来日秘話
★来日の夢がいよいよ実現か?!
ヨーロッパの鉄道車両と日本の鉄道車両が同じ線路の上を走るのは、確かに鉄道模型では可能な話ではある。だが、はるか陸路を駆け抜け、本当に日本の線路を走らせようと考えた男が少なくとも三人居た事が、オリエント急行の来日を実現させた。
前述したが、フジテレビの沼田篤良氏は特別番組の取材を通して、すっかりオリエント急行の魅力にとりつかれてしまったようだ。それに当時国鉄の山之内秀一郎氏との交友が始まって、その後とうとう正式にオリエント急行の来日が検討されるに至ったようである。国鉄はJRに変わったが、本格的な検討はJRになってもそのまま引き継がれた。
まず、来日ということで復活した二つのオリエント急行との折衝が開始された。それはVSOEとの話し合いに始まる。
国鉄時代には1986年5月、VSOE社のベンソン社長らが来日し、本格的な協議が行われた。その時には車体の寸法は国鉄とほぼ同じだが、長さだけが3mあまり長いので一部ホームが支障するかもしれないし、車体そのものの重さも相当なものらしいという問題点が判った。しかしブレーキ方式は偶然にも基本的にヨーロッパ、ソ連、中国、日本ともに空気圧5kg/cm2だった事が後に実現に繋がったのかもしれない。
その後10月に国鉄関係者で再度協議が行われた。この時は日本国内を走らせるのにどのような改造が必要なのか、どのルートを走らせるかというかなり具体的なところまで話し合われたようだ。翌1987年1月、この協議内容がまとまり、車両の日本国内用への改修、ホームや線路の改修、警備などの費用だけを合計して
2億6千万円の経費が掛かることが判った。4月には国鉄はJRに生まれ変わった。1987年10月、国鉄から引き継いだオリエント急行の来日計画はJR東日本がリーダーとなることが決まった。車両の改修やサービス電源の確保、日本の機関車との連結をどうするか等の具体的な事も決まりはじめた。日本国内運行ルートも具体化し始めた。
こうして着々と実現へ向けたかのように見えた来日だったが…
★VSOEのドタキャン!!そしてNIOEへ
ここまで話が決まって、さて実際の車両を調査しようという事になり、JRの調査団がヨーロッパに向かったのは1988年の2月の事だった。この時すでに来日までに8ヶ月しかない。調査も終わり、さていよいよいくらで車両を借りるか…という話になった時点で
金額の折り合いがつかないという事態が発生してしまった!!ちょうどその頃VSOE社の社長が交代し、それまで好意的だったのがいきなり高額をふっかけて来たからだ。折衝の末、交渉は断念。これでは今までの苦労が水の泡だ…。そこで白羽の矢が立ったのはスイスの旅行会社、アルベルト・グラット氏率いるイントラフルーク社のNIOEだった。実はこのグラット氏、「鉄」な人だった。フジテレビがVSOEの来日を断念してNIOEに切り替えたのであったが、グラット氏曰く「それならなんで最初からウチに言ってくれなかったのー」。話はすぐに決まった。4月にはグラット氏自ら来日、5月、6月と続けてフジテレビ、JR関係者がスイスへ飛び、車両を借りる話はこの時めでたく…と言うかようやく…と言うかタイムリミットぎりぎりで正式調印に漕ぎつけた。それはグラット氏の粋な計らいで、NIOEを走らせて食堂車プレジデンシャルで行われたという。
車両そのものはVSOEとほぼ同じなのだが、古い車両ばかりなので図面があまり残っていないという点がJR関係者を慌てさせてしまい、実測にたよるしか方法がなくなった。結局はパリを発車する前日まで調査をしていたという話も残っている。実はひっそりとLx20寝台車3540号が来日、日立笠戸工場での実測、国内用改修のデータ収集が行われている。
