ながらくお待たせいたしました
レイル・ストーリー4、只今発車いたします


 ●妙典駅の謎

地下鉄…といえば昔は架線がなく、線路の横にもう1本集電用の線路(サードレール)があるのが当たり前だった。銀座線、丸の内線など、地下鉄だけの単独路線の頃はそれでも良かったが、昭和30年代に入ると都市交通審議会は既存路線との直通運転をも目的とした路線が必要という答申を打ち出した。そのため、既存路線の規格に合わせて地下鉄でも架線集電方式が多くなった。営団地下鉄(現:東京メトロ)東西線もその一つだ。

最初に既存路線との直通運転を開始したのは都営浅草線だった。営団も東急東横線・東武伊勢崎線直通の日比谷線、続いて東西線を開業した。東西線は初めて国鉄との直通運転となった路線だ。ただし、最初に開業したのは昭和39年12月23日の九段下-高田馬場間だった。まだ国鉄線にはつながっておらず、九段下で道路に穴をあけ、1両ずつ電車をレッカーで降ろして搬入したらしい。

続いて昭和41年3月16日、中野-高田馬場、九段下-竹橋間が開通、国鉄中央(緩行)線との直通運転が始まった。路線は大手町、東陽町へと延びていき、昭和44年3月29日、東陽町-西船橋間が一気に開通して全線が出来あがり、国鉄総武線との直通運転も開始された。
特に南砂町-西船橋間は地下鉄とはいうものの高架線となり、葛西駅には各駅停車の追い抜き設備もつくられ、地下鉄初の快速運転(地上区間だけど…)が実現した。

東京の都心をその名のとおり東西に貫き、しかも国鉄改めJR中央(緩行)線・総武線のバイパスとしても機能する東西線だったが、全線開業から30年近く経って、ある変化が現れた。

電車の路線といえば車庫・工場はつきもの。東西線には部分開通時こそ車庫がなく、国鉄の三鷹電車区を借用したり、工場もなかったので日比谷線千住工場までの道のりを、今では想像もつかないようなルートで回送電車を走らせたという事もあったが、のちに東西線には深川工場、行徳検車区(車庫)が出来あがり、事無きを得た。

行徳検車区は東西線行徳-原木中山間につくられた。以前は途中に下妙典信号場という分岐点があり、そこで上り線と下り線の間に検車区への線路が別れ、しばらく平行に走ったあと東西線の高架をくぐって検車区へと向かう構造になっていた。…いや、なっているのだ。現在も。

その下妙典信号場という分岐点は、東西線開通から30年以上経った平成12年1月22日、ようやく日の目を見て駅に昇格?した。それが今の妙典駅なのである。実は下妙典信号場はホームや駅施設を追加すれば、いつでも妙典駅として開業出来るような構造になっていたのだ。

検車区への線路

妙典駅

内側の線路が検車区へ向かう線路

これが妙典駅のホーム標識

それがどういう訳で駅への昇格までに30年を要したのか…それはちゃんとした理由があるのだろう。とにかく下妙典信号場は妙典駅として開花するまで、ずっと我慢していたことだけは事実なのかも…。


考えて見ると「駅」という名の付くものでも、いろんなものがあります。新宿のような日本最大のターミナルもあれば、地方のローカル線の、ホームが一つしかない駅だって「駅」なのですから。

次は、このストーリーの終着駅となります。長い歴史と栄光を受け継ぐ列車の話です。

【予告】伝統の急行「銀河」

―参考文献―

鉄道ファン 1994年1月号 特集:全国地下鉄事情 交友社

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