旅日記Vol.35
『しらさぎ号』で『しらさぎ号』に逢いに行ったという話  2002.10.24
(すみません。今回も思い入れがあって、ちょっと長いです)


そういえば「ひろでん」を見に広島へ行くという長い間の懸案を実現しないと…という気になったのはつい最近のコト。でも大井川鉄道の『しらさぎ号』が最近戦列を離れてしまっているという情報を聞き、それじゃスクラップになる前にこの眼で見ておかないと…というモノに変わってしまった。
「ひろでん」だけじゃなくてお好み焼にも十分そそられるものがあったにせよ、ここは食欲ではない!と思った次第。秋なのにねえ(笑)。

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 ★まずは『しらさぎ2号』で

日帰りで大井川鉄道の千頭まで行くというのは結構強行軍のように思えたが、時刻表を調べてみると朝早くに出れば夕方には金沢に戻れるコトが判った。これなら夜のエアロにも間に合うようだ(爆)。ただし接続時間は全部10分以内というタイトなスケジュール。

この日はまず金沢6:04発の特急『しらさぎ2号』名古屋行きで旅立ち。まだ10月とはいえ、朝6時の金沢は薄暗い。いつもどおり「Heart-In」で朝ゴハンを仕入れようとしたら、ここは6時開店だった。発車までの4分間で買物を済ませて電車に乗らなきゃならない。開店と同時にそれを待つ人々一緒に店へとなだれ込む。ルネサンス金沢で馴染みのメンバーさんもいた。「あっ、おはようございますぅ…」(笑)。

この『しらさぎ2号』の電車は、かつて『スーパー雷鳥』として活躍していたものを再リニューアルしたもの。車体の塗装こそブルー基調に新しくなったものの、車内はそのまま。あまりにも長いその活躍に、来年の新車置き換えが決定したというのは前回の旅日記に書いたところ。
でも今日はこの名古屋行き『しらさぎ』ではなく、かつて加賀温泉郷を結んでいた北陸鉄道加南線を走っていた電車『しらさぎ号』に逢いに行くというのが目的。『しらさぎ』で『しらさぎ』という、なんだか妙な話なんだけど(笑)。

朝焼けの白山連峰
朝焼けの白山が綺麗でした

JR西日本『しらさぎ』

『しらさぎ2号』は特急としては割と多めの停車をしながら名古屋を目指す。小松を発車した頃には太陽が顔を出した。朝焼けがとっても綺麗。その小松駅は11月の高架駅への移転を控え、既に架線など電気工事も終わって準備万端。続いて福井駅は遺跡調査が終わり高架化工事が再開されていた。

福井は街の中心部に駅があるが、電車から眺める駅前の表情は少し暗く、どこか昭和40年代頃の匂いが伝わってきそうな感じがする。高架化で少しは変わるのだろうか。京福電鉄の運転再開は第三セクター「えちぜん鉄道」が引き継ぐというが、果たしてその前途は…

電車は深坂越えの後湖西線と別れ、湖東路を米原へと走る。

米原からは東海道新幹線。まずは名古屋まで『ひかり110号』、続いて名古屋からは『こだま456号』に乗り換えて掛川まで。名古屋では4分の接続だが、同一ホームでの乗り換えだ。『ひかり』のほうは300系だったが、周りの客は全てスーツ姿。しかも全員押し黙って新聞や本を読んでいるというのが平日の典型的な新幹線のスタイルなのだろうか(溜息)。発車するとすぐに伊吹山が見えた。

伊吹山

浜名湖

伊吹山

浜名湖

名古屋からは新幹線のベテラン、100系。洗車してからホームに入ったのか車体には水滴がいっぱい付いていた。

秋の陽射しを受けながら豊橋に近づくとやがて右手には三河湾の風景が広がった。続いて東海道線の弁天島駅が見えたらもう浜名湖。ここは東京と大阪の中間地点なのだそうだ。

『こだま456号』は三河路から駿河路へと走った。車窓には茶畑が多くなり、それを実感出来る。

掛川で新幹線を降り、金谷までのニ駅間は東海道線の普通電車。東海道線東京口でおなじみ211系電車の4両編成だった(ただしJR東海所属車)。なんだかそのまま東京に行ってしまいそうな気がする(笑)。