8月に入り、国内での運行計画が決まった。ワゴン・リ社、イントラフルーク社、JRの3社でサービス、保安体制の協議も始まった。同時に通過各国との協議も始まり、ヨーロッパ各国は全く問題が無かった。当時まだソ連だったシベリア大陸横断については、すでにペレストロイカが始まっており、好意的に話は進んだ。さて、中国。ここはこじれたらしい。この年上海で日本の修学旅行生を乗せた列車が事故を起こした事もあって、このようなスペシャルトレインを走らせる事には大変ナーバスだったようだ。しかしフジテレビ、JRの熱意に折れ、来日実現は大きく前進。ただし大陸側の終点は当初計画の上海から香港にこの時変更された。その香港の鉄道はこの計画を始め信用しなかったようで、「ソンナ列車、クルハズナ〜イ」と言ったとか。
フジテレビ沼田氏、JR東日本山之内氏、そしてイントラフルーク社グラット氏。この三人の列車に対する情熱がオリエント急行来日を実現させた。あとは日本国内での問題解決が残るだけなのだが…
★日本国内を走らせる…と言っても
実際、一番の難関はこれだったのかもしれない。まずはレールの幅の問題。
シベリアでの走行は幅が広がるだけだから、イントラフルーク社特製のシベリア用台車に付け替えるだけで済む。しかし日本国内は逆に狭い台車を用意するだけかと思うとそうではなかった。最も厄介なのはオリエント急行の客車のサービス電源は、通常車軸によってベルト駆動されている発電機を用いているのだけど、広くなる分には問題がないが狭くなるとベルトが掛けられないので電源がなくなってしまうのだ。
それで日本国内では荷物車にディーゼル発電機を積み込み、これですべてを賄う方法にした。ただし古い客車のため直流で、しかも電源電圧が72V、48V、24Vとまちまちなのが当時イントラフルーク社技術部長のルネ・ブーベンドルフ氏の悩みの種。変圧器、整流器の調整に最後まで追われたという。
さて日本国内用に用意された台車はかつて国鉄時代から急行列車に使われていたもののお古。ただしオリエント急行の客車は高さがありそのままでは架線に当たってしまう恐れもあるので、車輪を60mm小さくしたものに交換した。また車体が10t近くも日本の車両よりも重いらしいので、台車のスプリングも強化した。さて、これで万全。めでたく日本を走れるぞ…と思ったら、食堂車プレジデンシャルはどうも聞いていたりよりもずっと重いらしく、車体と台車をつなげたら強化したはずのスプリングがズブズブと全部ちぢんでしまったらしい。こりゃ大変だ。走れない。ノーサスだ。このため晩年取りつけられたという重量オーバーの原因、エアコンを取り外してようやく一件落着したらしい。もっとも寝台車にはもともとエアコンがないので、日本国内は秋から冬の運行としたのが幸いしたのかもしれない。
次は各省庁の認可問題。なにしろスタッフごと日本へやって来るのだからもう大変。まず客車は備品ごと一旦「輸入」するのだから関税が掛かる。だがこれについては短期間に再び国外に持ち出すのだから保税扱いとする…というイキな計らいで免除された。そのため客車は何処へ行っても厳重警備だったという。ただし、スタッフ・サーピス・設備機器については労働省、厚生省、通産省の認可を得たが、車内を彩る鉢植えは農林水産省の管轄で、これは諦めて香港で降ろし、日本では別に調達したという。
客車そのものはもちろん運輸省管轄なんだけど、一番のネックは青函トンネルをはじめとした長大トンネル通過。客車たちは本物の木で出来た本物の内装。食堂車は石炭ストーブ。暖房も石炭ボイラー。「ちょっと待った!!そんな火災の恐れのある車両を走らせるワケにはいきません」と当初はケゲンだった運輸省だったが、「ヨーロッパでもシンプロントンネルなどの長いトンネルがあるが、すでに認可を受けている」というコトが決め手となり、認可が下りた。
これで技術的なコトと許認可問題も全てクリア!!荷物車のキューポラはわざわざ日本国内走行に支障しないようにダミーに付け替えられ、いよいよ日本の線路にオリエント急行の勇姿が!!まずは試運転。しかし…
