Rail Story 11 Episodes of Japanese Railway レイル・ストーリー11

 夢の跡(後編)

自社路線の新規バイパス路線として計画された大軌四条畷線だったが、思わぬ他社の進出や、申請された路線の多くが異例の認可になるなど、常軌を逸した動きを見せていた。しかもその流れを受けて出来上がった鉄道省片町線の電化は、四条畷線の建設意義のまでもを失う結果となった。

結局着工まもなく、具体的な形にならないまま工事がストップされた四条畷線。ところがこの線のライバルと目されていた東大阪電鉄もまた、建設すら行われていなかった。
そもそも単独で森ノ宮-四条畷-奈良・逢坂-宝山寺間の路線を申請した東大阪電鉄は、似たような時期に東阪電気鉄道や奈良急行電気鉄道の名で大阪市東成区-四条畷-生駒間の免許申請を行っていたが、いずれも却下されていた。その中で唯一残ったのが東大阪電鉄だったことになる。

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昭和3年11月3日に桃山御陵-西大寺間を開業した奈良電気鉄道(以下奈良電)は、そのままでは路線が京都にも奈良にも、そして大阪にも接していない、実に中途半端な形でしかスタート出来なかったことに強い不満を感じていた。この中で奈良へは西大寺から大軌線へ乗り入れることで解決し、京都へは鉄道省奈良線の廃線跡を譲り受け、2週間後の11月15日に延長出来たが沿線人口が当時まだ希薄だったため、集客力は今ひとつ弱く一日も早い路線の延長を望んでいた。

奈良電は大阪への路線と、さらに当時建設中の参宮急行電鉄に乗り入れようと桜井線の路線を計画した。
桜井線は奈良電が大軌乗り入れなしに奈良市内へ単独で達することを目的にした奈良延長線をさらに南へ延ばしたもので、参宮急行線直通運転で京都-伊勢方面へ特急電車を走らせようとも画策していたようだ。現在伊勢志摩ライナーを始めとする近鉄京都線特急の構想は、既にこの時に今と違う形で案が出来ていたということになろうか。
また大阪へも自社路線を建設しようと申請を行うが、前述のように畿内電鉄、東大阪電鉄など他社も同じ動きを見せており、奈良電は大阪延長線に分がないと見るや東大阪電鉄の株を過半数抑え、路線免許を二股に掛けてしまった。

しかし昭和4年6月に当時申請中の新規路線が田中内閣の失脚と同時にほとんどが認可され、東大阪電鉄・奈良電大阪延長線・奈良電桜井延長線などが実現へ向けて一応はスタートした。しかし当時の世界恐慌が日本にも及び、もともと沿線の基盤に乏しかった奈良電は倒産寸前に至ってしまった。当然新路線建設など出来るはずもない。いっぽう東大阪電鉄はなんとかして路線建設を進めようとしたが…。

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最終的に京阪の傘下となった東大阪電鉄だったが、資本金は予定の1/10しか集まらず、なにより京阪自体も新京阪線の建設と和歌山地区への進出などで残ったのは借金の山で、路線の建設は最初から暗礁に乗り上げた。
そこでこの路線は鉄道ではなく、バス路線用の道路として建設することに計画を変更し、昭和11年5月28日、東大阪電鉄は「奈良急行自動車」として再スタートした。
その計画では大阪市内には高架道路を建設、大阪-奈良間にバス・トラックの定期便を走らせて、物流の新たな流れを形成しようとしたようだ。当然鉄道の免許は不用となり、同年7月24日に失効している。

ところが…鉄道でも道路でも、急峻な生駒山系を越えるのは至難の業であり、いとも簡単に建設出来るというものではないのは明らか。結局大阪府が建設に認可しただけで、奈良急行自動車は一部の施工申請は行ったものの建設には至らず、ただの計画に終わってしまった。この先、日本は戦時下を迎えることになる。

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これに対し、途中まで建設が進んでいたのが大軌四条畷線だった。

もっとも線路を敷設するまでには至っていなかったが、蒲生-寺川間では路盤や橋梁などの工事は大方終わっていたという。
結局この路線計画も道路に転用されることになった。下の辻-寺川間は当時大阪府が計画していた産業道路になり、寺川から先は奈良へと延長されて大阪生駒線となった。現在の阪奈道路である。

今福鶴見付近の阪奈道路
現在の阪奈道路(今福鶴見付近)

また蒲生-下の辻間は今福土地区画整理組合に売却された。現在阪奈道路は国道1号線から別れる東野田交差点から、今福鶴見付近へ向かっているが、この間は大軌四条畷線の路盤ではない。路盤は今福六丁目から鶴見運河を渡って済生会野江病院の横を通り、中環状線と交差する真っ直ぐな道だ。

その鶴見運河を渡っている橋とは、大軌が橋脚まで完成させていた橋である。

大喜橋 今もその名に歴史を刻む 今は生活道路の一部
鶴見運河に架かる「大喜橋」 橋の名前に歴史が刻まれている 今は生活道路の一部に

橋の名は「大喜橋」。この橋がかつて大軌により架けられたという歴史が、今もその名に残されている。

阪奈道路は昭和15年に完成して関西の道路の大動脈となり、たちまち軍需産業を支えていったが、戦後はここが鉄道になるはずだったという事実など、急激な交通量の増加もあり徐々に失われていった。
いっぽう大喜橋は生活道路の一部となったことで比較的静かな存在だが、橋の上から西を眺めると道は真っ直ぐなまま、やがて途切れているのが判る。そしてその先は、もしかすると桜ノ宮へと延びていたかもしれなかった。…いや、電車が走っているはずだった。

夢はさらに大阪市内へと…
この先は桜ノ宮へ…そしてさらに延びるはずだった

東大阪電鉄は計画倒れに終わったが、大軌四条畷線は複雑な歴史の証を今も残している。

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大正13年、阪神電鉄が申請した梅田-四条畷間の路線は、その後昭和6年6月に実現の可能性を失った。これで阪神の大阪以東への進出は絶えてしまったように思えたが、後に伝法線を西九条へ延伸した西大阪線は近鉄との直通運転を視野に入れたものだったのは有名な話だ。近鉄も難波線の開業で応え、近鉄難波駅の西方にある引き上げ線は、そのまま阪神西大阪線へ繋がる夢を今に伝えている。
阪神西大阪線の難波延長はその後住民の反対に遭い中断されたものの、近年になり再び建設へ向けて動き出した。この計画では、阪神と近鉄奈良線の直通運転が予定されており、かつて関西の私鉄黎明期に描かれ残っていた構想が、実に80年以上の時を経て実現するのかもしれない。

かつて京阪は、鉄道省片町線の電化・乗り入れを計画したが、それは実質的に新規路線の進出を阻むためであった。後に片町線の電化だけが後に省の手で実現したものの、結果的に京阪の思惑だけが首尾よく結実し、 唯一着工に至った大軌四条畷線は運悪く時代に流されてしまった。


まさか阪奈道路が大軌の建設した路線の名残だとは…。それが計画性の有無にかかわらず多くの夢の跡だと聞くと、どこか興味をひかれるものがあります。ただし、大阪行き車線の東大阪変電所西交差点の渋滞だけは…(笑)。

次は、京都市内の話に移ります。

【予告】長かった夢

―参考文献―

関西の鉄道 2003年新春号 近畿日本鉄道特集 PartX 関西鉄道研究会
鉄道未成線を歩く vol.1 京阪・南海編 とれいん工房

鉄道未成線を歩く vol.2 近鉄・紀伊山地編 とれいん工房

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