Rail Story 11 Episodes of Japanese Railway レイル・ストーリー11

 夢の跡(前編)

大正から昭和にかけて、大阪から京都や奈良を目指した鉄道の申請が相次いだが、どうも単なる利権争いや投資目当てのようなものもあったのは事実で、実現に至ったものはなかった。

ただし、大阪電気軌道(現在の近鉄奈良線の前身。以下大軌)が計画した四条畷線だけは、唯一着工に至った路線だった。

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大正3年4月30日に上本町-奈良間を開業した大軌は、生駒山の宝山寺の参詣路線ということも手伝って開業当初は押すな押すなの盛況ぶりだったが、やがて客足が落ち着くと残ったのは建設に要した借金だけだった。もはや切符の印刷代もないという状態だったという。
それを聞いた宝山寺は大軌に賽銭を融通、続いて第一次世界大戦の好景気もやってきてどうにか会社の建て直しに成功、ようやく新規路線の建設を進められる程の余裕が出来るようになった。大軌は畝傍線(現在の橿原線)や八木線(現在の大阪線の一部)などの建設を計画、さらに伊勢進出を図り今に至るネットワーク形成を始めた。

しかしこの新路線建設の陰で、大軌は自社線と省の片町線に挟まれた鉄道とは縁がなかった地域への新路線を計画していた。それが四条畷線だった。大正11年6月28日付けで天満橋筋四丁目-鶴見-住道-寺川-鷲尾間の路線特許を取得した。ちなみに天満橋筋四丁目は、現在の源八橋西詰交差点付近をいう。
ただしこの路線がここまでに至ったのは、同年には鉄道省が片町線の電化を決めたものの、もともと片町線は沿線住民が電化を強く希望しており、同様に大軌に対し新路線の建設を要望するという、住民の二股作戦の結果だったのかもしれない。そこへ阪神電鉄が四条畷延長を発表する。

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片町線の電化は大正12年の関東大震災の影響と、その後の不景気により全く進展を見せなくなってしまった。大軌はこれをいいことに四条畷線の建設をずるずると後回しにしていたが、実はこの頃の大軌は八木線(昭和2年7月1日布施-大和八木間全通)や参宮急行線(昭和6年3月17日八木-宇治山田間全通)の建設に躍起になっていて、とても四条畷線のような規模の小さな路線は、着工出来る状態ではなかったのだろう。
そんな中、畿内電鉄・東大阪電鉄・奈良電気鉄道(以下奈良電)が相次いで新路線計画を打ち出す。系列会社の奈良電までもが大軌の狙っていたエリアに進出するなど言語道断。しかも京阪は片町線電化を肩代わりしての片町線乗り入れを計画、この地域は俄かにキナ臭くなってきた…。

そこへ昭和4年6月の田中内閣の倒閣に伴って、異例の「全ての申請の認可」が下された。上記路線の中で、東大阪電鉄が実現に向けて動き出せば大軌四条畷線にとって強力なライバルとなるのは必至であり、大軌は急ぎ施工にとりかかることになる。

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昭和5年1月、まずは下の辻(現在の今福鶴見付近)から生駒山麓の寺川までの施工認可が下り、さっそく工事が始まった。続いて翌昭和6年12月には蒲生-下の辻間も認可されて、こちらも順次着工されていく。生駒山の麓の大軌線接続点は額田に変更された。
こうして大軌四条畷線は少しずつ姿が見え始め、今福、下の辻は駅の場所も決まった。両駅の間に流れる鶴見運河には橋が架けられることになり、橋脚などが姿を現した。ところが問題は蒲生から先の大阪市内へ、どのように路線を延ばしていくかだった。

確かに特許ではこの先、天満橋筋四丁目までのルートは確定していなかった。そこで大軌は昭和7年1月、鉄道省城東線の高架化に伴う地平線跡を活用して桜ノ宮へ至るルートを申請する。

城東線の地平線跡?それは既に京阪が鉄道省と覚書まで交わしていたはずではなかったか。

この頃京阪は開業に漕ぎ着けた新京阪線が、会社としての独立が出来ず結局合併した結果、社員のリストラなどの経営改善を行うもののなおも建設に要した多額の借金を抱えており、苦しい状態が続いていた頃と一致する。
さらに城東線高架化の資金まで払い、とても天神橋から梅田までの路線は実現しそうにない…。
これはお互い奈良電への出資を行う程の仲だった両社では、もう隠し事をするような話ではなかったのだろう。既に城東線桜ノ宮駅の南側には「京阪電鉄乗越橋」が出来ていた! 京阪に代わり大軌四条畷線がその橋を潜り、城東線地平線跡地を京阪から譲り受けて有効利用すれば、とにかく桜ノ宮までの工事を進めることが出来て、さらに大阪市内への足掛かりにはなったはずだった。

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ところがここで話はまたおかしくなる。

昭和7年、大軌が桜ノ宮までの施工申請を行った直後、東大阪電鉄は結局計画のまま以後全てを中止した。つまり計画の頓挫である。
東大阪電鉄は、もともと大阪市内で旅館を経営していた鉄道とは縁のなかった会社であり、当初から「どこか並行する鉄道会社に、路線免許を高値で売りつけるのではないか?」とまで噂されていた位で、どうやらもともと計画性に乏しかったようである。
結局その噂どおり東大阪電鉄には奈良電が介入、その後奈良電が保有する株は京阪が買い取ったので結果的に東大阪電鉄は京阪の傘下という形になったが、肝心の京阪そのものが危ういというのに、こんな新会社の運営などがまともに続くはずがなかった。

また同じ昭和7年の12月には京阪がやるはずだった片町線の電化工事が鉄道省自らの手で完成、片町線は一気に利便性が増したものの、逆に大軌四条畷線については必要性が疑問視される始末。このまま建設を進めても採算が合うかどうかも怪しくなり、しかも大阪市内のルートは桜ノ宮から先はまだ確定しておらず、当初起点としていた天満橋筋四丁目は市電路線に接続すら出来ず魅力に乏しかった。以上のことから、大軌は未着工区間を残したまま工事を中止してしまった。

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また全く着工に至らなかった寺川と額田の間だが、結局ここには電車ではなくバス路線の新設ということで落ち着いたという。


せっかく着工まで進んだ大軌の四条畷線ですが、レールが敷かれることはなかったようです。果たして今その路線があったなら、いったいどんな電車が走っていたのでしょう。

次は実現しなかった四条畷線の、あっと驚くその後の話です。

【予告】夢の跡(後編)

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 2000年12月臨時増刊号 <特集>京阪電気鉄道 鉄道図書刊行会
関西の鉄道 1999年陽春号 JR大阪環状線・桜島線特集 関西鉄道研究会
関西の鉄道 2003年新春号 近畿日本鉄道特集 PartX 関西鉄道研究会
鉄道未成線を歩く vol.1 京阪・南海編 とれいん工房

鉄道未成線を歩く vol.2 近鉄・紀伊山地編 とれいん工房

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