関西私鉄ストーリー

本日も御乗車、ありがとうございます。

このページでは地下鉄銀座線ストーリーに引き続き、私鉄王国関西のことを紹介致します。

 

●大阪市営モンロー主義の崩壊

大阪には大手民鉄のターミナルがいくつもある。阪急は梅田、阪神も梅田、京阪は淀屋橋と中之島、南海は難波、近鉄は難波…いや難波は奈良線と一部の特急だけで、大阪線と殆どの特急は上本町(上六)…実はこれには深い訳がある。

明治時代中期以降にもなると、既に開業していた鉄道院(のち鉄道省→国鉄→現JR)以外にも、民間の手で関西の都市間を繋ごうという気運が強まる。今の関西私鉄の多くは、この時期に創設されている。

そういえば以前関西私鉄のターミナルは、カマボコ型の大きなドーム屋根のものが多かった。それは箕面有馬電気鉄道(現阪急)の梅田駅に始まり、今はないが阪急の天神橋筋六丁目駅は新京阪時代からカマボコ、京阪も天満橋の地上駅だった頃はカマボコだった。

阪神は開業当初こそ出入橋に仮駅によるスタートだったが、後に今の阪神百貨店の地下に駅を新設、現在に至っている。南海は難波の高島屋にドッキングしているが、これもカマボコだった。現在は手狭になり拡張されているが屋根はカマボコではない。

阪和電鉄(のち南海山手線。現JR阪和線)は天王寺に高架で進出。天王寺駅でも阪和線ホームだけが今でも高架で、しかも行き止まりホームなのは、実は私鉄だった頃の名残なのである。大阪鉄道(現近鉄南大阪線)はその向かいの阿倍野へ路線を延ばす。

さて、ここから話は少し変わってくる。

京阪は開業以来天満橋がターミナルであったが、昭和38年、淀屋橋まで地下で延長した。淀屋橋駅はとにかく狭いので、1本の線路を前後に分けて別のホームとして使うという離れ業だ。
この時天満橋駅は地下へ移り、北浜、淀屋橋と地下駅が出来上がった。もっとも当時下水施設が間に合わず、地下駅のトイレ汚水の処理のために、京橋方から無蓋貨車にバキュームカーを載せて終電後に汲み取りを行っていたという記録があるという。

阪神も阪神本線の千鳥橋から西九条までの西大阪線を、ほぼ同時に開業。

阪急でも千里から天神橋筋六丁目へ伸びる千里線は、そのまま動物園前(のちに天下茶屋)まで地下鉄へ乗り入れ。

近鉄は大阪電気軌道時代からずっと上本町(上本町6丁目にあることから、上六とも言われる)がターミナルだったが、万博を機会に難波まで地下で延長。この時上本町駅は今も上本町発着の大阪線は地上に残り、奈良線と一部難波発着特急は地下と駅が分裂してしまった。ちなみに奈良駅も地下化されたが、これは奈良市の都市計画によるもので、地方都市の地下駅としては初のケース。しかし原則として連続立体交差化は高架としなければならないようだ。

これらは何故昭和38年から45年頃にかけて行われたのだろうか。

大阪市はかつて市営交通として市電を走らせていた。そこで大阪市は「市内の陸上交通はすべて大阪市自身の手で行う」と決めてしまっていた。具体的には鉄道省の城東線(現JR大阪環状線)の内側には鉄道線路を入れないというものである。私鉄路線の黎明期には大阪市電に乗り入れて市内中心部へ向かう約束をしていたが、大阪市側が撤回したという話も残っている位だ。

ということは、「市内に用事があるのなら、どうぞ市電に乗り換えて下さい」ということだ。これを大阪市営モンロー主義という。以後戦前、戦後を通じて一元経営を行っていく。

戦後の復興と共に大阪市は地下鉄四つ橋線(大国町以南)、御堂筋線(梅田以北)の延長を行うものの、すでに路線網が出来上がっていた市電は、道路の混雑に巻き込まれてしまうという事態を迎える。市電はクルマに行く先を阻まれ、電車の運行は思うに任せず、とうとう市内全域終日交通マヒという日まであったという。

その頃には私鉄各社は市内への乗り入れを既に計画しており、そこに運輸大臣の諮問機関、都市交通審議会の答申がうまく合致したようで、大阪市地下鉄の路線と共にあっさりと認可してしまった。こうして大阪市営モンロー主義は崩壊することになる。