 ★大井川鉄道の旅

静岡といえば茶畑

さて金谷からはお目当ての大井川鉄道に乗り換え。その大井川鉄道といえば蒸気機関車の保存と運転で全国的に有名。現在5両の機関車が毎日交代で『SL急行』を牽いて観光客の誘致に懸命だ。この日は2往復の運転で、朝の1本目は全車座席指定の7両編成をしても満席での運転だったとか。
駅を取り囲む小高い山は、茶畑が広がっていた。

元北陸鉄道『しらさぎ号』は、大井川鉄道の本線の終点、千頭駅で静かに後輩の活躍を見守っているという。まずはそこへ行かなきゃならない。もっともこの大井川鉄道は蒸気機関車だけでなく、全国各地の私鉄を引退した電車が現役で働いているというのでも有名(「鉄」には…ね)。実はどの電車に乗れるのかな?とワクワクしていたトコ。

待っていたのは元南海電鉄の「ズームカー」こと21001系電車だった。この電車は難波から高野山(極楽橋)までの直通運転用につくられたもので、平坦な区間での高速運転と、高野山を登る急勾配区間での性能を両立させたもの。カメラのズームレンズを模して名付けられたという。もっともズームカーといえば南海高野線特急のデラックスズームカー『こうや』も有名だったが、観光シーズンにはこの電車も「臨時こうや」というプレートを付けて応援していた。臨時とはいえ特急の名に恥じないよう、車内はクロスシートが並び、荷棚のところにも照明があるのはデラックスズームカー譲り。南海の社紋も当時のまま付いていた。

元南海ズームカー

荷棚の照明もそのままに…

南海の社紋

元南海「ズームカー」

車内の様子は南海時代のまま

南海の社紋もそのまま

大井川鉄道の金谷駅は東海道線に隣接した小さな駅だが、次の新金谷駅がこの鉄道のホームグラウンド。構内には一休み中の電車がたくさん並んでいて「鉄」には興味が尽きない。その中には出番を待つ蒸気機関車や、国鉄から移籍したSL急行用の旧型客車も並んでいて、いずれも郷愁を誘ってくれる。

電車はゆっくり、ゆっくりと大井川沿いに上流への道を辿っていく。途中には大和田と書いて「おわだ」と読む駅がある。JR飯田線にはズバリ「小和田」という駅があるが、それと並んで皇太子御成婚の時には、皇太子妃雅子さまのご実家と同じ名前ということで全国的に有名になったのは、まだ記憶に新しい。

さすがに大きい大井川

「おわだ」駅です

千頭駅

越すに越されぬ大井川?

これが「おわだ」駅

本線の終点、千頭駅の佇まい

やがて電車は大井川中流域の町、千頭に到着した。先に到着していた『SL急行』の乗客は、記念写真撮りの真最中。

 ★感動の再会!

大井川本線の終点千頭駅は、ここからさらに上流の井川までの井川線の起点。この線は険しい地形へと進むため、本線と同じレール幅ながら車両はトロッコサイズというのが珍しい。両方の線の車両が休む駅の構内は、思ったより広大なものだった。その奥の線路には…懐かしい『しらさぎ号』の姿があった!

『しらさぎ号』と再会!
元北陸鉄道6010系『しらさぎ』号

昭和38年、北陸鉄道加南線の急行にデビューしたこの電車は日本初のアルミ製。北陸本線大聖寺駅と山中温泉などの加賀温泉郷を結ぶスターとして活躍した。しかしその後の急激なモータリゼーションの影響を受け乗客は激減、昭和46年には路線は廃止されてしまった。
その後、同型でスチール製の同僚6000系『くたに号』と一緒に、この大井川鉄道に移籍。ただし北陸鉄道の電圧は600Vだったので、1,500Vの大井川鉄道を走るには改造が必要となり、旧型車の足回りを流用した『しらさぎ号』は比較的改造が容易だったようだが、足回りも全て新型だった『くたに号』(のち大井川鉄道で『あかいし号』と改名)のほうは改造が難しく、結局トレーラーとなって他の電車に引っ張ってもらうというものになってしまった。それが原因してか『くたに』号は早晩に引退してしまったが、『しらさぎ号』は現在まで生き永らえてきた。

