ながらくお待たせいたしました
レイル・ストーリー4、只今発車いたします


 ●ああ「下河原線」

JR中央線を新宿から西に向かうと、三鷹までは荻窪を除いて堂々たる高架の複々線区間だ。電車も中央線のオレンジ色の電車はもちろん、中央・総武線の黄色の電車、途中の中野からは営団東西線の電車も加わる。それに松本直通の特急「スーパーあずさ」なども走っていて、なかなか華やかな路線だ。

三鷹からはそれまでとは変わって地平を走り、武蔵野を駆ける路線になる。そして電車は国分寺駅に到着する。

国分寺駅の下り電車が発着する2番線は、かつて4番線だった。そしてそのホームからは中央線ではなく「下河原線」という名で呼ばれた短い路線が出ていた。

その路線は戦前に多摩川の砂利運搬用として造られたもの。国分寺からの路線は途中で南へ向きを変え、北府中へ。さらに南へ向かった路線は途中で分岐していた。ひとつは貨物専用線でホントに多摩川の河原あたりまで、もうひとつの線路はさらに東へ向きを変え府中の東京競馬場前まで延びていた。通称こそ「下河原線」だったが、本来は中央本線の支線だった。

戦後は本線である中央線がどんどん躍進し、昭和30年代からはオレンジ色の10両編成がひっきりなしに走る路線になったものの、いっぽうの下河原線は朝のラッシュ時を除いて本線を引退した茶色の旧型電車が「うおーーーん」という雄叫びをあげながら、ずっとたった1両で走っていた。

そんなのんびりムード満点の下河原線だったが、旅客の輸送量も少なく、貨物といえば多摩川の砂利採取は禁止されてもっぱら沿線にある東芝府中工場の専用線状態。のちに貨物列車の都心バイパスルートとして計画された武蔵野線は、西国分寺-府中本町間で下河原線と路線が重複してしまい、下河原線は武蔵野線の開業の前日、昭和48年3月31日をもって廃止される事が決まった。

武蔵野線は全線立体交差の高規格路線だが、西国分寺の先から府中本町までの約半分が下河原線の路盤に造られた。その関係で下河原線は廃止までの僅かな間だけ、まだ開業していない武蔵野線を堂々と走ったのだ。1両の茶色の電車が、出来て間もないピカピカの路線を、誇らしげに、或いは廃止を惜しむかのように。

そして廃止の日を迎え、茶色の電車は沿線住民に見守られて、ひっそりと姿を消した。

今、下河原線の跡はどうなっているのだろう。

中央線に乗り、国分寺駅を出るとしばらく進行方向左手にもう1本の線路が平行している。それがもとの下河原線だ。線路はやがて西国分寺駅の手前で途切れているが、そこから先は直角に曲がって武蔵野線に合流していた。この跡は殆ど判らなくなっているが、僅かに武蔵野線西国分寺駅の府中本町行きホームの先にそれらしい跡が判る。

下河原線は北府中の先で武蔵野線から離れていたが、暖かな沿線住民の声で線路跡はその名も「下河原緑道」という歩道として蘇った。

下河原線と武蔵野線の接続地点

下河原緑道

東京競馬場への分岐点

ピンク色の建物の外壁のカーブが
武蔵野線との合流地点

線路跡は現在の下河原緑道

左:東京競馬場前への線路
右:河原への線路

多くの競馬ファンを乗せて走ってきた終点は東京競馬場前。その駅は当時日本一という栄冠に輝いていた。下河原線の駅が日本一なんて信じられないかもしれない。
実は駅名を平仮名で書くと「とうきょうけいばじょうまえ」。この13文字の駅名は当時国鉄では日本最長だった。下河原線が唯一全国に自慢出来たのはそれだけだったかもしれないが、それ以上に沿線住民がこうして路線の跡を今でも親しんでいるということは、もっと自慢していいと思うのはボクだけだろうか。

東京競馬場駅跡
現在の東京競馬場前駅跡

今では武蔵野線に役目を譲ってしまった下河原線だが、かつての存在だけは今も生き続けている。


東京の都心から少し離れたところに、そんな路線があったんです。今こうして思い出してみると、寂しさとは別の気持ちに包まれてしまいます。

次は戦後の私鉄を支えた工場の話です。

【予告】碑文谷に工場があった頃

―参考文献―

鉄道ジャーナル1973年7月号 静かなる終幕 消えた下河原線のクモハ40 鉄道ジャーナル社

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