続いて地下鉄と私鉄の直通運転も実現に向けて動き出したが、大きな問題にぶつかってしまった。

大阪を南北に貫く地下鉄は、昭和30年代までは御堂筋線だけであった。都市交通審議会は阪急千里線を延長し、堺筋の地下を走る路線が必要との答申を出す。この案は計画段階で南は天下茶屋までとなり、阪急千里線、大阪市、南海の3者の相互乗り入れ案となった。ここで大きな問題が持ち上がる。レールの幅、集電方式、電圧が3社ともバラバラなのである。

 

レールの幅

集電方式

電圧

阪急

1,435mm

架空線

1,500V

大阪市

1,435mm

サードレール

750V

南海

1,067mm

架空線

600V(当時)

この問題についてはまず大阪市側が折れ、架空線集電とすることになった。残るはレールの幅問題である。大阪市は新路線建設なので特に問題はないだろうが、阪急、南海共に京成のような大掛かりな改修を必要とするのは本意でなく、結局は大阪陸運局長の裁定で「1,435mmとせよ」ということになり、南海はあっさりと堺筋線乗り入れを諦めることになってしまった。

大阪市は建設費用のかさむ地下車庫を作らず、堺筋線の車庫は阪急京都線にある(東吹田検車区)。これはストライキ華やかりし頃、大阪市はスト回避したものの、阪急がストに突入してしまい電車を出すことが出来ず、やむなく堺筋線だけは運休という事態も起こっている。そういえば営団半蔵門線も東急田園都市線の鷺沼に車庫があるが、実はこれは東急のお下がり。

堺筋線は阪急との相互乗り入れ区間は北千里・高槻市−動物園前であったが、のちに阪急が「堺筋急行」という提案を行う。これは京都線河原町からの急行を堺筋線へ乗り入れるもので、1日数本であるが実現する。そして堺筋線の終点はながらく動物園前であったが、平成5年にようやく当初の終点、天下茶屋まで全通する。南海との相互乗り入れの夢は、この時幻と化した。

さて、阪神なんば線に話題を移してみよう。

阪神なんば線はかつて伝法線、西九条延伸後は西大阪線と呼ばれ長く親しまれてきたが、待望の難波延長により阪神なんば線と改称した。西九条駅は長らく高架の先端でプツ!とちょん切れて、まるでこの先はまだ工事中ですよといった雰囲気がずっと続いていたものだ。

行き止まりだった頃の西九条駅

この先線路はなかった

この先はもともと難波まで延ばす計画だった…いやとっくに認可も下りていたのである。とりあえず西九条まで伸びた時点で沿線商店街からの反対運動などが起こり工事がストップしてしまった。難波乗り入れが実現すると、今度は同じく難波乗り入れを果たした近鉄との相互乗り入れが予定されていた。
計画では近鉄特急を神戸まで延長し、名古屋−神戸や伊勢志摩−神戸という遠大なものだったという。近鉄難波駅は到着した電車が一旦奥へ引き上げる構造になっていたが、のちに西九条へと続く線路の一部となる。

ようやく忘れ去られようとしていた西大阪線延長計画が再燃して平成13年7月10日、西九条-難波間の線路を作るべく「西大阪高速鉄道」が設立され、長らく影を潜めていた難波への延長が実現に向けて再スタートした。平成15年10月7日再び起工に漕ぎ着ける。どうやらこれは桜川に出来た大阪ドーム(現:京セラドーム大阪)の影響も大きかったようで、当初反対していた地元商店街が延長支持に変わったのもあったといわれている。

電車の運行は当初の予定とは異なり近鉄奈良線との直通運転を行うものとなった。ただ、電車の大きさなど規格が異なる両線だったが、お互いの電車の改修・新造などで乗り切ることが可能となった。平成21年3月20日、阪神なんば線の開業を迎えることになる。

結局大阪市はかつての市営モンロー主義とは裏腹に、周辺都市へも路線を伸ばしていく。ついには近鉄けいはんな線と中央線の相互乗り入れを実現し、奈良県にまで進出する結果となった。


カマボコドームの駅は、それだけで「関西私鉄」を代表するものでした。じつに懐かしいものを感じます。

次は珍しい鉄道会社の話です。

【予告】 神戸高速鉄道っていったい何?

【参考文献】

関西の鉄道 1989新春号 阪急電鉄特集PartU 関西鉄道研究会
関西の鉄道 1995陽春号 近畿日本鉄道特集PartY 関西鉄道研究会
鉄道ジャーナル 1974年11月号 特集「日本の心臓 東京の鉄道 第二部」 (株)鉄道ジャーナル社
鉄道ファン 1998年6月号 特集「地下鉄ネットワーク」 (株)交友社
ぴあMAP 大阪・神戸・京都 '98〜'99 ぴあ(株)

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