電車の名前の由来だが、『しらさぎ号』というのは加南線の終点、山中温泉が昔そこで湯を浴びながら白鷺が翼を休めていたという温泉発祥の伝説によるもの。一方『くたに号』のほうは「九谷焼」からとったものだ。移籍してもそのままの名前で活躍を続けてくれたのは、ちょっとうれしい。

子供の頃、父の勤めていた会社の保養所「松陰山荘」というのが山代温泉にあり、家族でよく行ったものだった。大聖寺まで北陸線の普通列車、その先は『しらさぎ号』『くたに号』に乗れるのがすごく楽しみだった。この電車はボクの「鉄」という思いだけでなく、家族の思い出までもが詰まった電車なのだ。

ただし、最近の大井川鉄道には近鉄、南海、京阪など大手私鉄各社からの電車が移籍、『しらさぎ号』は運転されることがなくなり、こうして千頭駅でそれらの電車や蒸気機関車の活躍ぶりをひっそりと見守るだけとなってしまった。うっかりしてると廃車になってしまうんじゃないか…と思い、急遽大井川鉄道を訪れることにしたという話。

 ★目玉商品『SL急行』

大井川鉄道といえば、『SL急行』の話も。

昭和50年3月に当時の国鉄線から引退した蒸気機関車だったが、その保存運転に名乗りをあげたのが大井川鉄道だった。それまでも小型の蒸気機関車を千頭駅構内などで展示運転していたが、北海道にいたC11型蒸気機関車が移籍、国鉄から客車も譲り受け翌年7月には待望の『SL急行』がスタートした。
のち機関車はそれより少し小型のC12型なども戦列に加わったが、何と言ってもC56型(44号機)は異色の存在だ。というのは、この44号機は戦時中日本軍と共にタイ(泰緬鉄道)に出征したもので、戦後もそのままタイ国鉄で活躍していた。映画「戦場に架ける橋」の舞台になったところも走っていたのだ。それが昭和54年に日本へ帰ることになり、大井川鉄道での保存運転を行うことが決まったという。大井川鉄道での再デビュー時は一旦タイ時代の姿のまま走ったが、のちに国鉄時代の姿に復元されて現在に至っている。

ただし、この機関車の運転席の屋根は、通常なら丸いのがペッタンコになっている。これは出征した時に屋根上に機関銃を載せる用意があったからと伝えられており、それは復元されないままとなっている。「戦争」という時代の生き証人的立場を守っているのだ。

『SL急行』の客車は、北陸線などで普通列車に使われていた旧型の客車で編成されている。これまた懐かしいなあ…。朝の1本目は7両編成での運転だったようだが、実は蒸気機関車だけではパワーが足りず、最後尾に電気機関車が連結されて後押しをしているとか。

C11型が牽いてきたSL急行

影の力持ち?

C11型蒸気機関車(312号機)

後押し役のE10型電気機関車

 ★活躍中の電車たち

『SL急行』が観光の目玉なら、各地で活躍していた電車が走っているのは「鉄」の目玉だ。ボクが乗った元南海のズームカーの他、元近鉄南大阪線の特急電車16000系、同じく元名古屋線特急の6421系、元京阪特急の3000系などが当時の姿のまま走っている。

元近鉄特急

元京阪特急

元近鉄南大阪線特急の16000系

元京阪特急の3000系

千頭までの道中、元近鉄特急に何度かすれ違ったが車内の設備もそのままとあって、特急気分で乗れるなんていいなあ…と思ってしまった。ただし今はオシボリは出てこないけど(笑)。

また今は現存していないが、かつて大井川鉄道には『あさぎり』などで活躍した小田急ロマンスカー「SSE車」も在籍していた。こちらでは急行『おおいがわ』として走ったが、老朽化とキャパシティの大きさがネックとなって運転は終了し、その後新金谷で保管されていたものの痛みが激しくなって、惜しくも現在はその姿を見られないのが残念。

 ★大井川下り

千頭駅前で家へのお土産にと特産「川根茶」と羊羹なぞ買い、帰りの電車に乗る。今度も元南海ズームカーだった。

C10型の牽くSL急行

途中の駿河徳山駅ではこの日2本目の『SL急行』とすれ違い。やや遅れてはいたものの、今度はC10型蒸気機関車が5両の客車を牽いて力強く坂道を登ってきた。客車5両なら電気機関車の後押しは要らないようだ。(C12型とC56型は3両まで)

