レイル・ストーリー10 Episodes of Japanese Railway

 ああ万国博 

昭和45年3月15日から9月13日までの183日間、大阪の郊外千里丘陵で行われた「日本万国博」は、日本で戦後初の国際博覧会ということで全国各地から観客が集まり、大いに賑わったのを知る人も多いだろう。
会期中の観客数は延べ5,000万人と予想されたが、うち約2/3の3,000万人は鉄道輸送が必要と見込まれていた。しかしどのように会場と鉄路・空路・海路の拠点である大阪市内との間を輸送するのか、関係者は当初から苦難の日が続いた。

●  ●  ●

万国博(以下万博)の大阪への誘致が決まったものの、日本の大動脈、東海道新幹線が発着する新大阪駅と会場の千里丘陵との輸送に有効な交通機関はなかった。当初バスによるピストン輸送も考えられたが、それではとても3,000万人もの乗客など運べそうにもなく、やはり新規鉄道路線が必要…となり、万国博覧会協会(以下万博協会)はまず阪急に対し協力を要請した。
しかし阪急では新大阪から会場までの新規路線を建設したとしても、既存路線との接点がなく、路線延長も短いとあれば電車や車庫などのコストが嵩み採算性の問題が生じる。しかも自社で宅地開発した千里線沿線と違い、路線から拡がる千里ニュータウンは大阪府がデベロッパーとなったもので、将来的に阪急としてはお家芸ともいえる不動産関連への参画は出来ずメリットが見出せない。これらのことから阪急は万博協会の要請を断った。
次に万博協会は大阪市に同様の要請を行ったが、これは大阪市も拒否、万博輸送は暗礁に乗り上げてしまった…。

万博協会は「そこを何とかなりませんか」とばかりに再び阪急に対し協力を要請、結局第三セクター方式で路線を建設することになり、阪急が半分を出資、残りのうち25%は大阪府、あと25%は関西電力・大阪ガス・銀行各社が出資した「北大阪急行」(以下北急)が昭和42年12月11日に設立された。具体的には国と大阪府などが建設を担当、路線完成後の経営は阪急が主体となることになった。

路線は江坂まで延伸される地下鉄1号線(今の御堂筋線)との直通運転を行い、新大阪駅だけでなく大阪市内とも直結することになり、江坂-千里中央間の南北線5.9kmと、途中で分岐して万国博中央口へ至る会場線3.6kmの建設が昭和43年7月16日に始まった。会場線は現在の中国自動車道上り車線用敷地が一時的に充てられ、その建設費用は万博協会が負担した。

万国博中央口と会場線 線路跡は現在の中国自動車道上り線
万国博中央口と会場線 現在は中国自動車道(上り線)に

●  ●  ●

もっとも当時は高度経済成長期。大阪市はインフラ整備に追われており、地下鉄路線(と同時に道路も)建設に躍起になっていた。
万博が開催される昭和45年3月を目途に地下鉄網整備緊急5ヶ年計画を立て、国鉄(現在のJR西日本)大阪環状線の内側を走る6路線64.2kmの構築を急いでいた。最後に完成したのは千日前線桜川-谷町九丁目間で、昭和45年3月11日の開業と万博開催4日前のことだったが、実質的にはたった4年間で32kmもの地下鉄路線を、しかも道路建設も同時に行いながらやり遂げたことは特筆に価する。

昭和42年3月、地下鉄2号線(現在の谷町線)には、ステンレスの車体も眩しい7000・8000形がデビューした。続いて同年9月に4号線(現在の中央線)谷町四丁目-森ノ宮間開業時にも同車が走り出した。当初この電車は2・4・5号線用の共通設計…とされていたが、従来の大阪の地下鉄の電車は全部モーター付だったのに対し、モーターの出力を見直した上で経済性を考慮しモーターを積まない付随車も連結した。それなら運転本数も多く混雑する1号線を走らせたほうがもっと経済的ではないかという話になり、来たる万博を機会に昭和42年12月には1号線の車両置換計画が決定、1号線から旧型車を引退させることになった。
ちなみに万博後の谷町線には、昭和48年10月に電気回路を無接点化し省エネを進めた20系試作車(後の10系)が製造されたが、これまた御堂筋線で使うほうが経済的という結果に…。谷町線は新車デビューの場に恵まれていないのだろうか。

結局7000・8000形は御堂筋線用30系として大量に量産された。もっともこの電車はアルミ製車体の仲間が加わったが、型式は同じだった。
万博を控えて大阪市だけでなく北急でも同型車3タイプを製造した。万博終了後に大阪市30系に編入されることが決まっていたのはステンレス製の7000系とアルミ製の8000系で、大阪市30系ではステンレス・アルミ双方の番号は混在していたが、北急ではちゃんと区分されていた。もちろん大阪市30系と全く同一の設計とされていた。
もう1つのタイプは2000系と称したが、これは万博後も北急が保有するもので、基本的には大阪市30系ステンレス車に準拠するものの、屋根のディテールには少し丸みを持たせ、車体には阪急のイメージカラーであるマルーンの帯を締めて差別化を図った。車内は大阪市30系とは大きく違い、阪急電車同様の木目のデコラ貼りの壁に白い天井、シートもやはり緑色でフカフカだった。当時大阪市30系のシートはFRP製の台にビニールレザー張り、中には3cmのウレタン発泡剤を詰めただけのもので、確かに軽量で経済的だったが座り心地は公園のベンチと大差なく、不評を買った。

万博開幕直前の昭和45年2月24日、地下鉄御堂筋線新大阪-江坂間と北急の江坂-万国博中央口間が開業、早速直通運転が始まった。これで念願の新大阪と会場を結ぶ鉄道路線が出来上がったが、大正15年3月29日に生まれた最初の地下鉄計画の1号線が、計画どおりに全線開通をみたことになる。

