する中でずっと営業を続けていたが、平成17年5月5日に惜しまれつつ315年にも及ぶ歴史に終止符を打った。

閉店した天満橋の松坂屋はリニューアルされ、京阪シティモールが平成17年5月27日にオープンしている。

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明治36年9月12日に花園橋-築港桟橋間で産声を上げた大阪市電は、のち市内中心部へと路線拡大を図る。また京阪は高麗橋から天満橋を経由して京都五条までの特許を明治39年8月に取得している。ここで高麗橋東詰-天満橋南詰間で大阪市電第三期線と路線が重複してしまったが、実はこの区間は大阪市が特許申請した時点で、既に京阪が特許を取得して1ヶ月経っていた。

たった1kmあまりのことで市電の路線は断たれてしまう…。
これを懸念した大阪市は京阪に対し相互乗り入れを提案する。それも市電に乗り入れて梅田までどうぞ…というおまけつきだった。また明治38年4月12日に大阪出入橋-神戸三宮間を開業していた阪神電鉄(以下阪神)も、市電に乗り入れて梅田-天満橋間に電車を走らせるという計画を発表、互いのターミナル同士を接続することが可能となるばかりか、さらに市電を介して神戸-京都間を結ぶというスケールの大きな話も見えてきた。

京阪・大阪市・阪神はこの相互乗り入れを明治41年9月に契約した。契約書には「京阪は阪神の車両またはこれと同等の車両を運転する」と書かれていたため、開業に向けて京阪が投入した電車1型は、この相互乗り入れを考慮して阪神の1型と同一の寸法と性能で製造されていた。今は信じられないが、この頃は京阪も阪神も生まれは軌道線ということで路面電車を少し大型化した程度の電車であり、市電路線への乗り入れには問題はなかったようだ。
この契約に伴い、京阪は同年11月の臨時株主総会で高麗橋東詰-天満橋南詰間の路線特許を大阪市に譲り、ターミナルを天満橋にすることを決め明治43年4月の開業を迎えることになる。いっぽう大阪市電は同年10月に北浜二丁目から天満橋までを開業、翌年には梅田までレールが繋がった。

これで京阪と大阪市電及び阪神との相互乗り入れの準備が整ったが、明治44年12月14日、三者で交わされた契約は破棄されてしまう。

というのも、いよいよ直通運転が始まる…という時に大阪市側が新たに出した条件は「乗り入れは全長10.7mの電車」。契約書に書かれていた「阪神と京阪は同等の車両」という条項には無かったものだった。阪神1型は全長13.7mで、京阪1型ももちろん同じ、しかも既に路線を走っている。ここで更に新車を製造するというのは、まだ開業して日の浅い両社には厳しいものがあったようだが、翌年1月にも大阪市は市電路線の拡充に伴い市内均一運賃を導入する予定があり、料金収受の面で不都合が生じるとして難色を示したことも大きかったようだ。

結局市電路線を介した京阪と阪神の相互乗り入れは実現せず、首尾よく大阪市は単独の路線を確保した。ともかく直前になって無理難題を押し付け契約破棄に至ったのは、「市営モンロー主義」の始まりだった。

ところが同じ時期に今の阪急も京阪との接続を計画していたのだ。

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明治43年3月10日に梅田-宝塚間と石橋-箕面間を開業した現在の阪急の前身、箕面有馬電気鉄道は開業に先立ち路線特許を明治39年12月に取得しているが、その中には北野角田町-野江間の路線も含まれていた。野江では当然京阪に接続することになる。さらには直通運転の計画もあったのかもしれないが、不思議なことに両社の歴史には、そのことは触れられていない。単なる計画に終わったという証でもあろう。

北野角田町とは、のちの阪急梅田駅のことだ。当時の免許ではここから天神橋筋六丁目・都島を経由して京阪の野江に至るものとなっていたが、今の地下鉄谷町線の一部に似ているのに気づくだろう。
しかしこの路線は結局全く建設されることなく大正7年5月17日に特許を失効している。当時箕面有馬電気鉄道は集客が思うに任せず、また社名に謳ったはずの有馬温泉までの延長も、特許を取得しながらも実現できずにいた。そのため当時の終点、宝塚に温泉を掘り、少女歌劇をスタートさせ、沿線の宅地開発を進めたのは有名であるが、梅田-野江間の建設については、手をつけることすら無理というのが事実だった。

結局この区間については、箕面有馬電気鉄道が特許を失効する3日前に大阪市が取得、市電の第四期線として建設が進められることになる。市電になってから路線は守口市まで延びたが、使命を谷町線に譲ることになり市電最後の路線の一つとして昭和44年3月31日に廃止されている。

つまり地下鉄谷町線の東梅田から東の部分については、前身は驚くことに阪急だということだ。この路線が阪急の手で実現していたら、もしかしたら京阪との相互乗り入れが行われていたかもしれないし、さらには阪神も…?

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京阪は結局天満橋をターミナルにしたが、直接都心部に接しておらず大阪市電との接続が必要というジレンマから、この後も何とかして路線を都心へ延長できないかという模索が続く…いや今も続いている。

ただし、開業直前に高麗橋東詰-天満橋南詰間の短い区間を、うっかり大阪市に譲ったばっかりに京阪は長い苦労を強いられることになるとは思わなかっただろう。あの時の株主総会が無ければ…。


この後、京阪は都心部直通の方針を打ち出しますが、それは他の私鉄までもを巻き込んだ意外な事件(?)にまで発展することになります。ただしどれもスッキリしない話ばかりで…。

次はそんなゴタゴタの話です。

【予告】見果てぬ夢(中編)

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 1998年12月臨時増刊号 <特集>阪急電鉄 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 2000年12月臨時増刊号 <特集>京阪電気鉄道 鉄道図書刊行会
関西の鉄道 1997年陽春号 阪神間ライバル特集 関西鉄道研究会
関西の鉄道 1999年爽秋号 京阪電気鉄道特集 PartV 関西鉄道研究会
関西の鉄道 2001年初冬号 大阪市交通局特集 PartV 関西鉄道研究会
鉄道未成線を歩く vol.1 京阪・南海編 とれいん工房

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