C10型は大井川鉄道に2両在籍するC11型のプロトタイプとなった機関車で、この8号機は昭和5年生まれ。国鉄を引退後、宮古のラサ工業に引き取られて活躍していたが、のちに引退。そのまま保管されていたが宮古でのイベント時に復活、それを機会に大井川鉄道入りが決まり、『SL急行』用機関車の一員として加わったもの。

70年以上も走りつづけているなんて…しかも今もなお、現役。

コトン、コトンというレールの響きに、ついウトウトしてしまった…。朝早かったからだな。気がつくともう山あいを抜け、福用駅に近づいていた。再び新金谷駅で電車や蒸気機関車を車窓から見て、金谷駅に到着。

 ★帰途に

JR東海113系

金谷からの東海道線は「かぼちゃ色」の113系電車。グリーンとオレンジのこの配色は本来「湘南色」と呼ばれてきたものだ。それはこの地域を代表するお茶の葉のグリーンと、みかんのオレンジに由来するもの。戦後の混乱も薄れた頃に東海道線にデビューした80系電車が元祖だ。駅の東海道線ホームのシンボルマークの色は今でもこの配色を使っているのはご存知のとおり。
この色は歴代の東海道線以外の電車も彩ってきたが、来る時に乗った211系からはステンレス車体となり、ストライプとして使われるようになった。JR化以後名古屋地区にデビューした311系からはJR東海のオレンジ色ストライプだけになってしまい、伝統の「湘南色」は、もっぱら最近は東北線・高崎線を引退した115系の「かぼちゃ色」という言い方が有名になってしまった。

でも「鉄」にとっては永遠の「湘南色」なのには間違いない。

掛川で新幹線に乗り換え。名古屋行き『こだま463号』をホームで待っていたら、東京行き『500系のぞみ』がフルスピードで通過していった。は・速い…。270km/hの速さを身をもって実感したが、山陽区間では300km/h出すんだからもっとスゴイ体験が出来るかも。

実は東海道新幹線の名古屋以東に乗るのは子供の頃以来。昔は金沢と東京の間は米原乗り継ぎがポピュラーで、しかも今のように米原に『ひかり』が停車するようになったのは後の話だった。『こだま』と『雷鳥』『しらさぎ』の乗り継ぎしかなかった。
まだ幼かった頃、父が会社の研修で東京に長期滞在したことがあった。途中の陣中見舞にと、母と二人で訪ねて行ったことがあったが、楽しかった東京での日々はあっという間に過ぎ、やがて金沢に帰る日がきた。東京駅で『こだま』に乗るボクと母を、父が見送ってくれた。
別れを惜しむうち発車ベルがホームに鳴り響いた。『こだま』のドアが閉まる時、ボクは別れが悲しくて悲しくて泣きじゃくってしまった。
『こだま』は静々と父を残しホームを離れたが、ボクは新横浜に着く頃まで泣き続けた…新幹線『こだま』にはそんな思い出がある。

名古屋で『ひかり159号』に乗り換え。駅では4分後に『のぞみ19号』が発車する。「『のぞみ』はこの後にまいりま〜す」としつこい位案内しているのに、電車に乗り込むと案の定誤乗でトラブっている様子。早く降りないと発車しちゃうよ…なんて心配までしてしまった。

米原からは『加越7号』金沢行き。電車のサイズは小さくなり、スピードも半分となってしまうが乗りなれた485系クラシックのその走りに、却って安心感を憶えてしまう。そのついで(?)にまた眠くなってしまい…気がつくともう今庄を通過していた。
福井を出る頃にはもう暗くなってきた。10月も下旬だもんな。電車は通いなれた北陸線を快調に飛ばし、18:14定刻に金沢着。

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こうして『しらさぎ号』で『しらさぎ号』に逢いに行くという日帰り旅は終わった。
来年にはJR西日本『しらさぎ』は『加越』と共に新車になるという。そして大井川のほとりで静かに余生を送る元北陸鉄道『しらさぎ号』はどんな運命に…どちらにせよボクの記憶の中に、このままそっとしまっておこう…そんな、妙な満足感に満たされた。いい旅だった。

さて、次こそいよいよ広島かな?

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