●  ●  ●

もっとも阪急自体も昭和44年11月10日、千里線の南千里-北千里間に臨時の万国博西口駅(今の山田駅の少し北)を設け、観客輸送に備えた。続く同年11月6日には地下鉄堺筋線との直通運転が始まり、万博開幕を目の前に、地下鉄御堂筋線・北急を含め会場と大阪市内を結ぶ鉄道路線は二つになった。

万国博西口駅跡付近を走る阪急千里線電車
万国博西口駅跡付近を走る阪急千里線電車

昭和45年3月14日、翌日からの万博開幕を前に開会式が行われた。この日から阪急・堺筋線には「エキスポ準急」が梅田-北千里間に1時間8本、動物園前-北千里間に同4本増発され、千里線は定期列車を含めてピーク時3分間隔での運転が始まった。また京都線では特急を平日は淡路に臨時停車して千里線電車に連絡、休日は茨木市に臨時停車して会場東口行きのバスに接続した。
3月16日からは平日に高速神戸・新開地・宝塚・梅田から万国博西口行きの「エキスポ直通」(神戸方面の帰りは三宮行き)が団体輸送中心に運転され、7月1日からは運転本数や区間に変更があったものの休日にも運転を拡大、万博直前に実現した京都線と神戸線・宝塚線の電圧統一が生かされたことになる。

●  ●  ●

大阪市内からは地下鉄御堂筋線に並行して道路の「新御堂筋」が出来ていた。もっとも万博を訪れるのは一般客だけでなくVIPも含まれていたが、警備上の問題が発生した場合や、クルマで会場に向かった時に万一渋滞に巻き込まれては一大事…と大阪市は地下鉄に専用車を用意していた。

万博直前までの御堂筋線には旧型車から新車の30系「シルバーカー」までが混在していたが、引退した旧型車を除く昭和32年以降に製造された1100形、1200形、5000形は他線に転出することが決まっていた。
ただし5000形のうち8両は万博会期中のVIP輸送用にと御堂筋線に残り、うち4両は特別に整備され、特に5018号車は床に絨毯を貼り、1人掛けの大きなソファーがデーンと置かれていた(残り4両は予備車となっていた)。また英語での案内が出来るようにテープによる放送設備も設置されていた。
これらの電車は会期中いつでも走れるよう整備と清掃が続けられた。結局電車の出番はなかったが、事故や交通渋滞にVIP輸送が巻き込まれなかった…という証拠でもあろう。

●  ●  ●

9月13日、万博は閉幕した。北急会場線はこの日をもって役目を終え、翌日から現在の千里中央までの運転になった。この会場線への分岐は千里中央駅直前の地下線に現在も跡が残っている。もちろん今はその先の線路はないが、かつて線路が地上に出たところが千里中央仮駅で、万国博中央口へと線路が延びていた。線路跡は予定通り中国自動車道に転用された。
阪急千里線の万国博西口駅も同様に役目を終えたが、後に少し南に山田駅が新設されている。

万博のために生まれた大阪市30系電車は、予定通り北急7000系・8000系を迎え、さらにその後昭和56年まで製造が続いて総勢363両が堺筋線を除く当時の地下鉄全路線を走ることになった。中央線で活躍した仲間は、ブレーキを改造され近鉄東大阪線との直通運転で生駒山の下を抜けて奈良県生駒まで達していたが、直通当初は御堂筋線の先輩5000形も同様に生駒まで走っていた。

30系も多くの仲間は既に引退しており、現在は平成4年以降に冷房装置を搭載した仲間が谷町線に集結してなおも活躍中であるが、万博を知らない世代である。ただし評判の悪かったシートは昭和49年以降の後期製造車からは改善され、暖房も昭和52年以降製造車から設置、既存車も翌年から取付けられた。実はそれまで大阪の地下鉄には暖房がなかったのである。

大阪市30系ステンレス車 大阪市30系アルミ車
30系ステンレス車 30系アルミ車

今も谷町線に残る30系後期製造車だが、アルミ車は20系試作車に倣い丸みを帯びたスタイルに変化しているものの、ステンレス車はほぼオリジナルスタイルを保っている。このステンレス車は、しばらくは万博という大きな歴史を思い出させてくれる存在には違いない。

●  ●  ●

当初5,000万人と見込まれていた大阪万博の観客だったが、最終的には6,421万人にも上った。うち地下鉄・北急利用者は2,100万人、阪急利用者は1,156万人だった。ともかく戦後最大の国内イベント輸送を完遂した鉄道輸送の功績は大きかったと言えよう。

万国博のシンボル「太陽の塔」
万国博のシンボル「太陽の塔」


万博会場は現在「万博記念公園」となり、あの時の喧騒がウソのように静かな場所に戻っています。シンボルの「太陽の塔」は今も健在ですが、万博は多くの「夢」が集まった時間…だったかもしれません。

次は一つの駅にまつわる数多くの話です。

【予告】新大阪駅の謎

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 2004年3月臨時増刊号 【特集】大阪市交通局 鉄道図書刊行会
RM LIBRALY 56 万博前夜の大阪市営地下鉄 -御堂筋線の鋼製車たち- ネコ・パブリッシング
関西の鉄道 2001初冬号 大阪市交通局 PartV 関西鉄道研究会
関西の鉄道 2002盛夏号 阪急電鉄特集 PartX 関西鉄道研究会
関西の鉄道 2003初夏号 大阪市交通局 PartW 関西鉄道研究会
大阪の地下鉄 創業時から現在までの全車両・全路線を詳細解説 産調出版

このサイトからの文章・写真等内容の無断転載は固くお断りいたします

トップに戻る