重い!!ただ一言、重いのである。機関車の車輪はいきなり空転したという。このため峠道をはさむ国内ツアーでは、通常なら機関車は1台のところ2台に増やすなどの対応が必要になった。ボクも金沢駅で機関士さんに聞いてみたが、客車列車としては破格の重さに運転には苦労すると言っていた。
こうしてようやく諸問題を解決し、オリエント急行はユーラシア大陸を横断、海を越え、とうとう日本にやってきた。スタッフとしてスイス国鉄から派遣された名車掌ダニエル・グフェラー氏の発車合図により10月17日、広島から東京へ走ったのを皮切りに、日本国内を青きプリマドンナ達は駆け抜けた。沼田氏、山之内氏、グラット氏の熱い思いはここに実った。
★フィナーレ、そして…
日本への道中、各国に保存されていた代表的蒸気機関車に牽かれたオリエント急行だったが、JR東日本ではこれに合わせて上越線後閑駅に保存されていたD51が非常に状態が良く、レストアしてオリエント急行最終運行に間に合わせた。
1988年12月23日夕刻、なつかしい蒸気機関車の匂いが上野駅に漂い、後には青きプリマドンナ達がズラリと連なっていた。沿線は人また人。D51の復活を祝う夢のようなステージだった。D51は大宮で任を終えたが、その後このD51は今でも各地でのイベント運転を行っている。
その二日後、皇室専用機関車(ロイヤル・エンジンともいう)のEF58 61号機に牽かれたオリエント急行は上野駅に到着。すべての国内運行を終えて日本で最初で最後の年越しをすませ、品川からひっそりと下松へ回送された。その後日立笠戸工場で元の姿に復元されて、待っていた仲間と共に船便で直接ヨーロッパに戻っていった。
この年の春にはNIOEとしての運行が再開された。ただし、日本に来たという証はグラット社長の指示でそのままとされていた。それは一旦JRの車両として登録したために、車体の端に型式などを日本語で書いた表示を残したままとなっていたのである。またシベリア用に作った台車を生かしてロシアツアーなども行われたという。しかし…
数年後、イントラフルーク社は倒産した。そして所有していた青きプリマドンナ達の消息は明らかでない。
★★★★★
オリエント急行はボクをすっかり魅了しました。確かに最初は「たかが外国型車両じゃないか」程度にしか思ってなかったのですが、真相が明らかになるにつれてその魅力にとりつかれ、当時まだ高架でなかった金沢駅で行われた展示会には、しっかり休みを取って「鉄」やってました(笑)。運良くNIOE運行の時にスイス国鉄から派遣される現役車掌のダニエルとも話が出来たのですが、彼のドイツ訛の英語はサッパリ解かりませんでした。さっそくNゲージ模型を買おうといきつけの鉄道模型店に直行したのは言うまでもありません(笑)。
国内運行では東京-大阪間ツアーが何度も行われたのですが、東海道線は夜行貨物列車が多くてとてもオリエント急行を何度も走らせる訳にはいかなかったらしく、上野から上越線・信越線・北陸線・湖西線・東海道線というルートで大阪へと走っていたのです。そのおかげでボクの住む金沢では何度も青きプリマドンナ達に逢うことが出来ました。
そして12月24日の夜遅く、最期のオリエント急行を見届けるべく、ボクは金沢駅にいました。バー・サロン車「トラン・ブルー」では専属ピアニストのオットー氏がわざわざ演奏を中断して握手してくれたり、ワゴン・リ社のスタッフがそっとロゴ入りケースに入った石鹸をくれたのは感動でした。別れを惜しんでいるうち発車時刻となり、オリエント急行は漆黒の世界に消えていきました。
−参考文献−
とれいん 1988年12月号 オリエント急行 日本を走る
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