Everest
--ちょっとエベレストまで--

 8 Sep.〜 31 Oct.1991

 
カラパタールからのエベレスト

「ちょっと、エベレストまで」その昔、リック・リッジウェイっていう人の書いた本です。
今では、コマーシャル登山も増え、莫大な登山料にも関わらず、多くの人が臨むエベレスト。
ヒマラヤに行くこと自体が大変だったころの記録です。このノリは、いいですね。僕は、好きです。

89年の11月に川崎に転勤になった僕は、蒼氷、JCC、日本登攀クラブ、YCC等いくつか山岳会に問いあわせをし、集会にも顔をだし、最終的に入会したのが、G登攀クラブという山岳会でした。

シブリンの計画があることを聞いたことが、入会の動機になったことは、確かです。
残念ながら、計画はかなり進んでおり、入り込める余地はなかったのですが・・・。

Fの旦那とS君による、シブリン南壁のアルパインスタイルによる登攀は今なお、色あせないすばらしい記録だと思っています。

そして、90年の夏だったか、翌年のエベレストの遠征に参加することを決めました。
アルプスの経験しかない僕にとっては、たとえノーマルの有酸素でのポーラーでもよい経験になることでしょう。
問題は、3ヶ月もの休暇が取れるかどうか。

上司に相談するも、当然のごとく良い返事は得られませんでした。
それでも、参加の意思表示をし、準備とトレーンングを始めました。

準備の中で、退職してでもという意思がかたまり、辞表も用意しましたが、結局有給休暇の範囲での参加にとどめることにしました。

この出来事が、僕の人生において大きなターニングポイントになったことは、確かです。
最終的に決めたのは、僕自身ですが、当時の上司と、京都岳人クラブの故須藤さんとの話し合いが大きな影響を与えたことも確かです。
お二人には、本気で心配していただき、またお叱りも受け、いろいろな意味で感謝しています。

エベレストでの自分自身の目標は、3つ。
酸素を使った登頂および無酸素でのサウスコル到達。
そして、なるべく上部からのパラグライダーによるフライトでした。

高校時代J.M.ボワバン氏による「マッターホルントリプルチャレンジ」なるドキュメンタリを見た僕は、自分のやりたいことは、これだっ!と直感しました。
すなわち、クライミング・カイト・スキー。

そして、白馬村役場で、ボワバン氏のエベレスト頂上からのパラグライダー飛行のビデオを見た僕は、すぐに山道具屋へと走りました。
先輩に機体のアドバイスを受けて選んだ機体は、ジェネ。
奇しくも、ボワバン氏がエベレストフライトで使用したモデルでした。
その後、その先輩はスタチンで大変な目にあっていたし、ボワバン氏も使ったモデルも旧モデルであることが後に判明したのですが・・・。
立ち上げに少しクセのある機体でした。

スクールでの練習以外に、立山、富士山、穂高等からのフライトもこなし少しばかりの自信につなげて、本隊より遅れること1ヶ月、9月8日、台風の近づく成田をあとにしました。
ルクラにて ポータくんと2人だけのキャラバン
ナムチェにてテストフライト。
着陸したら子供がいっぱい集まってきた
ナムチェおよびロブチェでの順応を兼ねたテストフライトをこなし、9月24日BC着。
今なら、もう少しBCまでに時間をかけたでしょうが、若かった当時の僕には、秋の登頂者の、ほとんどが9月下旬〜10月10日の間に集中していることを考えるとあせる気持ちを隠せませんでした。
BCからアイスフォール BCの食堂カルカ
そして、BC到着後登山活動に入っても、高所順応に失敗し、結局C3(7300m)から数ピッチ登ったところが最高到達点となりました。
アイスフォールを登るS代表 キャンプ1
ウエスタンクームからエベレストとローツェ ウエスタンクームからヌプツェ
C3付近から、エベレスト C3付近からプモリ
エベレスト南西壁 ローツェフェース
最後に、順応のいまいちな私と、1度のアタックに失敗し、すでにモチベーションもさがり気味だった、Nさん、Oちゃんで上部を目指してローツェフェースに向かった、10月9日は、それまでに比べてあきらかに風の冷たさを感じ登山をあきらめ、その日のうちにBCへと下ったのでした。

10月11日、3つの目標すべてに失敗して落ち込む私に隊長のiさんは、カラパタールからのフライトを許してくれました。
撤収準備もあるのですが、1人パラを背負い、ゴラクシェプから、カラパタールに向かいました。
カラパタールから見るエベレストは、若干の雪煙を上げながら、高くそびえていたのを覚えています。
パラを出したもの、風が強くなってきたので迷っていると、ドイツ人(たぶん)のトレッカーが手伝いはじめました。
なんとなく、飛ばなくてはならない雰囲気になり、クロスで上げてTakeOff。
ぐっといったん上昇すると風が強くあまり前に進まない。右往左往しながらゴラクシェプに向かうが、酸素の少なさも手伝ってあまり滑空比が伸びず、途中で着陸する。時間にして10数分程度だったのかなあ。
カラパタールにて 飛ばないようにパラを抱えて
こうして、僕らのエベレスト登山は、終わりました。
この年のネパール側からの登頂者は、ロシア隊等、たしか4名くらいだったと記憶しています。

翌年より大幅に登山料も引き上げられ、名実ともに?世界で最も高い山になったエベレストは、もはや一般登山者には、高値の花となり、数少ない一部の先鋭的な登山隊を除き、お金持ちの大衆の山へと変貌していったのであります。

9月26日 BC発〜C1〜BC
9月28日 BC発〜C1泊
9月29日 C1発〜C2(ABC)泊
9月30日 C2(ABC)ステイ
10月1日 C2(ABC)〜BC

10月2日 Nさんら4名が第一次アタック(8500m付近まで)

10月3日 BC発〜C2泊
10月4日 C2(ABC)〜C3泊
10月5日 C3〜数ピッチ〜C2(ABC) 
     Oちゃんら2名が第2次アタック(南峰まで)
10月6日 C2(ABC)ステイ
10月7日 C2(ABC)ステイ
10月8日 C2(ABC)ステイ
10月9日 Nさん、Oちゃんとともに第3次アタックを目指して
    ローツェフェースに向かうが寒気、体調等を考慮して断念する。BCへ下山。
10月11日 カラパタールよりパラグライダーによるフライト。

[番外編]

カトマンズでの後処理を終えた僕らは、残った日程を自由に使うことになり、僕はタイのプーケットへと向かいました。
モンスーンの明けていないプーケットは、観光客も少なく、それなりに楽しい時間を過ごせました。
PADIのOpenWaterを取得して海の楽しさを満喫しました。
3週間ほどの間に7000mと-20mを体験し、少々体調がおかしくなったような、そんな記憶が残っています。
プーケットにてバイクでこけた ピーピー島にて
約1年間、クライミングシューズを封印して、パラと体力トレーニングに励んだ割にさみしい結果となりました。
しかし、ネパールのよさと面白さを味わった貴重な50日間でした。

2003年11月30日 記